
- 作者: 入江昭
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/04/18
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- 作者: 入江昭
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内容(「BOOK」データベースより)
いつから「現代」になったのか?それは「近代」と何が違うか?わかりやすい国単位の歴史に惑わされて、地球規模で進行する大きなうねりを見逃してはならない―世界の今とこれからを考えるための必読書!私たちはどんな時代を生きているか。ハーバード大・歴史学部の名誉教授が渾身の書き下ろし!
著名な歴史家からみた「現代」とは。
歴史というのは過去から連綿と繋がっているもので、「現在」も、こうやってキーボートを叩いているうちに「過去」になっていきます。
そして、歴史の見かた、とらえかたも、時代によって変わってきているのです。
「現代」とは何かを考えるための入り口として、「冷戦史観」と呼びうる見方を検討してみたい。それは、「冷戦後」の世界を「冷戦期」の世界と分けて考え、冷戦の終結が「現代」をもたらしたのだとする見方である。
一見、わかりやすい。第二次世界大戦後長らく続いた冷戦が1990年前後に終結したのは、たしかに重要な史実である。
しかし、それでは「冷戦後」とは何を意味するのか。それは戦争ではなく平和の時代だといえるのか。仮に平和の時代といえるとしても、その「平和」とはどのようなものなのか。19世紀の平和とはどう異なっているのかなど、いろいろな問題が出てくる。
もっと根本的には、先ほども述べたように、世界の歴史を戦争の有無によって時代区分するのは、はたして適当な見方なのだろうか。それは「戦争決定論的史観」あるいは「強大国中心史観」ともいわれるべきものであるが、ミュンヘンの学会でも見られたように、「戦争」といっても実際の戦闘だけではなく、その前後の社会、文化なども考慮に入れなければバランスのとれた歴史理解にはならない。
同じようなことは、「冷戦後」は米国が「世界唯一の超大国」になったのだとか、現在は「米中二国の覇権争い」の時代だ、とするような見方についてもいえる。これらはいずれでも地政学的、現実主義的な解釈である。
しかし、それが現代史の理解に役立たないことは、たとえば米中二国が世界第一、第二の経済大国として相互依存的な状態にあることを考えてみればわかる。
さらに言えば、米中関係といっても、国家や政府だけでなく、多数のアメリカ人、中国人によって織りなされているものであることを認識すべきである。貿易のみならず金融、観光、教育などの面で彼らは密接なつながりを作っている。
しかも「アメリカ人」のなかには百万を超える中国人が含まれているのだ。簡単に国単位で米中関係を理解することなどできない。経済、社会、文化などの面において米国と中国は多くのものを共有している。そのような現象を理解するうえで、「冷戦後」といった時代区分は無意味であろう。
この本によると、近年の歴史学では「歴史を国単位で考えること」というのは、時代遅れだと考えられているそうです。
国と国との交流(戦争も含む)が盛んになってくると、ひとつの「国」という単位で、物事を決められなくなってしまうのです。
歴史が教えてくれるように、ドイツのナチスやイタリアのファシスト、あるいはソ連の共産党政権のような中央集権的な政治体制は崩壊した。つまり、国内のネットワーク作りを独占しようとした国家権力は、長続きしなかったのである。
それどころか、1970年代以降になると、民主主義国家においても、中央政府の権力が弱まり、市民社会の影響力が高まるという現象が生じている。いわゆる「大きな政府」から「小さな政府」への転移である。
人間のつながりの歴史の歩みのなかで、1970年代がきわめて重要な転換期だったというのは、このような流れを背景としている。すなわち世界中で国家ができあがっていたまさにそのときに、グローバルなつながりもかつてないほどの規模とスピードでできあがり、その結果、国家という存在の相対的な影響力も弱まり始めたのである。
グローバル化の波が世界各地を覆うようになった時点で、すべての国家もその影響を受けることになり、その多くが「大きな政府」から「小さな政府」への傾向を見せ始めるのは、もちろん偶然ではなかった。
「小さな政府」が唱えられはじめたのは、ひとつの国の経済の行き詰まりが原因ではなく、世界的な「国家という存在の影響力低下」によるものだということなのです。
これだけ人やモノの行き来が盛んになると、国単位ではどうしようもなくなってしまう面がある。
現代世界におけるノンステート・アクターズの中でも、明らかに経済のグローバル化と結びついているのが企業、とくにいわゆる多国籍企業である。
いまやヒト・モノ・カネの流れが国境を越えて強まり、いろいろな国の労働・製品・金融などがつながり合っている。そういう世界では、ある特定の国の資本家や企業が国内でモノを作って海外で売るというのではなく、いろいろな国の資金が海外に投資されて製造業やサービス業を起こし、製品を世界中の消費市場で販売するのが一般的となっていく。極端にいえば、どの製品やサービスも複数の国で作られ設けられ配布されて、それに関する情報もインターネットを通じて世界中に伝えられる。70億の世界総人口を潜在的な消費者として、同じものを購入したり利用したりしているのであり、まさにグローバルな現象である。
そのような仕組みは「オフ・ショアー」と呼ばれる。つまり自国の海岸(ショアー)を越えた場所でモノを作ったりサービス業を設置したりするということだ。あるいはヒトやカネを外国に求めるという意味で「アイトソーシング」という言葉が使われることもある。いずれにしても、国内と国外との領域が厳格なものではなくなっているということだ。
日常の食品からコンピューターにいたるまで、百パーセント自分の住む国で作られたものの比率は低下する一方である。サービス関係でも、たとえば米国にいて航空券の予約をしたり保険会社に電話をかけたりすると、インドやメキシコにつながることが多いことは、私もしばしば経験してきた。
多国籍企業は、そのようにして複数の国の企業家、労働者、消費者がつながって作りあげたコミュニティである。この文字通り多国籍のネットワークは、従来の国家という概念や単位では把握しきれない、超国家的(トランスナショナル)な現象だ。そして、複数の国の資本や労働を結合するコミュニティである以上、多国籍企業が追求するものは、従来のような特定の国家の「国益」とは別のものである。伝統的な国家という枠組みにはまったく収まらないのである。
たしかに、現代の「日本の国益」とは、いったい何だろう?と考えると、かなり難しいような気がします。
日中関係は、感情的にはけっして良好とはいえないけれども、経済的には、もはや断交することはできないほど密接に結びついているんですよね。
いろいろとプレッシャーをかけられて、苛立つのも事実なのですが、「争って勝つのが『国益』にかなっている」とも言い切れない。
とはいえ、「こちらから尖閣諸島を差し出す」なんてことができるわけもなく。
国という概念が揺らいでいるなかでは、「国益」=「国民ひとりひとりの幸福」とも限らないのです。
逆に、ここに書かれているような多国籍企業が「企業の利益」のために、献金などを通じて国の方針を揺り動かしている場合もあります。
たとえば、アメリカの保険業界が「オバマケア」に対して、強力なロビー活動で抵抗したように。
著者は「グローバル化」を好意的にみているように感じたのですが、僕はグローバル化というのは、国境を曖昧にする一方で、「持てる者」と「持たざる者」との格差を広げていくのではないか、とも危惧しているのです。
もっとも、そう考えてしまうのは、僕自身が「比較的恵まれている国」であった(過去形)日本で生まれ育っている、というのも大きいのだろうなあ。
世界がフラットになって、できる人にはチャンスがある世界を望ましく感じている開発途上国の人も、多いのだろうから。
内容としては、そんなに目新しいものではないなあ、と思ったのですが、歴史家たちの学会の場でも「国単位での歴史認識」が、もう時代遅れになってきているということには驚きました。
正直「国」という枠組みを外して歴史を考えるというのは、あまりにつかみどころが無いような気もするんですけどね。今のところは。