琥珀色の戯言

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【読書感想】第152回芥川賞選評(抄録)



Kindle版もあります。
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今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった小野正嗣さんの『九年前の祈り』と芥川賞の選評が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

小川洋子
『指の骨』の中で、例えば薬棚の描写や、巨大なタコの樹を見上げる場面を、私はうっとりしながら読んだ。思い浮かぶイメージのどこに焦点を絞るか、高橋さんは的確に判断し、簡潔な言葉でそれをすくい上げている。ただ、既にある圧倒的な現実を題材に選ぶ以上、小説の形でしか表せない何かが必要になってくると思う。その何かが見え辛かったのが残念でならない。

奥泉光
(『指の骨』について)

 あの戦争(太平洋戦争)の体験が十分に経験化されていない現在、正しい手続き(が確定されているわけではないが)に則った歴史叙述が強く望まれるところだが、もちろん虚構として小説を編むこともできる。だが、その場合には、作家の「いま」への問いがなければならないだろう。「いま」あの戦争を虚構として書く、そのことの意味が鋭く問われざるをえないだろう。でなければ、死者たちを、悲惨を舐めた体験者を、極端な言い方をするならば、ただ搾取することになってしまう。小説が「何をどう書いてもよい」ジャンルであるからこそ、そうした倫理が必要だと自分は考える。


(中略)


 大岡昇平「野火」では、最後、全体が「狂人の手記」であったことが明かされる。これが自分はかねがね疑問で、つまりそんな構成など必要ないのではないかと思っていたのだけれど、戦争を直接体験した大岡昇平ですら、体験から虚構を編むにあたって、メタフィクショナルな構成をとらざるを得なかったのだと、今回思い至った。遭遇した敵兵の「顔」を見ながら射殺する。飢餓のあまり人肉を食す。そうしたことを現実に体験した人はいただろう。しかし、体験をせぬ者が、それをリアリズムの手法で描くには、深い懼れが必要ではないだろうか。

高樹のぶ子
 受賞作「九年前の祈り」はこれまでの候補作の中では最も風通しが良く、作者が舞台としてきた地方の「浦」は世界と繋がり、土着の世界が相対化されている。前作までの「浦」に立ちこめていた陰湿な臭いが消えた分、明るく軽く立ち入りやすくなったが、物足りなさも感じた。こだわりの勝利か。

山田詠美
『惑星』。<だが進歩させるほどに、逃げ場は塞がれていき、出口であると思っていたものが、憧憬を持ち続けられるかもしれないと思っていたものが、既存のものと同じだけ味気ない。何らの外部性も持たない、ただの現実の付属物にすぎないと思うに至る>……長くなってしまったが、この一文が本作の特長を良く表していると感じたので引用した。何でもあり、が小説文章の奥の深さであるとはいえ、これ、何言いたいのかさっぱり解んない。……ねえ、もっと簡単に書けないの? そんなにもったいぶるほど、アイディア満載の作品とはとても思えないけど?

宮本輝
 高尾長良さんの「影媛」は日本書記を下敷きにしてはいるが、そのパロディでもないし、作者独自の展開とも思えない。なにを読み手に与えようとしたのかが、まったく不明なのだ。
 とにかく読みにくくて閉口した。人命などはすべてにルビを付けてもらわなくては読めないというようなものはすでにそれだけで一篇の小説としては失敗作だと思う。それならば日本書記を読めばいいではないか。

堀江敏幸
 収束を目指さないためには、不協和音が必要だ。小野正嗣さんの「九年前の祈り」にはそれがある。主人公は巫女ではない。心を閉ざす息子に《引きちぎられたミミズ》を幻視しながら、じつはそれが自分の身体から出ていることに彼女は勘づいている。息子に適度な聖性を見ない。

島田雅彦
『ヌエのいた家』は、前作『母子前寮』で母を弔った作者が、父を弔う話である。人は往々にして、自分が嫌う相手に似てしまうもので、それこそが近親憎悪の最もおぞましい部分なのだが、自分と父はあくまで違うという思い込みに対する批評が欠落している。個人的には歩んできた時代背景が同じなので、懐かしい匂いがした。

村上龍
 候補作を読むのが以前に増して苦痛になってきた。わたしは個人的に、小説とは切実なものだと考えている。小説を書くという行為も切実だし、描かれるモチーフも、どこかに切実なものが感じられるときに、「小説を読む」ことが有意義だと思うことができる。旧来の、自らの苦難や悩みを綴った私小説を書くべきだという意味ではない。どんなに前衛的なものでも、意匠を凝らしても、読みづらいものでも、それがテーマと必然的に結びついていれば納得できる。「何が言いたいのかわからない」「言いたいことがないのではないか」というようなことではない。小説は「言いたいことを言うために」あるわけではないからだ。「何か言いたい」のではなく、「何かを伝えたい」という作者の欲求によって小説というメディアは成立している。だが、作者自身が「伝えたいこと」を意識として把握できていないことは多い。「この事象を伝えたい」という具体的な自覚があるときは、とくに新人の場合、つまらない作品になりがちである。

川上弘美
 小説は、誰に向けて書きますか。そんな質問を受けることがあります。自分です。誰ということはありません。編集者です。その時によって、ごく適当に答えてきました。ひとことで答えられるものではないからです。つまり、それらはすべで真実なのです。見知らぬ読者。自分。編集者。友人。生きている人。歴史の中に消えた人。さまざまな種類の人に向けて、きっと私たちは小説を書くのです。小説を書くということは、ひどく個人的な営為であるのに、その営為の結果を差し出すのは、不特定の人びと。怖いことです。けれど、その怖さをのりこえても書いたものを差し出したい、と思うからこそ、小説家は小説を書くのだと思います。


 今回も「ちょっと地味かな……」という候補作・候補者だったのですが(僕は、タレントさんとか、外国人のような目立つ人や、自分が知っている名前がないと、「地味」に感じてしまうのです。申し訳ない)、選評はなかなか楽しめました。
 受賞作となった『九年前の祈り』は、比較的順当に決まったようなのですが、『指の骨』は、推した人と、評価しなかった人が、けっこう分かれてしまったようです。


 奥泉光さんが、選評のなかで、大岡昇平さんの『野火』に感じていた違和感について言及されていたのを読んで、「ああ、僕もそう思っていたんですよ!」と口に出したくなりました。
 大岡さんは、『野火』を、想像力だけで書いたわけではなく、自らの体験と、実体験者から聞いた話などから書いたと思われますし、あえて、「狂人の手記」だと断りを入れるのは「逃げ」というか「責任逃れ」みたいなものではないのか?と感じて、なんだか釈然としなかったのです。
 

 でも、この選評を読んで、これは「戦争という極限の状況下を背景にして、100%の実体験ではないことを小説として書く」というのは、たしかに、恐ろしいことなのかもしれないな、と思ったんですよ。
 自分自身の戦争体験が、あまりに壮絶であり、そこから、実際に体験した人のことも「想像」できてしまうからこそ、「これはフィクションだから」と、開き直ることができなかった。


 ただ、その一方で、奥泉さん自身も「小説が、『何をどう書いてもよい』ジャンルだからこそ」と仰っているように、「実際に体験していないくせに!」と、想像で小説を書くことや、その作者を否定することにつながる発想ではないか、とも思うんですよね。
 最近の芥川賞の選考でも、東日本大震災原発事故については、「それを語る資格」みたいなものが議論されはじめ、作品そのものが見えなくなってしまっているようにも感じます。
 

 村上龍さんの選評を読んでいて思うのは、「最近の純文学っていうのは、これまでみんなが書いていない、ニッチなところ」ばかりをみんなが狙うようになってきているのではないか、ということなんですよ。
「自分が伝えたいこと」よりも、「他に人がいないところ」を目指してしまう、「ブルーオーシャン文学」。
 手の届く範囲の、狭くてリアリティのある世界を、技巧を凝らして、ひたすらわかりにくく書く「文学」。
 でもさ、僕としては、もっとこう、大きなもの、圧倒されるようなものを読んでみたい、と最近よく思うのです。
 文章が多少稚拙でもいいからさ。


 今回の受賞作『九年前の祈り』は、久々に「読みやすくて、わかりやすい」受賞作でした。
 内容的には「ああ、純文学っぽい」という、「内面的な話」だったんですけどね。
 まあでも、芥川賞までもが、技巧的・前衛的な文学にそっぽを向いてしまったら、おそらく、「純文学」は死んでしまうのではなかろうか。
 今回の選評みたいに、山田詠美さんの罵倒芸が読めるのも芥川賞選評だけ!ではありますし。
 あと、宮本輝さんの「それなら日本書記を読めばいいではないか」にも納得。


「直接体験したわけではない人間が、戦争や大災害をテーマに、小説を書くことの是非」というのは、非常に判断が難しい。
 実体験者がいなくなってからこそが、小説の領分のような気もするのだよなあ。

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