琥珀色の戯言

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【読書感想】スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか ☆☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
相手が先生だから、
抵抗できなかったーー
一部の不心得者の問題ではない。
学校だから起きる性犯罪の実態。
10年以上にわたって取材を続けてきた
ジャーナリストによる執念のドキュメント


「学校でそんなことが許されていいはずがない」と
いう強烈な怒りに突き動かされて私は学校で起きる
性被害「スクールセクハラ」の取材を続けてきたーーなぜスクールセクハラは後を絶たないのか
カラオケに行こうと誘いホテルへ連れ込む/試験問題見せ引き留め/携帯電話を買い与える/部活動で「服脱げ」と指導/担任からのしつこい「清香ちゅわ~~~ん」メール/「隙があったのでは」と被害者を責める二次被害/隠蔽体質/教育委員会の事なかれ主義……etc.
一部の不心得者の問題ではない。
学校だから起きる性犯罪の実態。
10年以上にわたって取材を続けてきた
ジャーナリストによる執念のドキュメント


 僕はこの本をKindleで読んでいたのですが、あまりにも読んでいるのが辛くなり、何度もKindleを床に叩きつけてしまいたくなりました。
 学校での教師と生徒の「不適切な関係」。
 なぜ、そんなことが起こってしまうのか。
 それは、誰のせいなのか。


 もうだいぶ前の話になりますが、テレビドラマ『高校教師』がセンセーショナルに放映されていたとき、同級生が「私のお姉ちゃん、高校の先生と結婚したんだよね」という話をしてくれました。
 曰く、学校では、教え子と結婚する男性教師は、けっこう多いのだとか。
 でも、お姉さんは、のちに、離婚してしまったそうです。
「『先生』だったときには、すごく大人で、立派な人に見えたのだけれど、大人になって、世の中のいろんな男性に接してみると、どんどん失望が積もってしまったんだって」


 でも、この場合は、まだ、お互いに「本気」だった、とも言えます。
 教師と生徒がお互いに愛し合うことがある、というのもわからなくはない。
 教師は自重してほしいし、そうするべきだとは思うけれど。


 しかしながら、この『スクールセクハラ』で、著者が明かしているのは、「教師が自分の立場を利用して、生徒に性的な関係を強要した」という事例なのです。

 最初に被害者の悩みを直接聞いたのは、もう十年以上も前になる。教育関係の仕事に携わる二十代の横山智子さん(仮名)から重い告白を受けた。「高校生の時、担任の教師に乱暴されたんです」。まだ男性とキスすらしたことがなかったという。
 その告白を聞いたころ、智子さんは大学を卒業して働き始めたばかりだった。つらい経験をした高校二年生の日から彼女の人生は大きく狂った。見た目は幼い印象も受ける可憐な女性だが、内面は嵐が吹き荒れ、それを抑え込みながら学び、そして働いていた。三十代になった今でも両親には内緒だ。「心配させたくないから、一生話さないと思います」と言う。

 彼女は高校二年の秋、進路指導の面談で担任教師の山本武から「カラオケに行こう」と誘われ、断り切れずに車に乗せられてホテルで乱暴された。
「まさか先生がそんなことをするなんて」
 誰にも言えずに悩むうち、摂食障害になった。大量に食べては吐く日々。勉強どころではなく、成績は極端に落ちた。それでも担任がいる地元から逃げようと必死に勉強し、関東の大学に入ったが、その後も悩み続けた。卒業し、就職してからも悩みは続いた。
「どうしてついて行ったのか。なぜ大人に相談できなかったのか、と自分を責めました」


「カラオケに誘われた日曜日のこと」を、横山さんはこう振り返っています。

 三十分もすると車は町を二つ過ぎていた。
「やっぱりカラオケに行ってみようか」
「はあ……」
 山本は話しながら山道を進む。民家すらない。林道の木が太陽の光を遮る。昼前なのに夕方のように暗く、不安が募った。
「こんな所にカラオケなんかあるんですか」
「走ればあるだろう。でも、カラオケボックスだと、知り合いに会うかもしれない。立場上、教え子と出掛けるのはまずいんだ。ホテルでもいいかな」
「ホテル?」
 声が上ずり、せき込むまねをした。
「うん、今はホテルにカラオケが付いているからね。もちろん、カラオケ以外は何もしないよ。心配しないで」
 うろたえるのはみっともない気がした。先生は本当にカラオケに行きたいだけだろう。でも、ホテルってラブホテル? 車から逃げて、歩いて帰ろうか。だけど、腕を引き寄せられたら逃げられない。
「大学の推薦入試を受けるのなら内申書を握られてるなあ、と受験を意識しました。友人や他の先生に悪いうわさを流されたら学校に行きにくくなるし。ついていくのが無難な選択だろうと考えました」
 智子さんはその時の心境を振り返った。
「私は『無難』がキーワードなんです。最良の選択をして無難に、と思ったけれど、全然ずれていました」


 これを読みながら、「カラオケだけ」のわけないだろ、そんなオッサンに騙されるな、逃げろ、智子さん……と僕は心の中で叫ばずにはいられませんでした。
 それが、もう終わってしまった過去に届くはずないことは、わかっていたのだけれども。


 両親が教師で、「真面目な良い子」だった智子さんは、まだ「世間」を知らなかったのかもしれない。
 そこを、こんな「教師の皮をかぶった最低の人間」につけ込まれてしまったのです。
 こういう連中は「その後に騒いだりしないような、おとなしい、自分で抱え込んでしまうような子ども」をターゲットに選ぶ「嗅覚」を持っているんですよね。
 

 著者による、被害者の心の動きを詳細に辿った文章を読まなければ、僕だって、「いや、無理矢理誘拐されたんじゃないんだから、断る機会はいくつもあったはず。もう高校生だったんだし、この子も『脇が甘かった』んじゃない?」とか、考えていたかもしれません。
 でもさ、中学生や高校生って、まだまだ「大人に嫌われたら、自分で生きていけるかどうか不安な時期」なんだよね。大人になってしまうと、そうだったことをみんな忘れて、「小さな大人」だったように記憶を書き換えてしまうけれど。
 テストの成績や内申書や、どこの大学に合格するかが、人生のすべてを決めると思い込んでいた時期が、僕にもありました。
 智子さんの「とにかく、先生に嫌われると困る」という気持ち、いちおう「真面目な学生だった」僕にもわかる。


 そして、「ついていったほうにも、責任があるんじゃない?」というような言葉が、またいっそう被害者を傷つけ、人に話すことをためらわせてしまう。
 その結果、味をしめた「問題教師」の多くは、同じことを繰り返していくのです。


 このノンフィクションでは、著者が、被害者の女性とともに、加害者の教師に直接話を聞く場面が出てきます。

 一呼吸置いて質問を続ける。
「ホテルでは具体的にはどんな行動を取りましたか」
「……小学校の先生が『いい子、いい子』と頭をなでるような、抱きしめてあげるような心境だろうな」
 微妙に問いと答えが食い違う。山本は少しずつ、しかも確実にごまかそうとしていた。インタビューの形を取りながら、事実を認めさせなければならない。山本の言葉をこちらも意識的に繰り返して尋ねる。
「何度か関係を持ったのは間違いないですよね。『いい子、いい子』という情みたいなものから愛情に変わっていったということなんですか。気持ちの変化はどんなふうだったんでしょうか」
「気持ちの変化というのは、私一人じゃないですよね。相手があることです。本当の大人であれば、乗車を拒否するでしょうし。拒否しなかったので、智子にも気持ちがあったはずです。智子は一人の女性として見られる年齢だったし、そう見えたんだよね」
 ある時は「大人」。都合のいい時だけ子ども扱い。矛盾だらけだ。どう攻めるか私が頭をフル回転させていると、智子さんがぽつりと言った。
「初体験で、何が起きるか分かりませんでした。本当にカラオケだけだと思っていたから。最初はすごくびっくりして、抵抗しましたよね」
「…………」
 答えない山本に私が質問を重ねる。
「先生としては、初体験ということを聞かされた時、ショックでしたか」
「それは……今、初めて知った。……最後まではしていないが。最初から力づくではないが、初体験ということもあって、彼女は男の力のなすままに身を委ねたかもしれない」
 自分に都合のいいように弁解しつつ、それでも反省しているのかと思った途端、山本の口から正反対の言葉が出てきた。
「でも、二人で会って楽しんでいたよ。最後に会った時まで明るかったもんな」
 山本は「二人で楽しんだ」という言葉を何度も何度も繰り返し、強調した。智子さんはすっかり黙り込んでしまった。


 本当に……こんな教師が、いや、こんな大人がいてもいいのか……
 この会話を読んでいて、僕は、この山本という男が嘘をついているのか、本当に「二人で会って楽しんでいた」と思い込んでいるのか、わからなかったのです。
 それがまた、なんとも腹が立って。


 でもなあ、一度、こういう「自分の権力を利用して、誰かを思いのままにする」という経験をすると、人って、いろんなものが麻痺していくのかもしれないな、という気もするんですよ。

 
 この本に出てくる「問題教師」のひとりは、こう述懐していたそうです。

「教師の仕事は好きでした。でも、根本的なところで間違っていました。自分が権力を持っているなんて考えもしませんでした」

 学校という世界でずっと教師をやっていると、自分の「権力」に無自覚になってしまうのです。
 その「権力」が「自分自身の魅力」だと、思い込んでしまう人も多い。
 その一方で、「権力」を自覚し、それを利用して、立場の弱い人ばかりを食いものにする人も少なからずいます。
 僕は医療の世界で仕事をしているのですが、この「権力」は、医者にだって、ある。
 それを利用している人を、僕も見たことがあります。
「相手は成人」だから、スクールセクハラと同じにしてはいけないのかもしれないけれど、こういう「パワハラで性的な関係を強要すること」は、学校だけの出来事ではないのは、周知のとおりです。

 
 学校や教育委員会に告発をしても、加害者が否定をしつづけていれば、「証拠不十分」ということでその教師は不問に処されたり、しばらくしてから他校へ転勤、程度で済まされてしまう。
 そのような「セクハラ」というのは、密室で行われ、証拠が残りにくいものでもあります。
 みんなが薄々わかっているような状況でも、なかなか「立件」されることはないのです。
 
 

 中学時代、体育館の控室で原口達也から下着姿にされた生徒は早苗さんだけでなかった。指導を名目とした、セクハラとパワハラを合わせたような「儀式」はすぐレギュラーの六人全員に広がった。
「試合に勝つには、先生と気持ちを合わせる必要がある」「そのためにプライドを捨て、心を裸にしなければならない」「だから下着姿になるのは当然だ」。原口の奇妙な三段論法は、不思議なことに女子中学生たちにすんなり受け入れられていた。誰も親に話せず、長く続いた。

 この本のなかには、部活動の「カリスマ指導者」による、部活全体を巻き込んだ女子生徒たちへのセクハラも採り上げられています。
 女子柔道界のパワハラ、セクハラの話題が近年続いていますが、学生の部活動においては、「大会などで実績を残した指導者は、アンタッチャブルな存在になってしまう」ことが多いそうです。
 被害に遭った生徒たちも、卒業してしまうと、「訴えたら、自分が今まで打ち込んできたことが否定されてしまう」と、泣き寝入りしたり、酷い場合には、告発しようとする仲間を妨害したりすることもあるそうです。
 そういう指導者というのは「マインドコントロール」に長けていて、「信奉者」も多いのです。

 トラブルが表沙汰になっていく過程で、被害者の女子生徒は校長を取り巻く人々からさまざまな嫌がらせを受けた。
 発覚当初、ある剣道部員の母親は、女子生徒が通う学習塾の前で待ち伏せして車に乗せ、親切を装って言った。
「本当のことを言いなさい。今なら、私が校長先生に謝ってあげる」
 生徒は進学先を県立高校から県外の私立高校に変更した。それでも、入学後、ストレスで体調を崩し、結局、その私立高校を中退せざるを得なくなった。
「訴訟で勝ってもなかなか救われないのが実情です」
 支援した亀井さんは嘆く。
「この時は、被害者を守ろうとしたPTA会長の女性まで周囲からの嫌がらせに遭いました。
 小学生だったPTA会長の子どもが、見知らぬ男に母親の名前を確認されて「どうなっても知らないぞ」と脅される出来事まで起きた。その後、子どもは転校せざるを得なくなった。


 「モンスターペアレント」の矛先は、学校側に向くとばかりはかぎらない。
 こういう形で、「学校側の問題を告発し、被害者を守ろうとする人々」に向けられることもあるのです。


 そして、一度そんなセクハラ・パワハラの被害に遭ってしまったら「訴訟で勝っても、救われない」。
 若い頃に受けた精神的なトラウマに加えて、周囲の好奇の視線も、被害者を傷つけつづけるのです。

 文部科学省によると、1990年度にわいせつ行為で懲戒免職になった公立小中高校の教師はわずか3人だった。ところが、過去最悪となった2012年度には、なんと40倍の119人に達している。その被害者は教え子が半数を占める。停職などを含めたわいせつ行為による処分者全体でも、90年度に22人だったのが03年度には196人と急増し、その後も高止まりが続いている。急に教師の質が落ちるはずがなく、見過ごされてきたのが厳しく処分されるようになっただけだ。


 どうか、ひとりでも多くの人に、この本に書かれている「スクールセクハラ」のことを、知ってもらいたい、僕もそう願っています。
 もし、あなたが中学生や高校生の親なら、この本を読んでみてほしいのです。
「女の子の親なら」と書こうとしたのですが、この本には、男の子がセクハラを受けた事例も紹介されています。
 女の子に比べて確率は低くても、男の子だから絶対安全、というわけではありません。
 そして、子どもたちにも、ぜひ読ませてあげてください。
 こういうことが現実に起こっていることを知れば、子どもたちも、危険な状況を見分けることができる可能性が高くなるから。
 わからないときには、親や信頼できる大人に相談してみよう、と思いだしてくれるかもしれないから。
 こうして、「スクールセクハラをやっている教師が、世の中にはいる」という知識を僕たちが共有していることをアピールすれば、彼らだって、好き放題にはできなくなっていくはずだから。


 (あまりいないかもしれないけれど)小学生、中高生で、このブログを読んでくれた人がもしいれば、どうか、この話を心の片隅に置いていてください。
 もちろん、悪い先生なんて、ごくごく一部です。
 でも、本当に人を信じるっていうのは、誰かの言いなりになるってことじゃないんだ。

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