21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ (NHK出版新書 459)
- 作者: 佐々木俊尚
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/06/09
- メディア: 新書
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21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)
- 作者: 佐々木俊尚
- 出版社/メーカー: 佐々木俊尚
- 発売日: 2015/06/09
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内容(「BOOK」データベースより)
日本にはリベラルや保守がそもそも存在するのか?ヨーロッパの普遍主義も終わりを迎えているのではないか?未来への移行期に必須の「優しいリアリズム」とは何か?―「政治哲学」不在の日本、混迷を極めるヨーロッパ、ネットワーク化された世界に生まれた共同体の姿を描き、「非自由」で幸せな在り方を考える。ネットの議論を牽引する著者が挑む新境地!
最近の佐々木俊尚さんの著書には、ふだん僕などが見ているよりも、もっと長期的な視野での「人類の歴史」を意識したものが多いのです。
生きている人たちが、ビジネス書や自己啓発本で意識させられている「いまの時代」というのは、言葉ができてからに限ったとしても、人間の歴史のなかではあまりにも短い期間でしかないのだ、ということを考えさせられるのです。
現実としては、「歴史に学びながらも、いま、目の前で起こっている問題にも対応しなければならない」し、佐々木さんも、それをおろそかにしているわけではないのですけど。
この新書の冒頭には、こう書かれています。
本書は、21世紀の世界における困難な問いかけをみなで考えるために書かれたものである。その問いかけとは、次のようなものだ。
「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選択するか。
いまは、人類の歴史において、その「選択」が問われている時代だ、ということなんですよね。
でも、それはけっして悪いことでも、追いつめられているわけでもない。
「歴史」という観点からみると、「自由でもないし、生存も保証されていない」時代が、人間にとっては、圧倒的に長かったのですから。
この新書の「まえがき」を読んで、僕は「えっ?」と絶句してしまったんですよ。
本書はまず「リベラル」という政治勢力がいま完全に崩壊しようとしているところから、話をはじめたい。
この勢力は長い間にわたって、新聞やテレビ、雑誌で強い発言力を持ち、自民党政権に対するアンチテーゼとして、日本社会に強い影響を与えてきた。
この勢力はたとえば、原発に反対し、自衛隊の海外派遣に反対し、日本国憲法九条を護持し、「国民を戦場に送ろうとしている」と自民党政権の集団的自衛権行使や特定秘密保護法案に反対している。文化人で言えば、作家の大江健三郎氏や瀬戸内寂聴氏、音楽家の坂本龍一氏、学者では「九条の会」事務局長で東大教授の小森陽一氏、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏、経済学者の浜矩子氏。政治勢力としては福島瑞穂氏と社民党、生活の党と山本太郎となかまたち。元経産省官僚の古賀茂明氏。一緒にくくられることに抵抗のある人もいるだろうが、メディアの上で「リベラル勢力」という呼び方で視界に入ってくるのはそういう人たちだ。
しかしこの「リベラル勢力」は、いま完全にほころびている。
最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の「リベラル」と呼ばれる政治勢力はリベラリズムとはほとんど何の関係もない、彼らの拠って立つのは、ただ「反権力」という立ち位置のみである。
思想ではなく、立ち位置。
いきなり、実名連発での「お前たちはもう、死んでいる」宣言!
著者は、この新書のなかで、「リベラル」とは何か?について、その歴史的な経緯を辿りながら、詳しく説明していきます。
歴史的、あるいは世界基準の「リベラル」の定義と、いまの日本で「リベラル」として扱われている人たちの姿勢は、まったく異なるものであることを、明らかにしているのです。
ではなぜ、進歩派や革新が「リベラル」を名のるようになったのか。答えは明快だ。1990年代になって冷戦が終わり、共産主義の失敗が明らかになり、共産主義陣営を指す革新や進歩派ということばが使いにくくなったからだる。それで代替用語として、進歩的なイメージがある「リベラル」が転用されるようになったのだ。
自衛隊の海外派遣や集団的自衛権に対して、「国民を戦場に送るのか」と反対している日本の「リベラル」は、正確には「一国平和主義」という考え方だ。つまりは「日本が平和ならそれで良い」という考え方である。これはこれでひとつの考え方だが、いまの欧米主導の国際社会では、そんな主張をしている国は他にはなく、受け入れられる可能性は低い。さらに彼らがことあるごとに「改憲反対」と主張し、護持しようとしている日本国憲法は、前文でこう謳っている。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
一国平和主義に徹してしまうことは、彼らの愛する日本国憲法の理念の否定にもつながってしまうのだ。
イギリスでは、ブレアの人道的介入に対して、保守派が「国内の利益を最優先すべきだ」と批判した。保守派は一国平和主義的な思想を持つ傾向が強い。そうなると日本の「リベラル」は、欧米の保守派の意見に近いということさえ言えてしまう。
軍事介入や戦争の是非については、リベラルも保守もそのときどきの政治情勢に応じてさまざまな姿勢を見せる。リベラルは戦争に反対することもあれば、賛同することもある。保守も同じようにときに賛同し、ときに批判する。日本の「リベラル」のような「戦争絶対反対」は、決してリベラリズムとイコールではない」
そうなのか……
僕の本音としては、たとえそれが「一国平和主義」であるのだとしても、「戦争に自分や身近な人が巻き込まれるのはイヤ」なんですよ。
著者は「集団的自衛権」に賛同しているけれど、僕はそれは「火中の栗を拾う」ことではないかと危惧しています。
でも、それは「リベラル」なんてカッコいいものじゃなくて、「自分さえよければいい」「一国平和主義」と他所からは見えてしまうことは、認識しておくべきなのでしょう。
これに基づいて考えると、日本の「リベラル」は、むしろ世界基準でいえば「保守」であり、「集団的自衛権による国際貢献」を(理念としては)推進している安倍首相のほうが「リベラル」なのか……
うーむ、なんだかわけがわからなくなってきた……
こういう「わけがわからないこと」を丁寧に説明してくれているのが、この新書、なんですよね。
「バイアス層」という呼び方をする人もいる。自分で考えて一票を投じるのではなく、テレビのワイドショー報道などにすぐ影響を受けてしまうような人たちのことだ。しかしそのような層がどれほどの数なのかは誰にもわからない。「リベラル」からは「日本は右傾化している」という叫び声が届き、極端な右派は「テレビや新聞はサヨクに支配されている」と訴える。しかし日本の古い「リベラル」と在特会はどちらも両極端であって、どちらもマイノリティ憑依であり、ゼロリスクであり、白黒をつけたがり、おまけに声が大きく、存在感が強い。この結果、メディア空間の中ではこの二つの勢力が過剰に見えてしまい、中間にいるはずのより穏健な人たちは見えにくくなってしまっている。私は新しい右翼の中にも在特会のような極端ではなく、より穏健で良識的な意見を言う人たちはたくさんいると考えている。これは右派と呼ぶよりも、新しい保守ととらえた方がいいかもしれない。現時点では、まだ明確な政治勢力にはなっていない。
同時に左側にも、古い「リベラル」ではなく、ゼロリスクではなく、白黒もつけたがらない、グレーを許容してものを考えることのできる人たちがたくさんいると考えている。左右を問わず、この中間領域の人たちはインターネット上には数多くいるし、場所によっては真っ当な議論も展開されている。それを私はネットでの言論活動の中で認識しているが、残念なことにマスコミもネットも含めたメディア空間全体で見れば、ほとんど可視化されていない。
ネットでは、「極論」が目立ちやすいのは確かだと思います。
「普通の意見」を書き込もうという人があまりいないのも、わかりますし。
これを読んでいて、佐藤優さんが『創価学会と平和主義』という新書のなかで、こう書いておられたのを思い出しました。
いま、公明党は躍進の好機だと私は思う。
10センチの定規を思い浮かべてほしい。5センチの目盛りが、政治的に中道だとしよう。そこに、公明党を除く、日本の主な政党を並べてみよう。
最も右、10センチの目盛りのところに小さな点でいるのが、日本維新の会(2014年9月21日から維新の党)や次世代の党。
その少し左の大きな塊が自民党。
自民のすぐ横から4センチくらいのところまで、かすかにかかっているのが民主党。
最も左、ゼロの目盛りが共産党。
その少し右寄りの小さな点が社民党だ。
この定規を俯瞰すると、日本の政党は、5センチの目盛りよりも右に集中している様子が見えるだろう。
一方、国民の政治意識は世論調査などから推測すると、極右、極左を除いたところに均等に分布しているのだ。
つまり、政治意識が中道左派にある国民の利益を代弁する政党が存在しないことになる。
国際基準で言えば、オバマ米大統領の出身母体である民主党、イギリスの二大政党の一つで中道左派の労働党、ドイツの中道左派政党で、現在連立政権に参加している社会民主党が占めている位置がそうだ。各党の勢いを見れば、マーケットとして十分に成立している。
しかし、日本の政治においては、このゾーンが、ガラ空きなのである。日本の有権者で、中道左派のゾーンに投票したい人にとっては、マーケットに”ほしい商品”が置かれていないのだ。
いや、正確に言えば、このマーケットには公明党がいる。しかし、支持者以外に広がりにくい”商品”だから、一見さんが手に取るには抵抗がある。
だからといって現在の社民党では影響がなさすぎる。
結局、選挙のときに、5センチの目盛りから右にいる政党に投票したくない有権者にとって、現実に影響を与えうる政党という観点からの選択肢は、消去法でいくと公明党と共産党しか残らない。
自民党は、そういう意味では、いろんな人がいて、幅が広い政党ではあるとも思うのですが、自民党の中でも、誰がトップに立つかによって、大きく政策が変動してしまうところがあります。
僕自身が、この「グレーゾーン派」「中道左派」に属すると思うので、たしかに、選挙のときには「入れたい政党がない」のですよね。
公明党は、創価学会との関係を考えると、非信徒にとっては、敷居が高いし。
著者は、これからの世界に「も」大きな変化が起こってくることを予言しています。
ただしそれは、ありがちな危機意識を煽るような本に書かれているようなものではなくて、もっと緩やかで、確実で、世界的規模の。
そのような変化は、人類にとっては初めてではないのだけれど、その時代を生きている人たちにとっては、「初体験」なのです。
どこかで、みんながその新しい世界に適応していくことになるのでしょうけれど、その過程で、いかに犠牲になる人を少なくしていけるか、を著者は考えているのです。
多くの「予言の書」が、「君たちは変わらなければ生き残れない」と読者の危機意識を煽って信者を増やそうとしているのに対して(ちょっと『エホバの証人』みたいですよね)、著者は、「変われない人」にも、しっかりと目を向けているのです。
成長がない時代の新しい生き方を長期的に模索することは大切だ。それを否定はしていない。私もそうした新しい生き方を探す若者たちを応援し、さまざまに助言している。国家の領域を超えたグローバル企業に就職するエリート、新しい分野で起業に挑戦する人、海外に出る人、山あいの村でヒッピー村をつくる人、農業や漁業、狩猟など一次産業にあえて戻っていく人、さまざまな若い新しい生き方が現れてきている。
でもそういう生き方は、誰にでもできるわけではない。お手本となるロールモデルが少なく、前人未到の新天地にあえて乗り込んでいくのは、たいへんリスクの高い行為だ。試した人が少ないから失敗する可能性が高いし、全人格的な能力が求められる。だから現時点では、そういう新しい生き方は「選ばれた優秀な人たち」にしかできない選択肢だ。新しい生き方を賞賛しすぎることは、「選ばれた優秀な人たち」に入らない多くの人たちにとっては、落胆と絶望でしかない。
「それができるのは一部の人たちだけでしょう」
そういう声を、私はインターネットでも、トークイベントでも、人との集まりでも、いたるところで何度も聞かされた。本当に彼らの言う通りだと思う。
必要なのは両輪だ。一方では、新しい生き方を探す人たちを応援していく。彼らはこれからの可能性を切りひらき、新しい社会をつくる尖兵となる人たちだ。
もう一方では、普通の生き方をする人たち全員が、どう社会に包まれて無事に過ごしていけるかを社会全体で考える。それは「可能性」じゃなくて、絶対に「必要」なことだ。
この新書に、新しい生き方のすべてが書かれているわけではないんですよ。
でも、こういうふうに「みんなが同じ方向に行く」ことではなくて、それぞれが自分の持ち場で、自分に向いたことをやっていく、というのは、すごく大切なことだと僕も思います。
ネットでは「新しい生き方を選んで、冒険する人」と、「これまでの生き方を踏襲する人」はお互いに反感を露わにしがちだけれど、役割分担していったほうが、前に進むためには効率的なはず。
お互いに「自分が苦手なことを、代わりにやってくれている人」だと認めればいいんだよね、こういうのって。
当たり前のことを当たり前に書くというのは、とても難しい。
これはまさに、そういう「グレーゾーンをうまく言葉にした新書」だと思います。
- 作者: 佐藤優
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2014/10/10
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- 作者: 佐藤優
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2014/12/10
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