琥珀色の戯言

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【読書感想】セロニアス・モンクのいた風景 ☆☆☆☆


セロニアス・モンクのいた風景

セロニアス・モンクのいた風景

内容紹介
頑固で優しく、偏屈だけど正しい――モンクの音楽は、いつも大きな謎だった。演奏も振る舞いも「独特」そのもの。しかし、じっくり耳を傾ければその音楽は聴く者の心を強く励まし、深く静かに説得してくれる――高名な批評家、若き日を知るミュージシャン、仕事を共にしたプロデューサーなどが綴った文章に加え、村上春樹自身のエッセイと「私的レコード案内」でその魅力の真髄に迫るアンソロジー。


 この「内容紹介」を読むと、村上春樹さんが書いた文章が多くを占めているような印象を受けますが、実際は、村上さん自身が書いたものは、冒頭の「セロニアス・モンクのいた風景」と、「私的レコード案内」「あとがき」で、全300ページの10分の1、くらいです。
 ただし、セロニアス・モンクについて書かれた文章のセレクトと翻訳は村上春樹さんの手によるものなので、ファンにとっては「村上春樹の匂いがする本」ではありますね。


 僕はジャズに疎くて、セロニアス・モンクというミュージシャンについては、「名前はかろうじて聞いたことがある」程度です。
 その程度で、こんな本を手にとってしまって、失敗したかな……とも思ったのですが、この本を読んでいると、セロニアス・モンクという人の音楽を体験したくなってくるのです。


 村上春樹さんが書かれた「セロニアス・モンクのいた風景」より。

 セロニアス・モンクの音楽の響きに、宿命的なまでに惹かれた時期があった。モンクのあのディスティンクティブな――誰がどこで耳にしてもすぐに彼のものだとわかる――極北でとれた硬い氷を、奇妙な角度で有効に鑿(のみ)削っていくようなピアノの音を聴くたびに「これこそがジャズなんだ」と思った。それによってしばしば温かく励まされさえした。十代の終わりから二十代の初めにかけてのことだ。

「極北でとれた硬い氷を、奇妙な角度で有効に鑿(のみ)削っていくようなピアノの音」か……
 この表現だけでも、セロニアス・モンクの音楽について、かなり豊穣なイメージが浮かんでくるのです。

 
 音楽を文章で語るのって、すごく難しいと思うんですよ。
 もう、「四の五の言わずに、とにかく聴いてみて!」としか言いようがないというか、百聞は一聴にしかず、というか。
 それでも、音楽を言葉にして語らざるをえない、あるいは、語りたくてしょうがないこともある。
 この本で、村上春樹さんが翻訳している、セロニアス・モンクについてのさまざまな文章は、「セロニアス・モンクという不世出のミュージシャンと、彼が生み出す音楽への愛情」にあふれているのです。
 ああ、人間は、こんなふうに、「音楽を言葉にできる」のだな、と、感心しながら読まずにはいられませんでした。


 「音楽を文章で紹介すること」の難しさと面白さが、この本には詰まっているような気がします。


 モンクが、雑誌『タイム』の表紙になった際に同誌に掲載された記事「いちばん孤独な修道僧」(バリー・ファレル著)より。

 モンクの最良の音楽が聴きたければ、マンハッタンのロワー・イーストサイドにある「ファイブ・スポット」というカフェに行けばいいというのが相場だった。彼は今年の1月、その店における7ヵ月に及ぶ出演を、多大な好評を博して終了したばかりだ。「ファイブ・スポット」の雰囲気はモンクの気分にまさにぴったりだ。暗くて、いくらか湿り気があり、煙草の煙が壁に染み込み、ブルーだ。毎夜毎夜、モンクはそこで自作の曲を弾き続けた。同じ曲を何度繰り返し弾いても、その興趣は褪せず、語るべきことは尽きないようだ。
 それから彼はピアノの前からやおら立ち上がり、モンク風ダンスを始める。それはいつものことだ。彼の両脚は柔らかいすり足でそよそよと動き、その身体は小さなサークルを描いて回転する。帽子の縁が襟にくっつくくらい首は後ろに反らされ、両手は顎鬚をぐいぐいひねって、それを短剣の尖った鞘のような形にしてしまう。彼の両目は超然とした眠気のようなものに覆われ、その唇は瞑想的なO(オー)の字の形にすぼまっている。彼の信奉者たちで店は埋まっているかもしれない。しかしモンクが人々のあいだを動き回っているあいだ、彼に話しかけたりするものは一人もいない。彼は壊れやすいトランス状態の中にいる。そして三人のサイドマンたちは、モンクが最後の叫びを上げると、彼は急いでピアノに駆け戻り、その両手は猫のように機敏にピアノの鍵盤に跳びかかる。その最初の思わず息を呑むようなコードからして、彼の音楽は火災報知器のごとく急を告げている。


 「モンク風ダンス」!
 なんかもう、これを読んでいるだけで、セロニアス・モンクのステージの動画を検索したくなってしまいます。
 この文章もまた、「音楽」なんだよなあ。
 

 この本では、モンクの音楽、ステージの話だけではなく、彼を支えた人たちや、ミュージシャン仲間のさまざまなエピソードも出てきます。モンクの病気の話も。
 僕がジャズに詳しければ、よりいっそう愉しめたんだろうなあ、と思いつつ読みました。


 高名なジャズ評論家・ナット・ヘントフさんの「通常のピアニストがまず行かない場所に」のなかに、モンクのこんなエピソードが紹介されています。

 ひとことで言えば、彼は揺らぎなく自分の音楽を持った人だから、仲間のミュージシャンの間で(リスナーのことはいわずもがな)今何がヒップだと思われているかとか、そんなことに惑わされたりはしない。「ジャズ・アメリカ音楽クォータリー」にグローヴァー・セイルズが洞察力のある記事を書いたが、その中にこのようなモンク発言の引用がある。「私が言いたいのは、自分のやりたいように演奏すればいいということだ。世間が何を求めているかなんて考えなくていい。演奏したいように演奏して、自分のやっていることを世間に理解させればいいんだ。たとえ15年、20年かかったとしてもだ」


 読んでいて、「音楽を言葉にする情熱と技術」が詰まっていることに、圧倒される本なんですよね、これ。
 僕がセロニアス・モンクに詳しくないので、かえって、先入観を持たず、内容の是非の判断をすることもなく、読めたからかもしれませんが。


 この本、もともとは、安西水丸さんが表紙を描く予定だったそうです。
 「おわりに」で、村上さんは、水丸さんとセロニアス・モンクのごく短時間の邂逅について紹介し、こう述懐されています。

 水丸さんの描いたセロニアス・モンクの絵を見ることなく終わってしまったのは、悲しく、また心残りだ。その絵の中でモンクはあるいはハイライトを吸っていたかもしれない。その絵を失ったことを、僕は心から惜しく思う。人の死はあるときには、描かれていたはずの一枚の絵を永遠に失ってしまうことなのだ。

 この文章には、村上さんの「長年の盟友を失ってしまった悲しみ」が込められているように、僕には思われました。
 ああ、でも、みんないつか、その順番がやってくるのだよなあ。

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