- 作者: 又吉直樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/03/11
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
お笑い芸人二人。奇想の天才である一方で人間味溢れる神谷、彼を師と慕う後輩徳永。笑いの真髄について議論しながら、それぞれの道を歩んでいる。神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と命令した。彼らの人生はどう変転していくのか。人間存在の根本を見つめた真摯な筆致が感動を呼ぶ!「文學界」を史上初の大増刷に導いた話題作。
面白いなこれ。
正直なところ、「どうせ『KAGEROU』みたいなもんだろ、アクセス稼ぎのために、サッと読んで感想書こうっと」という気持ちで読み始めたのですが、読んでいて、なんだか怖くなってきました。
「笑い」って、何なのでしょうね?
「面白さ」って、誰が、どうやって決めるのだろう?
「8.6秒バズーカー」の『ラッスンゴレライ』のような「リズムネタ」を「あんなの芸じゃない」と批判する大物先輩芸人の話なんていうのを読むと、僕は、「じゃあ、どんなのが芸なんだ?」と思うのです。
某大物芸人は、「落語」を挙げておられたようですが、「落語」には長い伝統もあるし、名人になるには才能も修練も必要です。
それはもちろん、重んじられるものなのだろうけれど。
「芸」とは、そんなに重い、権威主義的なものなのか?
あれは「芸」じゃない、とか、言われてしまうものなのか?
立川談春さんが中学時代に学校行事で同級生たちと寄席に行った際、立川談志師匠はこんなことを言っていたそうです。
落語はね、この(赤穂藩の四十七士以外の)逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもついつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、そうはいかない、八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えときな。教師なんてほとんど馬鹿なんだから、こんなことは教えねェだろうう。嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな。
僕は、この又吉さんの『火花』を読みながら、ずっとこの『落語とは人間の業の肯定である』という言葉を思い出していました。
「落語」を「芸」に置きかえながら。
この『火花』の主な登場人物は、二人だけです。
お笑い芸人二人。奇想の人・神谷と彼を師と慕う後輩徳永。
「お笑い芸人の物語」であれば、コンビの二人を主役にして描くのが王道なのではないかと思っていたので、又吉さんがそうせずに「ひとりの変人芸人(すみません、僕には神谷さんが「面白い」のかどうか、最後までよくわからなかったんです。でも、「こういう人が面白いのかもしれない」とは思っていました)」と、彼に憧れる、少しだけ年下の後輩の物語にしたのが、僕は不思議だったんですよ。
読んでいても、神谷、徳永それぞれの「相方」は、ほとんど出てきません。
むしろ、神谷さんの彼女の出番のほうが、はるかに多いくらいです。
そういうのも、「本物の芸人」である又吉さんにとっての「芸人のあいだの距離感」みたいなのを反映しているのかな、なんて考えもしたのです。
漫才師にとっては、自分の「相方」よりも、「憧れの先輩芸人」のほうが「近い」のかな、と。
仲のいい先輩と一緒に飲みに行くことは多いけれど、相方とはプライベートではほとんど一緒に行動しない、という話も聞きますし。
プライベートの飲み会でも、「箕輪はるかさん、今日機嫌悪いの?」といつも尋ねられて困る、という悩みを近藤さんが語っていたハリセンボンなどは、例外なんでしょうね。
この『火花』という小説を読んでいると、「笑い」や「面白さ」を追求することの深淵を覗き込んだような怖さを感じるのです。
「売れる」ということを目的にするのであればわかりやすいのだけれど、「笑い」や「面白さ」には、絶対的な「答え」も「正解」もない。
徳永は神谷のことを「面白い」と思っているけれど、神谷は急に世間から評価されることもなければ、売れっ子になるわけでもない。
これだけ日本という国に「芸人」がひしめいていて、そのなかで、「他人と違うことをやろう」とするのは、それだけで、ものすごくハードルが高い。
自分が思いつきそうなことは、たいがい、誰かがやっている。
『hon-nin・vol.01』(太田出版)のなかで、爆笑問題の太田光さんが、松尾スズキさんと、売れなかった頃のこんな話をされていました。
松尾スズキ:今って普通の新人お笑い芸人がバラエティ番組にぽんと出ても、わりといけるじゃない? あれはすごいなあと思いますね。
太田光:そうですね。オレらも最初は差別ネタばっかりだったんです。で、当時はライブでウケる芸人って、テレビに出れないやつらばっかりでしたからね。テレビで何をやってはいけないかよく分かっていなかったし、それに加えて「テレビなんかに出てやるものか」というワケの分からない反抗意識もあったし(笑)。
松尾:それは今の芸人志望の人たちと真逆ですね。
太田:明らかに違います。僕らが最初に出たのは(コント赤信号が主宰する)La,mamaってライブなんですけど、当時トリをつとめていたのがウッチャンナンチャンで、彼らやピンクの電話、ダチョウ倶楽部はテレビで成立するネタをやってましたけど、オレらはテレビでは流せないネタばっかり。オレらが最初にやったのは中国残留孤児もののコント。あとは全身カポジ肉腫だらけの原子力発電評論家とか、佐川一政くんがレストランを出しましたとか、どうしようもない。
松尾:ひどいですねえ(笑)。
太田:それでもオレらはまだ「テレビ用のネタも作らなきゃ」って気持ちがありましたけど、他のやつらはもう……気が狂ったやつらの巣窟でしたね。で、またみんなバカだから、そんなネタやってるくせにテレビのオーディションを受けに行くんですよ。障害者のモノマネやって「けっこうです」って言われたり(笑)。あとはトマトジュースを飲んで「今飲んだジュースを手首から出します」って言ってその場で手首を切ったり。
松尾:もう芸人でも何でもない(笑)。
太田:そもそも笑えないしね。あとはナイフを持ってきて振り回しながら客席に乱入するだけとか(笑)。で、オレらも一時期そっちの路線にいってたわけです。「そっちの方が偉い」「女コドモにウケる軟弱なネタよりも、ハードなネタのほうが上」みたいなノリがあって。
本当に「これはひどい」としか言いようのないネタのオンパレードなのですが、「オリジナリティ」みたいなものに取り憑かれてしまうと、こういうキワモノ路線にいってしまうことだってあるのです。
というか、こういう方向に行くしかないと、多くの人が考えてしまうのかもしれません。
いまの日本には「芸人」そして、「芸人予備軍」が、大勢います。
作中にも同じような話が出てくるのですが、これだけ多くの「芸人」がいる日本という国は、芸人間で競争していくことによって、どんどん「笑い」というものを進化・深化させる巨大な研究室のようになってもいるのです。
多くの「無名のまま消えていく研究者」たちの屍の上で、一部の天才たちによって、「笑い」が極められていく。
率直なところ、僕は最後まで、神谷さんが「面白い」のかどうか、よくわからなかったんですよ。
でも、この作品の素晴らしいところは、「こういうのが面白いのかな」と思える程度のリアリティが、「お笑い不感症」に近い僕にも感じられるところでした。
以前、『王の男』という「面白い芸人が、笑わない王を笑わせる話」の映画について、松本人志さんが「作中で、主人公が王を笑わせたという芸が、あまりにもつまらなくて興醒めする」と評していたことがありました。
こういうのは「劇中劇」が抱えている根本的な弱点なんですよね。
とくに「笑い」というのは「万人向け」には、なかなかなりにくい。
又吉さんは「実作家」だけあって、会話や、ネタの描き方が、本当に上手いのです。
僕にも、神谷さんが「面白い」のと「売れない」のが、よくわかる……ような気がするくらいに。
ディテールの確かさが、この小説を支えているのです。
究極的には、芸人にとっての「芸」って、「生きざま」なのかもしれません。
立川談志師匠は、こんな話もされています。
浅草演芸ホールに行くと、おれがそばにいるのに、呼び込みの野郎、見事なもんだよ、「さあさあ、いらっしゃい、いらしゃい、政務次官をしくじったやつがこれから出ますよー」って平気でやってるんだ。でも、それで正解なんだね。この時、芸に対してーーこの言葉をここで使ってもいいと思いますが――<開眼>したナ。
もうおれが高座に出るだけで客の反応が凄いんだ、ウワーッって二階の天井が抜けるみたいでした。「やっと最下位で当選して政務次官になったと思ったら、やられたーっ」ドカーンってね。沖縄開発庁長官で、おれが問題になったとたんに手のひら返すみたいなことをした植木(光教)って議員がいましたがネ、選挙区が京都だったかな、「あの莫迦、ただおかねェ。今度はあいつの選挙区で共産党から出て落っことしてやる」ウエーッ。「おれはな、イデオロギーより恨みを優先させる人間だからな!」大拍手大喝采ですヨ。
ここで、<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティ、存在をいかに出すかなんだと気がついた。少なくとも、それが現代における芸、だと思ったんです。いや、現代と言わずとも、パーソナリティに作品は負けるんです。それが証拠の(明治の四天王の一人で、ステテコの三遊亭)円遊であり、(大正から昭和初期にかけての柳家)金語楼でありという<爆笑王>の系譜ではなかったか。その一方、彼らのパーソナリティに負けちゃうんで、<落語研究会>といった作品を守る牙城ができたんじゃないのか。もう少し考えを進めると、演者の人間性を、非常識な、不明確な、ワケのわからない部分まで含めて、丸ごとさらけ出すことこそが現代の芸かもしれませんナ。
ただ、あたしには<うまい芸>への郷愁はあります。「うまくないとイヤだ」という部分が残っていて、そこにギャップはあります。志の輔なんかも、このギャップにはどこかで気づいてるんじゃないかな。
この『火花』には、「笑い」あるいは「芸」という魔物に取り憑かれて、答えのない迷宮であがき続ける人々の姿が、醒めた視線と溢れる愛情を混じえながら描かれているのです。
「本当にバカだよね」というのが、褒め言葉になる人々がいる。
でも、「本物のバカ」になんて、そう簡単になれるものじゃないんだ。
「漫才師とはこうあるべきやと思えることと、漫才師を語ることとは、全然違うねん。俺がしてるのは漫才師の話やねん」
「はい」
「準備したものを定刻に来て発表する人間も偉いけど、自分が漫才師であることに気づかずに生まれてきて大人しく良質な野菜を売っている人間がいて、これがまず本物のボケやねん。ほんで、それに全部気づいている人間が一人で舞台に上がって、僕の相方ね自分が漫才師やいうことを忘れて生まれて来ましてね、阿呆やからいまだに気づかんと野菜売ってまんねん。なに野菜売っとんねん。っていうのが本物のツッコミやねん」
「芸人が書いた小説」というより、「芸人だから書けた小説」だと思います。
すごい。
そして、なんだかとてもせつない。