琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】「メジャー」を生み出す ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
“若く、普通の人々"を相手にしなければならないエンタメ業界の「メジャー」市場。そこで闘い続ける、優れた創作者の体内で実践されている「マーケティング」は深い!プロの時代観をベストセラー編集者が徹底取材!


 この新書、著者が、現在を代表する「メジャーな」クリエイターたちにインタビューしたものをまとめたものです。
 このインタビューの根底にあるテーマは、いまの世の中の「ふつう」「メジャー」とは何か?ということではないかと僕は考えながら読みました。

 本書は、現代において、特定のコアセグメントに向かうのとは逆に「若く、ふつうの人々」と向き合い続けて作品をつくっているクリエイターに取材し、その知見と実感を取材したものである。
 本書に登場するのは、この時代の、まさにメジャーの王道にいる人もいれば、自分自身が若者としてメジャーを目指している人など、さまざまである。


 いわゆる「サブカル」のような「マイナーを自覚・自称する人たち」を対象とし、ニッチな市場を狙った作品がもてはやされるというか、「お金になる」時代がありました。
 それは今でもたしかに続いているのだけれど、その一方で、もういちど「ふつうの読者に、ふつうに楽しんでもらえる作品」に回帰しよう、というクリエイターたちが目立ってきてもいるのです。
 ただ、この新書には、ちょっともったいないな、と感じるところもあります。
 「『メジャー』を語る人としては、ちょっとこの人たちはマイナーすぎるのでは……」というインタビュー相手の選択基準や、大勢のクリエイターの話が細切れに収められているので、「面白そうな人は多いけれど、ちょっと個々の作家への掘り下げが足りない」ような気がするんですよね。


 出てくるクリエイターのなかで、僕がいちばん気になったのは、浅野にいおさんでした。

 実名主義フェイスブックを生んだアメリカのネット社会ならば日本と違うとは言われるが、あちらでも匿名の掲示板では、激しい罵り合いがあったりするので、これは人間の普遍的な事情なのかもしれない。
 だから不用意に表現者がそうしたネットの投稿をのぞき込むと、それだけで心に致命傷を負うこともある。芸能事務所などでは所属タレントに匿名掲示板を見ることを禁止することもあると言うが、それも無理もないことなのだ。
 しかし、浅野さんは『おやすみプンプン』の当時、あえてそのネットをとことんまでのぞき込み、それを糧にして描いていたという。ほとんど24時間、自分の名前を検索する「エゴサーチ」を行い、徹底的にインターネットの投稿と向き合って描いていたそうだ。
 浅野さんは、もともとはそれほどネットを意識するタイプではなかった。せいぜい半年に一度くらいネットの掲示板をのぞいて、それで散々傷ついてもんもんとしていた程度だったという。しかし「そういうのはいつも遅い」と語る浅野さんも、やがてTwitterをはじめるようになり、今ではどんな下世話な投稿でも全部見ると決めて、徹底的にエゴサーチを行っているそうだ。

 すごい精神力だな……と、ネット上でクリエイターたちに浴びせられるバッシングの数々を傍観している僕は、驚いてしまいました。
 いまの浅野さんは「ネットの批判をあえて見て、それに対する怒りや反発を創作のエネルギーに変換している」のだそうです。
 なるほど、そういう「利用法」もあるのか……なかなかできないことだとは思うけど。


 浅野さんは、こう仰っています。

花沢健吾さんが『ボーイズ・オン・ザ・ラン』という漫画を描いていたのですが、ある人がこの作品を読んで“これからは下流の時代だ。下流ブームがくる”と言っていたんです。僕はそれを聞いて本当に納得できたんですね。
 たとえば、最初から自分が下だと定義して卑屈に振る舞うことで、それを自分の盾にする。それで自分を防御するみたいなスタンスが、世の中にわーっと増えた。たとえば『非モテ』とか『童貞こじらせ系』みたいな言い方が出てきたじゃないですか。
 あの人たちって、自分を非モテと言って一段下に置いてみせる一方で、『自分たちはモテなかったから、モテているヤツをどんなに攻撃してもいい』という自由を手に入れる。『リア充爆発しろ、死ね』みたいにね。
 普通、モテモテの人なんてごく一部の人間で、そうじゃない人がほとんどじゃないですか。それなのにあの人たちは自分を非モテと言うことで、逆に自分を特別扱いしているんです。安全圏に自分を置く。そしてそこからどんなに誰かを悪く言ってもいい。なぜなら自分はモテないから。
 これの都合のいいところは、うまくいってないときは誰かを攻撃してもいい。しかしうまくいって、いざ自分自身が今まで批判してきた対象になったら、自分のやってきた卑屈な行動っていうのを全部きっぱりと忘れてしまっていいんです。なかったことにしていいんですよ。それってなんかすごい便利な人たちだなと感じます。しかし、なんて小賢しいんだと思っちゃいますけどね。
 でも今みんなそんな風に楽というか、自分はなるべく努力しないで安全圏にいてすむ立場を探している気がします」


 ネットでいちばん強いのは「何も持たない人」だと、聞いたことがあります。
 ネットの場合、発信者を特定することは不可能ではないのだけれど、あまりにも手間がかかるので、よほどの犯罪でもやらなければ、追跡されることはありません。
 自分がうまくいっていないときは、誰かを攻撃してもいい、という人の存在は、たしかに僕も感じます。
 そして、その人たちは、自分がうまくいったときには、これまで自分が他者に浴びせてきた罵声を、すっかり忘れてしまう。
 まあ、たしかに「便利」ですよね。
 でもそれって、「とにかく引きずりおろしてやろう、という力ばかりがはたらく世の中」になっている、ということでもあります。
 こういう時代に「作品」を世の中に問うていくクリエイターたちは、本当にキツイと思うのです。
 もちろん、良質のものを発表していれば、大手の媒体でなくても、ネットで誰かが「発掘」してくれる可能性が高くなった、というメリットもあるのですけどね。

 試しに不特定多数がアクセスする匿名掲示板に、あなたの服装でもプラモデルでも車でも彼氏彼女でもなにか画像をアップロードして感想を聞いてみるといい。
 肯定的に評価されることは稀で、基本的にはけなされ、いとも簡単に「カス」「死ね」などのコメントをもらうことができるだろう。
 特にアップしたものが高価だったり彼女が美人だったりすると、批判もより過激になるはずだ。そうしたネット事情に不満をもらすと「叩かれて凹むくらいなら公開するな」と言われることになり、委縮してしまうだろう。
 こうしたネット空間では、自分でものをつくるのは圧倒的に不利だ。それよりも「ネタ」と呼ばれる冗談を消費したり、あるいは誰かがつくったものについてパロディを重ねたり、あるいは、あれこれ論じたり突っ込んだり、はっきりいうと「批判ばかりしているほうが居心地はいい」ということになる。
こうしたネットの意見に晒されることを前提にしなければならない世代が、委縮して保守化してしまうのも無理はないのかもしれない。
 しかもそれはもしかするとネットだけの話ではないのかもしれない。人間関係全体も批判を恐れるようになっていて、保守化している。そしてネットに「荒らし」が跋扈するように、モンスタークレーマーDQNが暴れているのが、現代社会の風景かもしれない。


 みんなが「批判する側」に立ちたがる世界で、誰が、その「批判されるもの」をつくろうとするのだろうか?
 でも、なんのかんの言っても、「承認欲求」みたいなものは捨てられず、作品をつくる人はいるし、それを批判することによって、「承認」されようとする人もいる。
 最近のネットをみていると、「批判できるものを探している人」が、増えてきているような印象があるんですよ。
 何かに出会って心がささくれだって、「何か言わずにはいられなくなった」のではなく、最初に「何か言わずにいられないという衝動」があって、そのターゲットを探しに行く人々。


 この本を読んでいると、いまのクリエイターって、「批判されにくいように逆鱗を避ける用心深さ、繊細さ」と、「それでも批判されたときに、致命傷を受けないだけの打たれ強さ」を兼ね備えていなければならず、大変きつい仕事だなあ、と考え込まずにはいられません。
 ネットで受け手と「直結」してしまったおかげで、編集者に守ってもらうこともできないし、いくら「炎上」は困るからといって、「炎上しないことが最大の目的の作品」なんて、誰も読まないでしょう。
 「よくぞここまでやった!」と「これはやりすぎ」「○○に対する配慮に欠ける」は、本当に「紙一重」なんですよね。


 いまの時代にクリエイターとして生きることの難しさを思い知らされる新書です。
 それでも、クリエイターは「メジャー」を目指す。
 やっぱり、少しでも多くの人の手に届けたいから。

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