- 作者: 門馬忠雄
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/07/18
- メディア: 単行本
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- 作者: 門馬忠雄
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/09/19
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内容紹介
全日本プロレスを代表する13人のスターを、東京スポーツの名物プロレス記者として鳴らした著者が描く傑物列伝。彼らのマットでの活躍はもちろんのこと、御大ジャイアント馬場が海外に太いパイプを築けた秘訣、三沢光晴に負けてふさぎ込んだ〝完全無欠のエース〟ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーと一緒にやった筋力トレーニング、行儀の悪い外国人レスラーを一喝したレフェリーのジョー樋口など、現場取材40年の著者にしか書けない秘話が満載。アブドーラ・ザ・ブッチャー、三沢光晴、小橋健太、大仁田厚、ファンクス、スタン・ハンセン、天龍源一郎らとのリング外の交遊録も一読の価値があります。
『東スポ』の名物記者による「昭和プロレス回想記」。
「内容紹介」には「秘話が満載」とありますが、一読しての印象は、秘話というより、「ああ、こんなこともあったなあ」と、当時の、昭和のプロレスがいちばん盛り上がっていた時代のことを思い返しながら読む新書という感じです。
採り上げられているレスラーが13人もいますし、ひとりひとりにそんなに大きなスペースを割けるわけでもありませんし。
とはいえ、読んでいると、やはりすごく懐かしい。
そして、私生活まで破天荒だったアントニオ猪木さんに比べて、倹約家だったけれども、約束はちゃんと守るというジャイアント馬場さんの人柄が、全日本プロレスには繁栄されているように思われます。
ここに”鉄人”ルー・テーズが1999年2月2日付の朝日新聞に寄せた追悼コメントがある。
「馬場さんはプロモーターとしても優秀で、契約した金は必ず払ってくれる誠実な人だった。これはこの業界ではとても大切なことで尊敬に値する」
プロレス・ビジネスの実態をつき、これほど経営者・馬場の実像を端的に表現した言葉はほかにない。
そんなの、当たり前のこと、だと思う人もいるでしょう。
でも、「常にギャラをきちんと払うプロモーター」というのは、プロレスの世界では、かなり貴重な存在のようなのです。
全日本は、新日本に比べて、外国人選手の待遇も良かったのだとか。
そのなかで、人気絶頂だったミル・マスカラスが、離島への遠征で、あまりにも無茶なリクエストばかりして困った、なんていうエピソードも紹介されています。
筆者は、馬場の日プロ最後となる夏のシリーズで巡業についた。奄美大島、喜界島、徳之島での3連戦。薩南諸島と巡る船旅だ。同行取材は東京スポーツの筆者と鈴木晧三カメラマン(のち総務局長)だけとはいえ観光ツアーではない。奄美から喜界島に渡る船は、漁船だ。きつい船旅だった。
いろいろ注文がうるさかったのはマスカラスだ。帰路の鹿児島港に向かう船で、「1等船室はないのか」「シャワーがついていないのか」と文句ばかりなのだ。
ついに堪忍袋の緒が切れたのが、レフェリーのジョー(樋口)さん。「テメェー、なに様だと思っているんだ。ニューヨークの連中だって黙ってついてきているじゃないか。ふざけんな!」外国人係という役目を忘れたかのように、最後はもの凄い剣幕で、マスカラスを日本語で怒鳴りつけていた。
そりゃ、漁船に1等客室が無いことくらい、見ればわかるだろ……
まあ、そういうことを口に出せるくらい、当時のマスカラスは、人気があった、ということでもあります。
先日『24時間テレビ』で、マラソンを完走した城島茂さんへの「ご褒美」として登場したマスカラスさんは、すっかり「人格者」になっていたんですけどね。
プロレスというのは、本人のパフォーマンスだけではなく、相手選手にいかに合わせられるか、というのが大事なのです。
そういう意味では、「ホウキとだって感動的な試合をしてみせる」と豪語したという伝説があるアントニオ猪木さんは、たしかにすごかった。
この本によると、ミル・マスカラスと、「超獣」ブルーザー・ブロディは「自己主張が強く、相手のファイトスタイルに合わせない選手」だったそうです。
やがて、馬場が心配していた事態が起きる。マスカラスとブルーザー・ブロディが衝突したのだ。1983年12月5日、福岡国際センターの公式戦でマスカラス&ドス・カラス組とスタン・ハンセン&ブロディ組が激突、テレビ放送の日だった。
自己主張の強いブロディは、相手のファイトに合わせるタイプではない。相手を自分のペースに乗せようとする、マスカラスとブロディは、タッグマッチであるにもかかわらず、ファイトがまったく噛みあわない。ブロディがイライラしてマスカラスを張り倒そうとする。マスカラスは、これをスカした。
これでは試合が成り立たない。見兼ねたパートナーのハンセン、ブロディからタッチを受け、ポストからボディアタックにきたマスカラスに対し、下から思い切り蹴飛ばしたのだ。
不意打ちを食った形のマスカラスは腹を押さえて悶絶、見るも無残な姿をさらけ出した。ここでドス・カラスが飛び出し、ハンセンと派手な殴り合いに突入。両軍リングアウトの引き分けに終わった。誰の目にもギクシャクした試合に映った。試合後、馬場は「やっぱりなあー」と苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたという。
いがみ合うマスカラスとブロディに割って入り、試合をどうにか成立させたハンセンとドス・カラスは、大人だったということか。馬場はそれ以後、マスカラスとブロディを対戦させず、その後マスカラスを呼んだのは、1985年10月の「ワールド・チャンピオン・カーニバル」のみだった。
マッチメイクというのが、いかに重要だったのか、がわかるエピソードではあります。
あの強いスタン・ハンセンさんの「気配り」なんていうのも、なんかちょっと笑ってしまいますが、タッグパートナー選びも大変です。
著者は、1988年にブロディが、プエルトリコで地元のレスラーに刺殺されてしまったのも、「傲慢で理屈っぽい性格が裏目に出たのではないか」と述べています。
そのニュースを聞いたときには、「ブルーザー・ブロディでも死ぬのか……」と驚いた記憶があるなあ。
そんなにディープな「裏事情」的な話ではありませんが、昔『プロレス・スーパースター列伝』をワクワクしながら読んだ子どもの成れの果てである僕には、なんだかとても懐かしく、読んでいていろんな当時のことを思いだしました。
楽しかったよね、昭和のプロレス。