琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

イミテーション・ゲーム ☆☆☆☆☆



第2次世界大戦下の1939年イギリス、若き天才数学者アラン・チューリングベネディクト・カンバーバッチ)はドイツ軍の暗号エニグマを解読するチームの一員となる。高慢で不器用な彼は暗号解読をゲーム感覚で捉え、仲間から孤立して作業に没頭していたが、やがて理解者が現れその目的は人命を救うことに変化していく。いつしか一丸となったチームは、思わぬきっかけでエニグマを解き明かすが……。

参考リンク(1):映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』公式サイト


2015年7作目。
月曜日のレイトショーを観賞。
観客は僕も含めて5人でした。
僕が平日でも行ける範囲の映画館は3館あるのですが、そのうち1館のみでの上映。


 僕はもともと「歴史もの」が好きで、しかも「ちょっと異常な天才の話」になぜか惹きつけられてしまうので、まさに「ストライクゾーンど真ん中」という作品でした。
 これは、本当に面白かった。


 2時間足らずの上映時間なのですが、途中で「あと残り何分くらいかな……」って、一度も思いませんでしたし。


 映画の冒頭で、ケンブリッジ大学の数学教授であるアラン・チューリングは、いきなり取り調べを受けることになります。
 彼は、いったい何をやったのか?
 多少なりとも予習をして映画館にやってきた観客としては、「陰の英雄」であるはずのこの人物が、なんでこんな目に遭っているのか?これは国家的な陰謀なのか?などとあれこれ想像してしまうのですが……


 この映画は、チューリングの学生時代、『エニグマ』と対決することになる第二次世界大戦中、そして、戦争が終わったあとの1951年の3つの時間を行ったり来たりしながら進んでいきます。
 メインは、彼が中心となって、「史上最強の暗号」とされたドイツの『エニグマ』を解読していく話なのですが、率直に言うと、「その思いつきをどう活かすと、エニグマが短時間で解析できるのか?」という肝心のところが、僕にはいまひとつ理解できなかったんですよね。
 いやまあ、素人にそう簡単にわかるようなものじゃないからと、そのへんは無理に説明しようとしなかった節もあるのですけど、そこだけがちょっと気になったかな。


 このアラン・チューリングという人、冒頭から「非コミュ」というか「空気読めない感」全開なんですよ。
 「あなたは天才なのか?」という問いに対して、ニュートンアインシュタインが歴史的な発見をした年齢を例にあげて、「まあ、僕も所詮彼らと同程度、といったところですよ」と、悪びれることなく言ってのけます。
 頭はいいかもしれないけど、それはさすがに大風呂敷すぎるんじゃない? 
 何様なんだよ!と言いたくなりますよね相手も。
 観客は、のちに彼が偉大な業績を残したことを知っていますが、当時彼に接していた人たちは、「この男をどう扱ったら良いのか?」と困惑していたに違いありません。


 チューリングは、「他人の感情を理解できないタイプの人間」でした。
 悪意からではなく、本当に「そういう機能がプリインストールされていない人間」だったのです。
 彼はこの「暗号解読」という、極めて特殊で「コンピュータ的な才能を要する仕事」を与えられることによって、自分と同じような「常識の枠におさまることができない天才たち」と出会い、少しずつ「他人と協力して仕事をすることの意味」を見出していくのです。


 彼らは『エニグマ』を解読することに成功するのだけれど、そこで、また新たな問題が生まれます。
 これだけ苦労して『エニグマ』を解読したことを、どうやって最大限に活かすべきか?
 そこにまた「普通の人間であるならば、頭では理解できても、実行することを躊躇わずにはいられないような考え」が出てくるのです。
 僕は正直、チューリングの選択が「正しい」とは思えない。
 でも、いま、こうして生きている自分に「間違っている」と言う資格はないような気がする。
 そのような決断ができるのは「英雄」か「機械」しかいない。
 チューリングは「コンピュータのような、合理的な決断」を、あえて下しました。
 それは「ドイツの敗戦を2年早め、結果的に1400万人の命を救った」と評価されているそうです。
 とはいえ、その「推測」が、チューリング自身の魂を救ったかどうかは、わかりません。
 結果的には、「戦争」という非常事態が、彼の才能を最も輝かせてしまった、とも言えるのでしょう。
 戦時中でなければ、「変人の天才数学者」として、一生を終えたかもしれないチューリング
 彼が暗号解読のために作った機械の末裔が、いま、僕がこうやって、この文章を打ち込んでいるものなのです。

 ちなみに、この映画に出てくる暗号解読機「クリストファー」は、当時実際にチューリングが作ったものを忠実に再現しているのだとか。
 そういうディテールへのこだわりも、この映画を美しいものにしているような気がします。

「時に、誰も想像もしない人物が、誰も想像できない偉業を成し遂げる」


 この映画の脚本を書いたグレアム・ムーアさんのアカデミー賞・脚色賞受賞スピーチが話題になりました。


参考リンク(2)アカデミー賞で最も感動的だったスピーチ「人と違ったままであれ」(ハフィントンポスト)

「16歳の時、私は自殺を図りました。しかし、そんな私が今ここに立っています。私はこの場を、自分の居場所がないと感じている子供たちのために捧げたい。あなたには居場所があります。どうかそのまま、変わったままで、他の人と違うままでいてください。そしていつかあなたがこの場所に立った時に、同じメッセージを伝えてあげてください」


天才には、天才にしかできない仕事がある。
僕はこういう作品を観るたびに、「天才として生きるっていうのは、ラクじゃないよなあ」と思いますし、「天才だからって、幸福とは限らないというか、むしろ、不幸な場合も多いよね」と自分に言い聞かせます。
僕は、天才じゃなくて、よかった。


でもね、この映画を観ながら、考えたんですよ。
他人の、とくに天才の人生を幸福とか不幸とか勝手に外野が決めるのって、ものすごくバカげたことなのかもしれないな、って。
天才っていうのは、自分の幸福のために何かをやる、という人じゃなくて、時代の使命みたいなものを、やむにやまれぬ事情や衝動みたいなもので果たそうとする人たちで、それは、個人的な幸福とか不幸とかの次元を越えてしまっているものなのかもしれないな、って。


アラン・チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチさんは、素晴らしいのひと言です。
繊細で静かな「ズレ」とか「狂気」みたいなものに、これほどの説得力を持たせられる人は、存在しないのではなかろうか。


地味な映画ではあるんですよ。派手なアクションもなければ、濃厚なラブロマンスもない。
狭い部屋で、やたらと図体の大きな機械をいじって、「ダメだ〜」と言い続けるシーンばかり。
それでも、僕はこの作品が、大好きです。

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