琥珀色の戯言

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【読書感想】愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない ☆☆☆☆


内容紹介
妻の死後、アルコールとギャンブルに溺れ、生きる軸を失ってしまったユウジは関西に居を移し、スポーツ紙の競輪記者エイジと出会う。
淋しがりやで、ケンカっぱやい男だった。他人と折り合うことの苦手なユウジもなぜかエイジだけには気を許せ、奇妙な安堵感を覚えた――。
CMディレクター時代の後輩、今は芸能プロダクションの社長である三村と再会した。ユウジを慕い、妻の病室に入れた唯一の男だった――。
「私はあなたの小説が読みたいだけなんだ」と編集者木暮は執拗に迫った――。まっとうな社会の枠組みでは生きられない
三人の“愚者"たちとの濃密な時間、友情を越えた男と男の愛を描いた著者渾身の自伝的長編小説!
10万部を突破したベストセラー、『いねむり先生』と同時代に紡がれた、小説家・伊集院静、もうひとつの「再生」の物語


 先日『ゴロウ・デラックス』という番組に、伊集院静さんが出演されていました。
 前回、この番組に伊集院さんが出演された際に、小島慶子さんの「うるさい」というツッコミ(たぶん、小島さんは軽い気持ちだったと思うのですが)に激怒し、途中退席してしまったということがあって、かなりピリピリしたムードで番組が進められていったんですよね。
 あのとき、「テレビ的な演出として、あるいは、小島慶子の役割として『うるさい』といった相手」に対して、敢然と「そんな言い方があるか!」と立腹した伊集院さんは、「空気が読めない大人」でした。
 しかしながら、あらためて考えてみると「バラエティ番組だからといって、年長者のゲストに、そんな無礼な言葉を浴びせるのが当然だとされているテレビの世界」のほうが、「異常」なのです。
 そういうときに「事を荒立てたくない大人」である僕にとっては、「真似できない、すごい大人」の一人です。


 僕にとっての伊集院静さんという作家は、「同じ人間として、男として、カッコいいなあ、とは思うけど、自分はこういうふうには生きられないだろうな、というコンプレックスも感じる存在」なんですよね。
 ギャンブル好きで、一匹狼な、孤高の男。


 あの松井秀喜選手や武豊騎手が私淑しているというだけでも、なんだかすごいよなあ、と。
 男が惚れる男、とでも言えばいいのかな。


 「競輪」について。

 目の前を走り過ぎる選手の中にアマチュアが混じっていた。プロとアマの違いはひと目でわかる。どれほど脚力のあるアマチュアでも、いったんプロと並べば、その違いは歴然とする。
――何が違うんだろう。
 と注意をして見たことがあった。
 勿論、走行タイムもフォームも違うが、それだけではないのがわかった。
 アマチュアは金に囚われていないのだ。金が解り難いなら、他人の欲望、そして恨み妬みの中を走っていないのだと思った。
 さらに言えば、
「この野郎、死ね」
 と思われたこともなければ、殺気の中を潜り抜けたこともない。それがプロとアマには覿面にあらわれていく。
 否が応でもプロ選手たちは汚れていく。


 とはいえ、こういう生き方って、かなりキツイものではあると思うのです。
 いまでは「有名作家」として、みんながもてはやしてくれるけれど、無名時代は「空気が読めない、ええかっこしいの喧嘩っ早い男」だとみなしていた人も多かったはず。
 『美味しんぼ』の海原雄山をみるたびに「この人、無名時代から、『あるじを呼べ!』とかやってたのかなあ……クレーマーだと通報されたりしなかったのかなあ……」と思ってしまう僕としては、それを現実に若い頃からやっていた伊集院さんって凄いなあ、としか言いようがありません。
 しかも、どこそこ組に入っていたとかじゃなくて、ソロプレイでやっていたんだから……
 ただ、この人の凄味というのは、「有名になってから、そんな態度をとるようになった」のではなく、若い頃から、その「孤高」を貫いているということなんですよ。


 この『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない』は、伊集院さんの自伝的小説です。
 有名女優だった奥様を若くして亡くした主人公は、仕事も手につかず、酒とギャンブルの日々をおくるようになります。
 そんな主人公と深く結びつき、「ふたたび小説を書き始めるまで」をともに過ごした3人の「戦友」たち(+I先生)。
 みんな、喧嘩っ早かったり、酒ばかり飲んでいたり、ときには、友人の妻を「慰める」など、「尋常ではない人たち」です。
 しかしながら、彼らは、彼らの美学に従って生きようとしている。
 そして、主人公の「ユウジ」に憧れている。


 人が人に憧れるというのは、なんだかせつないものだなあ、と、僕はこの小説を読みながら考え込んでしまいました。
 僕などは、そんなふうに他人にみられることはないけれども。
 3人の男たちは、みんな「ユウジ」のことが大好きなのですが、だからこそ、「ユウジの前で、みっともない姿は見せられない」と固く決意しているのです。
 その結果、ユウジとしては「盟友」だと思っていた男たちが弱り、困り果てているという状況を知らないまま、彼らと繋がっている糸が切れてしまいます。
 順風満帆であれば、そんなことはなかったのかもしれないけれども……


 そして、ユウジは、なぜか「生き残ってしまう」のです。
 それは、おそらくユウジの意思ではなかった。
 彼らは、戦場で大将の命を助けるために盾になる影武者のようにも、僕には思われました。
 人って、あまりに好きになりすぎると、その人にSOSを出せなくなることもあるのだよなあ。
 こんな恥ずかしい自分を見られたくない、って。


 今回、この小説を読んでいて感じたのは、「そうやって、生き残ってしまった側の哀しみ」なんですよ。
 「男に惚れられる男」に、僕だって憧れます。
 とはいえ、そうやって、「あなたのことが好きだ」「憧れている」というような「期待」をどんどん背負わされていく人生というのは、すごくつらいのではなかろうか。
 そんな人生って、大事な人を失っても取り乱したりはできないし、自分が癌にかかっても、従容として死に向かわなければならない、そんなプレッシャーもあるんじゃないかな。
 不躾ながら、僕も「伊集院さんは、みっともない死に方はできなくなってしまったなあ」と思いました。
 そういう「重さ」を、逃げずに引き受けて生きていることが、この作家の最大の魅力なのでしょう。

 まっとうに生きようとすればするほど、社会の枠から外される人々がいる。なぜかわかrないが、私は幼い頃からそういう人たちにおそれを抱きながらも目を離すことができなかった。その人たちに執着する自分に気付いた時、私は彼らが好きなのだとわかった。いや好きという表現では足らない。いとおしい、とずっとこころの底で思っているのだ。
 社会から疎外された時に彼等が一瞬見せる、社会が世間が何なのだと全世界を一人で受けて立つような強靭さと、その後にやってくる沈黙に似た哀切に、私はまっとうな人間の姿を見てしまう。


 モテてうらやましい!とか、その「重さ」に目を向けずに言っているうちは、ダメなんだよね。

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