琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

バケモノの子 ☆☆☆☆

人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街」は、交わることのない二つの世界。ある日、渋谷にいた少年が渋天街のバケモノ・熊徹に出会う。少年は強くなるために渋天街で熊徹の弟子となり、熊徹は少年を九太と命名。ある日、成長して渋谷へ戻った九太は、高校生の楓から新しい世界や価値観を吸収し、生きるべき世界を模索するように。そんな中、両世界を巻き込む事件が起こり……。


参考リンク:映画『バケモノの子』公式サイト


2015年17作目。
火曜日のレイトショーで観賞しました。
観客は僕も含めて8人。平日の夜ということを考えると、こんなものなのかな。


冒頭で、渋谷の街の書き込みっぷりに驚きました。
いやそれ背景……なんだよね。東京の人がみれば、いろいろと違うところもあるのかもしれないけれど、細田監督の「背景フェチ」っぷりは、今回も徹底されています。
一軒一軒の店の看板の書き文字も読めるくらいで、これって、「映画内広告」みたいなものなのだろうか、それとも、リアリティを出すためで、無報酬でやっているのだろうか。


その一方で、この作品の魅力的な舞台になるはずの『バケモノの世界』については、あんまりその「独自の世界観」がわからなかったんですよね。
ちょっと昔の人間の世界と同じような感じで、「バケモノらしさ」みたいなものは、あんまり伝わってこなかったのです。
「現実の渋谷」を描くことの熱意に比べると、「架空のバケモノの世界」に対しては、やや冷淡でさえあるような。
キャラクターについても、主要なもの以外については、少なくとも渋谷の背景に対してのような「アツさ」は伝わってきませんでした。
いや、これは細田監督の悪口を言いたい、というわけではなくて、この人が本当に描きたいのは「いま、ここにある世界」なのかもしれません。


僕は、この映画を観る前、ちょっと身構えていたのです。
おおかみこどもの雨と雪』が「シングルマザーもの」であるとするならば、今回は「シングルファザーもの」であり、「父親と息子の物語」なんて、2人の息子がいる僕にとっては、ピンポイントで涙腺を刺激されるようなものではないか、と。


身構えて、いたんですけどねえ……
いやほんと、この映画、昔は「男の子」であり、いまは男の子の父親になった僕にとっては、身につまされるところばかりで。
熊徹は、ほんと、「強い」のと「生来、邪悪ではない」ことを除けば、ひどい父親というか、ひどい人間なんですよ。
人の話を聞かずに自分のやりかたを押し付けようとするし、他者を指導するときも「こうやって、グイッといって、バーンだ!」(実際の映画での表現とはちょっと違いますが、こんな感じです)とか、いわゆる「長嶋茂雄さんのアドバイス」みたいな、感覚的な表現が並びます。
九太とはお互いに口を開けば罵倒合戦で、弟子を褒めてやることもない。
大人としての「生活力」にも乏しい。


あらためて考えてみると、九太があまりにも優秀な弟子で、自分で考えて動いてくれるので、熊徹の「指導者としての経験不足」が補われているだけ、でもあるのです。
僕は、熊徹の教え方は、拙かったと思う。
多くの子どもは、ああいう指導をされたら、ついていけないというか、ついていく気を失くしてしまうはず。
九太のようなタイプは、ごく一部の例外で、「手取り足取り密着指導してくれる師匠」だと、自分で考えなくなってしまって、かえって良くないという「自己研鑽型」なのです。


しかし、自分が大人になって、「自分が子どもの頃、どういうふうにして欲しかったか、思い出してみろ」とか言われると、なんだか考え込んでしまいますね。
最近、「勉強したくない」「習い事にも行きたくない」とゴネる長男と衝突する機会が多くって。
率直なところ、僕自身も「学校も習い事も嫌いな子ども」だったので、それをあてはめると、「じゃあ、行かなくてもいいよ」になってしまう。
結局のところ、なんとか言いくるめて行かせてしまうのですが、「子どものやりたいようにやらせてあげるべきだ」vs「子どもというのは、ある程度大人が道筋をつけてあげないと、『自分がやりたいこと』を考えることが難しくなってしまう」という葛藤は、ずっと僕のなかにあって。


この映画、日本語でのタイトルは『バケモノの子』なのですが、英語では”The Boy and The Beast”なんですね。
美女と野獣 Beauty and the Beast』を意識したのだろうか。
英語を直訳すると、『少年と野獣』になってしまいます。
日本語の「の」という助詞は、ものすごくいろんなニュアンスを持っていますよね。


この映画では、わかりやすい「バケモノ」として父親役の熊徹は描かれているのですが、父親というのを7年くらいやってきて痛感しているのは、「育児、とくに最初の子どもを育てるという体験は、誰にとっても『初めて』なのだ」ということです。


僕は、子どもの頃、自分の父親のことが、よくわからなかった。
それこそ「バケモノ」だとさえ、思っていた。


ところが、自分が父親になってみると、今度は、自分の子どものことがよくわからない。
僕には息子しかいないので、娘だったら「わかる」のだろうか?なんて想像してみるのですが、やっぱり、実感はわきません。
父親にとっては、子どものほうが「何を考えているのかよくわからない、バケモノ」なんですよね。


自分が子どものころ、ちょっと機嫌が悪くなると「ご飯いらない!」って言っていたものですが、親になってみると「ご飯を食べてくれない子ども」というのは、ものすごく心配で。
妻の場合、自分がつくったご飯を食べてくれないというのは、僕どころではない、かなりの精神的なダメージのようです。


親と子、とくに僕の経験では、父親と息子というのは、お互いが「バケモノ」なんだよね。
相手が何を考えているのか、サッパリわからないし、なんでそんなことをするのかわからない、不合理なことばかりやっている。
そのくせ、酔っぱらって帰ってくると「お前たちが大好きだ!」とか、酒臭い息を吐きながら、愛情を語る。
うむ、子どもの頃は「どっちにしても気持ち悪いけど、せめて素面で言えよ」だったのですが、親になってみると「そういう心のタガが外れたような状況でもないと、正直になれない大人のややこしさ」みたいなものも、わかってきます。
息子って、親からすると真似してほしくないようなところに限って、面白いのか参考にしてくれるんだよね……
そして、育児は、子どもだけでなく、大人も変えていくというのを、僕も日々実感しています。
成長を感じることもあるし、自分の子どもに対して、「仕事相手」には出せない、自分のイヤな面が漏れ出してしまうことに戦慄することもある。


この映画、おそらく、僕のような中年男性には、ものすごく「刺さる」と思うんですよ。
でも、僕が子どもの頃に見たら、「なんて説教臭い、お父さん礼賛の映画なんだ……」とうんざりしてしまったかもしれません。


父親の、父親による、父親のための映画」という感じで、僕は心を揺さぶられました。
中島敦が小道具として使われているのも、最後がさりげなく『名人伝』っぽいのも、けっこう好きです。


ただ、個人的にちょっと気に入らなかったのは、楓が「わたしたちみんなが心の闇を持っている」みたいなことを主張する場面で、「いやいやいや、いくらなんでも、君のその『中二病の延長戦のような『ファッション闇』」と、バケモノチルドレンたちの心の闇を「おんなじ」だと言い切られると、さすがにちょっと引くぞ、とは思いました。
そもそも、必要だったのかな、楓って。
ヒロインが居たほうがいい、というのはよくわかるのだけれど、あまりにも九太を信用しすぎじゃなかろうか。
男はみんな「バケモノ」ですよ(主語が大きい!)


中年パパが、自らの来た道のりの断片を思い浮かべつつ、ひとりで観賞するには、最良の映画ではないでしょうか。
観る立ち飲み屋、そしてお父さん行きつけのスナック、という感じ。


ほんと、あんまり悪く言うところが思いつかない映画なんですよ。
でも、そういう「品行方正さ」や「隙のなさ」みたいなのが、この映画の最大の「問題点」であるような気がするのです。
あれで「ゼロ」はないよね、いくらなんでも。
細田監督は誠実な人なのだと思うけれど、あまりに不自然というか、なんらかのエクスキューズっぽく感じてしまいました。
あれは、あえて言及しないほうがよかったのではなかろうか……


あと、役所広司さんの声の説得力すごい。
熊徹が「単なる毒親」に堕ちてしまわないのは、役所さんの声をおかげではなかろうか。
そして、アニメでも「いかにもリリー・フランキーさんがやりそうな役をやっている、リリーさん」に遭遇。

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