- 作者: 校條剛
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内容紹介
エロ小説の大家・川上宗薫と木枯らし紋次郎の笹沢左保。今や懐かしさすら漂う二人の流行作家。銀座に通い複数の女性と関係を持ちつつ月産1000枚超の小説を書き続けた豪傑たち。今は絶滅した「流行作家」という豪傑種と長年密接につきあってきた著者が、人となりから知られざるエピソードまでを縦横に書き下ろす。
「流行作家」という言葉そのものは死んではいないと思います。
でも、川上宗薫、笹沢佐保という「ザ・流行作家」の仕事ぶり、生活ぶりをこの本で読んでみて驚きました。
いま僕が「流行作家」として思い浮かべる人たちは、ここまで何かに追われながら書きまくる生活はしていないだろうな、と。
その昔、流行作家という豪傑がいた。今は絶滅した希少種である。昔といっても、そんなに昔の話ではない。ほんの昨日のことであると言ってもいいくらいだ。昨日って? そう、二十年とか三十年とか、せいぜいそのくらいものである。
ひと月千枚書いたとか千二百枚だとか言われた流行作家は何人かいるが、立って書いたことで有名になったのは、笹沢佐保だけである。実際に原稿用紙は、床の間の違い棚の上に載せられた。徹夜続きだったが、まだ眠るわけにはいかなかったから、編集者のまえで試しにやって見せたのである。だが、原稿用紙一枚も書けなかった。やはり立っては書きつづけられなかったのだ。
笹沢が原稿用紙に向かう態度は修行僧のようだった。取りかかったら、終わるまで中断しない。女性用万年筆で書かれた原稿用紙の文字に乱れはなく、常に約束の枚数の最後の行に「了」と記された。それが笹沢の姿勢だった。流行作家である自分に設けた厳しい掟だった。
笹沢はどこでも書いた。テレビの司会者として出演しているときにも、自分の出番でないときには、ペンを握り腹ばいになって書いた。その姿をカメラは写し撮った。一般の視聴者はともかく、業界の作家や編集者から見ると、笹沢の「作家気取り」が厭らしく映ったかもしれない。絵に描いたような流行作家気取り、と。しかし、実はいつも笹沢はそこまで締切に追い詰められていたのである。書いていた原稿は本当の原稿であった。
「エロ作家」「ポルノ作家」などと呼ばれた川上宗薫の毎日は几帳面なものであった。原稿は鼻歌を歌うように書いた。しかも、一日の実働は四時間ほど。その四時間のうちに、三十枚書いた。さっさと口述し、終えるとピンポン野球の練習や試合に移り、そのあとは「やらせてくれる」女性とのデートや銀座のクラブが待っている。川上はある年、60人以上の女性と性交渉を持った。馴染みの女性はわずかで、ほとんどが初手の女性たちだ。月に平均すると5人になる。仕事と趣味の一致などと囃されるが、実は、川上の「ノルマ癖」によるものだった。原稿を書くのも、女性と寝るのも川上は自らにノルマを課したのである。ノルマは果たされるべきものなのであった。
担当者としてふたりと間近に接してきた著者の話を読むと、ふたりの「共通点」と「相違点」が浮かび上がってきます。
川上さんも笹沢さんも、当時全盛だった「小説誌」にたくさんの連載をかかえ、次から次へと原稿を書きまくっていたけれど、それはふたりが雑誌の原稿料が主な収入の「マガジンライター」であり、一冊の単行本を時間をかけて書き上げる「ブックライター」ではなかったことを示してもいたのです。
ふたりは有名な「流行作家」ではあったけれど、のちに単行本化、文庫化された著作は、あまり売れなかったのです。
笹沢さんの代表作(その作品としてのデキには、笹沢さん本人はけっして満足していなかったようですが)である『木枯らし紋次郎』でさえ、ネームバリューほど売れてはいないのです。
では、時代小説のジャンルで出版社のドル箱になっている池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズ、「剣客商売」シリーズの文庫の部数はどの程度なのか。
「鬼平」の部数は、現在は活字の大きな新版が出ているが、これまで読まれてきた旧版の部数を見てみよう。第一巻〜第二十四巻の総計で約二千万部である。もちろん版元の文芸春秋はこのシリーズを手放すことは決してしないだろう。
新潮社のドル箱シリーズは「剣客商売」である。やはり、活字の小さかった旧版の部数を示す。こちらは、シリーズ十九冊のうち、ミリオン超えが三冊ある。売れ行きが芳しくない一冊でも五十六万部である。総計では千五百万部を超えている。
「紋次郎」の光文社文庫版は、全十五巻。装丁も解説も力が入っていて、講談社で連載したシリーズを読むには、最適の刊行だった。余談だが、筆者も含め、笹沢番の編集者たちは、全十五巻箱入りのセットを作者から贈られている。
この文庫版は、現在でも目録に残っているが、品切れになったままの巻もあるようである。だが、1997年(平成5)年から翌1998年に掛けて、一年余で第一巻から第十五巻まで刊行された本シリーズの成績は悪くない。すべての巻が三刷以上の成績を収めている。第一巻の『赦免花は散った』は初版三万部、五刷四万九千部である。全十五巻の累計部数は、五十三万三千部(2012年10月現在)である。
普通のシリーズであれば。文句のない数字であろう。最初の文庫化ではない。二次文庫であるにしては、大健闘である。しかし、新潮文庫の「剣客商売」シリーズが、一番部数の少ない一冊が五十六万部であると、今述べたばかりだ。「木枯らし紋次郎」ほどのビッグタイトルにしては、やはり寂しい。
川上さんも笹沢さんも「雑誌の読者・編集者」には圧倒的に支持されていたけれど、その一方で、「単行本を買って読んでくれる読者」の割合は多くなかったし、文学賞にもほとんど縁がありませんでした。
冒頭の笹沢さんの執筆の様子なんて、「これ見よがしに人前で書かなくても……」とか、「そんなふうに書き流している原稿が、面白いのだろうか?」なんて思ってしまうのですが、そんなに忙しかったのは「単行本や文庫からの印税がさほど期待できないから、雑誌での連載をたくさんやって稼がなくてはならなかった」からでもあったのです。
そういう「流行作家としてのポジション」は近かった二人なのですが、「几帳面に自分の執筆パターンを守り、週休2日、夜は仕事をせずに飲みに行くか女性と過ごす」という川上さんと、とにかく締め切りまでに原稿を休まず書き続け、終わったら派手に飲みに行く」という笹沢さんのキャラクターは、かなり異なってもいたのです。
お酒が入っても羽目を外すことはほとんどなく、周囲から敬愛された川上さん(著者は、女性を相手にするときも、愛情というより「研究対象」みたいなところがあったと述懐しています)と、晩年はとくに、酒癖が問題となって周囲から敬遠されることもあった笹沢さん。
著者は、笹沢さんとの付き合いが長かっただけに、愛憎入り混じった感情もあるみたいです。
作家と編集者として、共に仕事をしてきたという連帯感と、それだけに晩年、酒に溺れ、周囲の負担になってしまった笹沢さんへの失望と……
補足するが、笹沢は決して速筆ではない。時代小説で一時間四枚、現代小説で五枚というのを目安に書いていた。それ以上のスピードを目指さない代わりに、ゲラをあとで見て、手直しすることもしなかった。ゲラを見る時間を省くため、亀のようにゆっくりと同じ歩みで進むのである。川上のほうは、大体の仕事が口述ということもあるが、書くスピードはずっと速かっただろうし、当然、著者校正が伴った。
笹沢は、職業作家たるものこうあるべきだ、という「掟」意識の強かった人である。川上もそうは見えなかったが、実は自らに流行作家たるべき掟を設定していた。ほとんどすべての体質が対照的なこの二人は、流行作家であり続けるためには自らを律する掟が必要と考えていた点では共通であった。
笹沢における掟の一つは、原稿枚数の遵守。月刊誌の場合、時代小説においては、七十枚(四百字詰原稿用紙で)という分量が「定数」であったが、笹沢番の編集者たちを毎度うならせたのは、七十枚目の最終行に「了」の文字が打たれていたことだった。一行余ったり、はみ出すことは一度としてなかったといってよい。しかも、最初の一行目から最終行に至る間、書き直しや挿入される語句もまた皆無というほど少ないのである。このスタイルが笹沢の掟であり美学であった。
従って、原稿は書き終わった時点で、完成品であるといというのが作者の認識だった。
少なくとも、マメでなければ、「流行作家」にはなれない。
同じようなパターンの小説を書き続ける、「割り切り」も必要です。
どんな天才でも、これだけのペースをキープするには、ある程度「パターン化」しなければ不可能ですから。
「流行作家」というのは、「たくさん書き続けられる能力」と「一定の質の作品を書く能力」を併せ持つ人しかなれない、稀有な存在なのです。
でも、そういうスタイルだと「作家の名前は有名だけれど、代表作が思い浮かばない」なんてことになりやすい。
「ザ・流行作家」の恍惚と不安。
ふたりは「幸せ」だったのだろうか?
「作家という人種に興味がある人」は、ぜひ読んでみてください。