- 作者: 森山伸也
- 出版社/メーカー: 本の雑誌社
- 発売日: 2014/10/23
- メディア: 単行本
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内容紹介
好きなところを歩いていい。好きなところで眠っていい。
北欧三国にまたがるラップランドの荒野は世界でいちばん自由に歩ける“道"だった。
北欧ラップランド歩き旅
「テントはどこに張ってもいいんですか?」
「水はそのまま飲めますか?」
「焚き火はできますか?」
このアジア人はなに寝ぼけたことを言っているのか? テントを張っちゃいけない山がこの世界にあるのか? あったら教えてちょうだいよというような表情で彼女はすべての問いに「イエス」あるいは「オフコース」と答えた。おまえの好きなように、やりたいように歩けということらしい。すばらしきラップランド。(本文より)
僕は基本的にインドア人間で、一時期山歩きにハマっていた妻に「身体にもいいし、一緒に登ろう」と誘われても「いやーでも山のトイレって、あんまりキレイじゃないしさー」みたいなことをブツブツ言ってやんわり断ったり、断りきれずに、すれ違う人々に「こんにちは!」と偽善スマイルをふりまきながら、自己嫌悪に陥ったりしていたものです。
そんなインドア人間なんですけど、いや、インドア人間だから、なのか、こういう「アウトドアの冒険の記録」とか、「旅行記」とかを読むのは大好きなんですよね。
この本、「キャンプ道具を背負ってひたすら長く歩くロングトレイル中毒患者」であり、アウトドア雑誌などに寄稿しているフリーライターの著者による、「北欧ラップランドのロングトレイルの記録」なのです。
ラップランドとは、ヨーロッパ北部に位置するスカンジナビア半島北部からロシアのコラ半島まで広がる地方で、先住民族サーミ人が住んでいる地域のことを指す。その大部分は北緯66.6度よりも北、つまり北極圏に属している。
高校の地理の授業で習った知識と図書館で借りてきたラップランドに関する本によれば、スカンジナヴィア半島はついちょっと前まで氷河に覆われていたので地形がのっべりとしているらしい。さらに寒冷な気候のため大地のほとんどは森林限界を越えており、高木はなく地衣類などのツンドラが広がるばかり。つまり、山道がなくたって自由に歩けるというわけだ。いわゆる日本の山のように行く手を拒む深い谷や、鬱蒼とした森がないので、地図を見ながら歩きたいところを歩くことができるようだ。
「植生保護のため山道を決して踏み外してはいけません」と常々言われている我々日本人にとって「どこ歩いてもいいよ」と言われるのは狼狽えてしまうほど新鮮な体験である。なかなかやりおるラップランド。
さらにどこにテントを張ってもいいし、焚き火をしてもいいらしい。氷河から流れ出た水はゴクゴクとそのまま飲めるらしい。危険な動物はクマくらいなもので、そもそも個体数が少ないので人間に危害が及ぶことはそうそうないらしい。晩夏にかけてツンドラはブルーベリーで赤く染まるらしい。トナカイを放牧するサーミ人の簡易住居がときどきツンドラの大地にポツンと建っていて、運が良ければ北極イワナやトナカイの肉をお裾分けしてくれるらしい。
ラップランド、天国じゃん。
僕は旅行に行くと、寝る間も惜しんで「観光地」をしらみつぶしに観てまわってしまうので、こういう「何もないところ」に行きたがる人の気持ちって、正直、よくわからなかったんですよ。
でも、この本を読んでいると、いまの世の中で、「大自然のなかに、自分ひとりで存在すること」に、充実感や生きている実感を持つ人というのもいるのだな、ということがわかってきたような気がします。
自分の肉体を一歩一歩押し上げ、ようやく辿り着いた静かな山で寝床を作る。寝袋をばさっとテントの中に広げたあの「世界はオレのものだ!」と叫びたくなるような解放感は一体なにものだろうか。
テントの中に入ると、人間社会から隔絶された自然界に身を置く覚悟のようなモノが、心臓の鼓動を速め、五感をビシバシ叩いて「おい、起きろ、起きないと死んじゃうよ」と細胞を奮い立たせる。
しばらくしてその土地が安全であるとわかると「明日の朝まで自由にしていいかんね」という本能の声が届く。
そこではじめて「プシュッ」として、誰にも邪魔されることなく気ままにゴクゴクゴロゴロを酒が尽きるまで繰り返す。気が向いたら近くの山へ夕日を見に行き、喉が渇いたらふらふらと沢へ行き唇を水面につけてゴクゴク。焚き火を囲んで仲間と語らい酒を飲み、ヘベレケになったらテントへもぐり込む。ヘッドライトの灯りで本の世界へ入り込み、満天の星を見上げては山の世界に戻ってくる。
ああ、これはたしかに、幸せそうだ……
この本で語られているラップランドのロングトレイルの話には、食糧の心配とか、足のマメのこととか、天候の変化で怖い目にあったことなども書かれています。
寂れたコースなので、ほとんど人に会うこともなく、せっかく会った同好の士たちも、べったりずっと一緒に歩くのではなく、少しだけ会話をしたり、しばらく行動を共にしたりしながら、さらりと別れ、自分の道に戻っていくのです。
著者は、オーロラを見るために、わざわざ夜中に起き出してテントの外に出ることもなかった、と書いておられます。
せっかく北欧に来ているのに! 外にいるのに! これを逃したら、一生のうちに、もう二度とオーロラを見るチャンスはないかもしれないのに!
……旅に求めるものも、人それぞれ、なのです。
「なんでわざわざ歩くためだけに、北欧にまで行かなければならないんだ?」
そう思っていたのだけれど、「北欧だからこそ、こんなふうに歩ける」のだよなあ。
日本人は旅先でつねにせかせかと動き回っていないと気がすまない国民だといわれてきて久しい。確かにそのようである。休暇日数が少ないということもあるだろう。
たとえば石垣島に5日間滞在して、三、四日なにもせずに米原ビーチでゴロゴロしている日本人はまずいない。誰もが、やれ買い物だ、やれ石垣牛だ、やれ離島に日帰りだと走り回っている。
これは山にもいえることで、やれ三日間で百名山を5つ踏破しただの、80キロのロングトレイルを二日で歩いただの、とにかくみんなよく歩き、よく走る。
ま、人それぞれ山の楽しみ方があるから、ここでつべこべ言うつもりはないけれど、これだけは言っておきたい。
前述したよく歩き、よく走る人が美化される登山文化なんてクソ食らえなのである。スピードやら山行日数やらを掲げて語られる登山というものは、幼稚、あるいは滑稽としか言いようがない。どうも登山をスポーツと勘違いしている節がある。
美しい登山というものは、通常一泊二日で歩けるコースを「6時間で走っちゃったぜー」という山行よりも「いや〜、あまりにも気持ちがいいから四泊もしちゃったぜー」という山歩きなのではないだろうか。
あるいは日帰りコースを「半日で歩いちゃったぜ」というよりも「あまりに紅葉が綺麗だったから山に登らず森でビール飲んで帰ってきちゃった。エヘ」ということなのではなかろうか。
たしかに、もっといろんな「登山文化」「旅行文化」があっても良いのではないかと、これを読みながら僕も思いました。
ただ、僕も「のんびりするつもり」で旅に出たことがあるのですが、旅先で「予定が無い状況」というのは、案外落ち着かないものだったんですよね。
買い物とか市場めぐりみたいな趣味があれば良かったのだけれども、「もうここには二度と来ないかもしれない」「だから、せっかくのこの機会を活かさなければならない」というような焦燥に駆られてしまって。
ところで、この文章・文体を読んでいると、旅行記における椎名誠〜宮田珠巳の系譜の影響力というのは、ものすごく大きいのだなあ、と考えずにはいられません。
この本は「本の雑誌社」からの刊行ということもあって。
ちょうど同時期に読んだ世界一周旅行記も、椎名ー宮田ライン、っていう文章だったんですよね。
すごいアクシデントとか、登場人物が生死の境をさまようような旅ではないのですが、だからこそ、「なぜ、人は旅に出るのか?」みたいなことを考えさせられる一冊でした。
こういう旅ができる人は、ちょっと羨ましい。
僕はたぶん、こういう旅をすることはないけれど。