- 作者: 宮田珠己
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/01/07
- メディア: 文庫
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内容(「BOOK」データベースより)
風呂嫌いの宮田クン、ついに温泉に行く。熱すぎる湯を水でうめるのはなぜいけない?家にも風呂はあるのにわざわざ出かける理由がよくわからない…。風呂なのに体を洗い流さないって???―温泉を巡る謎は深まるばかり。しかし迷路のような温泉旅館はアトラクション感あふれる異次元ワンダーランドだった!日本の名湯につかる、珍妙湯けむり紀行14篇。
温泉、好きですか?
こういう質問をすると、「当たり前だろ、どこに温泉嫌いなヤツがいるんだよ?」と言われそう。
率直なところ、僕は温泉というのが、あまり好きじゃないんです。
もともとお風呂もそんなに好きじゃないんだけれど(いちおう毎日入ってはいますよ、念のため)、知らない人と一緒に、わざわざ大きなお風呂に入るのって、めんどくさいなあ、と感じることが多いです。
ドラえもんのしずかちゃんみたいに「お風呂大好き!」という女性が温泉も好きなのはわかるんだけど、もともと風呂なんてできれば入りたくなさそうな男どもが、口をそろえて「温泉でも行きたいよね」と言うのは、なぜなのだろう?
「裸のつきあい」とか「知らない人と世間話」とかも、苦手なんだよなあ、基本的に。
僕がこの『四次元温泉日記』を読んでみようと思ったのは、書店でページをめくっていたときに、冒頭に書かれているこんな言葉が目に入ってきたからなのです。
なぜ温泉などちっとも興味のなかった私が、温泉旅行に行く気になったのか、われながら説明するのは至難の業である。
私の見たところ、温泉は風呂であり、風呂は家にあり、その家の風呂さえも入るのが面倒くさい。人は何を好き好んで風呂に入るためだけに遠くへ出かけるのか、その意味がわからんと前々から不思議に思っていた。
私は子どもときから風呂嫌いだった。
何がイヤといって、まず服を脱ぐのが面倒くさい。
袖から手を引っこ抜いたり、下からまくって首を抜いたり、じつに大変な作業だ。
そのうえ、わざわざ脱いだのに、あがってからまた服を着るというのである。まるで穴掘って埋め戻すような強制労働キャンプ的な徒労感が漂うじゃないか。
湯に浸かるのも退屈である。
ああ、この人が書いたものは、信用できる!
……というか、風呂嫌いの人が書いた温泉紀行なら、僕にも楽しめるのではないか、と。
でも、この本を読んでみると、著者にとっての目的は「温泉」というより、「内部が迷路状の複雑な構造になっている古い旅館を探検すること」なんですよね。
いや、それはそれで面白いし、「嫌い」からスタートしているだけに、温泉に対する考え方の変化や思索にも興味深いものがありました。
考えてみれば、子どもの頃から「温泉旅行、大好き!」なんていう男はほとんどいないはず。
にもかかわらず、大人、それもオッサンになってくると、「やっぱり温泉じゃないとダメだね」みたいなことを言う人ばかりになる。
その変化は、いつ頃、どのように起こってくるのか?
私は面白い宿、とりわけ館内が迷路になっているような宿が好きで、そういうところに泊まって中を探索するのを趣味のひとつとしてきた。今なら、そこで一日潰すのも全然やぶさかでない。
せっかく旅行に行ってゴロゴロ寝ているだけではもったいない気もするし、金使ってやってることはそれだけか、という思いがないといえば、もちろん嘘になる。そんな背徳感を払拭するためにも、少しは何かしたほうがいいのかもしれない。観光だって少しはしないとだめかなあ。なあんて、新たな旅の可能性と課題について考えていたそんなとき、不意に閃いた。
温泉?
温泉なら、ずっと宿にいてもいいのではないか。
ただ宿でゴロゴロしていても、そこに温泉があれば、温泉に入りにきたのだから宿から出ないでも何も問題はない、という理論が成り立つのではあるまいか。
そうか、人は温泉に入りに行くのではない。何もしないために、温泉に行くのだ。
正直、僕自身は、そんなに旅行に出かける頻度が多くないこともあって、自分でもうんざりするくらいスケジュールを入れてしまうほうなんですよね。
もうここには、二度と来ないかもしれないから、と。
ただ、「何もしない旅行」に憧れるところも、やっぱりあるのです。
著者の「温泉や旅に対する意識の変化」みたいなものを追いかけながら読むと、「人はこうして温泉に寛容になっていくのか……」と、少しだけわかったような気がしました。
それにしても、日本にはいろんな温泉と温泉宿があるものなんですね。
僕が家族で行くとしたら、まずここには泊まらないだろうな、というような個性派温泉のオンパレード!
第3章の「奥那須K温泉」の項から(宿の名前がイニシャルになっているところが、この温泉エッセイのアンダーグラウンドなところを象徴しています。たぶん、ネットでちょっと調べればわかるとは思いますけど)。
「天狗の湯」の最大の特徴は、その名の通り、大きな天狗の面が掛かっていることである。周囲の壁に三つの天狗の面が、圧倒的インパクトをもって湯船を睥睨している。
「天狗の湯」には、窓はあるのだが、片側は崖だし、反対側はブラインド気味の窓になっていて、燦々と光が差し込んでくるわけではない。そのため昼でもどことなく薄暗く、湯船の上にはランプが灯されていて、天狗の面がそんななかにぽわっと浮かんでいるさまは、鬼気迫るというか、まさに異界に紛れ込んだかの錯覚を覚えた。
すばらしい!
夢に見たような四次元温泉だ。
それは、褒めてるんですか宮田さん!(たぶんものすごく褒めてる)
この本にはその温泉の写真も(モノクロの小さなものですが)載っています。
なんだかもう、ものすごいセンスで、なぜこんなものを……という感じなんですよ。
(どうも、天狗の鼻の形状から、「子宝祈願」とか、そのあたりの関連が示唆されているようです)
伊豆長岡温泉N荘の描写では、こんなふうに「迷路宿」っぷりが紹介されています。
N荘は、稀に見る豪奢な迷路旅館だった。
館内図が、まったく理路整然としていない。
それになんだか斜めに傾いでるぞ。
細かく見ていくと、そこらじゅうに階段があり、いくつかの離れを長い廊下で繋いだ構造になっているのがわかる。ロビーの先には不定形の池を配し、館の最奥には橋を架けてある。まず傾斜地を利用した大きな庭園を造り、そこに建物を配置したといったふうだ。図の半分以上が斜めになっているのは、地形に沿って建てた結果だろう。
ロビーのガラス窓から建物の全体像を眺めてみると、せりあがるような斜面にランダムに和風建築が張り付いて、なんとなく、京都の庭園を思い出した。
前々から何度も言っているように、斜面というのは重要なポイントで、地形の制約があればあるほど、建物は迷路化する。
著者は、『千と千尋の神隠し』のモデルになった建物(自称)にも訪れているのですが、読んでいると、「参考にした形跡はあるけれど、ここだけがモデルとは言いがたい」ような感じです。
「旅行ガイド」としてはあまりにもニッチですし(というか、宿も「イニシャルトーク」になっているくらいだし)、読んで何かの役に立つ、ということもない。
でも、こういうエッセイをだら〜んと読んでいる時間というのは、ある意味すごく「温泉的」なのです。
(仕事などの)役に立たないこと前提の読書こそが、僕にとっての最大の「癒し」なのかな、などと思いつつ読みました。