琥珀色の戯言

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【読書感想】「昔はよかった」病 ☆☆☆☆


「昔はよかった」病 (新潮新書)

「昔はよかった」病 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「昔はよかったね」―日本人はそう言って今を嘆き、過去を懐かしむばかりだ。昔は安全だったのに、子どもは元気だったのに、地域の絆があったのに、みな勤勉だったのに…。しかしそれは間違いだ。捏造された追憶、あるいは新しいものを否定する年長者のボヤキにすぎない。資料を丹念に分析し、シニカルな視点で通説を次々ひっくり返す。「昔はよかった」病への特効薬となる大胆不敵の日本論。


 謎の「日本文化史研究家、戯作家」パオロ・マッツァリーノさん。
 多くの人が「常識」だと考えていることに対して、膨大な資料やデータをもとに、「それは思い込みでしかない」ことを暴いてきたパオロさんが、『新潮45』に連載されていた「むかしはよかったね?」を新書にまとめたものです。
 採りあげられている題材は、「火の用心」「日本の治安」「クレーマー」「熱中症」など、かなり多岐にわたっていて、「この回は、ネタ的にかなり苦しかったのではないか?」と思うものもあるのですが「日本の社会の変化」を知るうえで、というか、「なーんだ、いまのほうが、よっぽどマシじゃん」と、ちょっと嬉しくなってきます。
 なんのかんの言っても、世の中というのは、長い目でみれば、けっして「悪いほうにばかり向かっていく」わけではない。
 もちろんそれは、長期的な視野で、という話であって、江戸時代よりはいまのほうが「便利」だし「長生き」もできるようになっているのだけれど、第二次世界大戦の時代にぶち当たってしまった人は、若くして命を落としてしまってもいるわけですが。

 統計上、1970年ごろからこどもの体力が低下傾向にあるのは事実です。むかしはひ弱なこどもなんていなかったという話も、あながちウソではありません。でもそれって本当に、「むかしはよかった」のでしょうか。
 むかしは乳幼児死亡率が異常に高かったことをお忘れですか。2015年現在、生後1年以内に死ぬ乳児は、1000人中2人か3人といったところ。でも1975年には10人いました。つい40年前までは、赤ん坊の100人に1人は死んでたんです。戦前の状況なんて悲惨です。生まれた子どもの10人に1人は1年以内に死んでたんですから。
 要するに、むかしは体力のないひ弱な子は、乳幼児の段階でふるいにかけられていた可能性が高いのです。ひ弱な子はこの世に存在できなかったのです。
 いまは医療技術や衛生環境が向上し、事故や犯罪が減ったことで、弱いこどもでも生きられる社会になりました。私はそんないまの日本社会を素晴らしいと思います。弱い子がなすすべもなく死んでいった冷酷な時代を、むかしはよかったね、と懐かしむ人たちの気が知れません。


 ネットでは、よく「ソースを出せ」という話になります。それはとても大事なことなのだけれども、「データ」って、切り取り方や解釈のしかたによって、意味が大きく変わってくることがあるのです。
 この話だって、新聞やネットニュースで、体力測定の結果を提示されて、「こどもの体力が年々低下してきている」という説明文がついていれば、大部分の人は「そういうものか」と思うはず(僕だってそうです)。
 「ソースがあるからこそ」人は信じてしまうし、思いこんでしまう、という面もある。
 データが目の前にあるときに、「このデータをどう読み解くか?」を考えている人って、そんなに多くはないのです。
 この本、「昔はよかった」とばかり言っているオッサン、オバサンたちに「つうこんの一撃」を加えて、拍手喝采、というふうに見えますが(たしかにそういう面もある)、「統計とかデータというものを、鵜呑みにしてはいけない」という「リテラシー」の入門書でもあるのです。


 これを読むと、僕たちがおそれているさまざまな事象が、「確率」でみると、ごくわずかなものであることがわかります。

 児童誘拐殺人という痛ましい事件が起きたことはとても残念です。私だって犯人は許せません。
 でもだからといって、こどもの誘拐事件がむかしより減少している事実を隠蔽するのも許されません。統計を曲解し、誘拐は増えていると報じて恐怖を煽るようなマスコミは断罪されるべきです。
 実際には、こどもを連れ去るのは離婚した元親など、こどもの親類・知人である例が多いのです.不審者や他人による誘拐事件はこの10年で半減し、年間30件くらい。
 30件もあるじゃないか? いま日本に13歳以下のこどもは1500万人以上いるんですよ。あなたのお子さんやお孫さんが不審者に誘拐される確率は、1500万分の30でしかありません。
 事件後、新聞やテレビでは、「地域の見守りがもっと必要になる」と大合唱していましたけど、私はそうは思いません。
 すでに日本中のほとんどの町で、PTAなどによるこどもの見守り活動をやってるじゃないですか。
 学校の校門では毎朝、先生たちがこどもをお出迎えしてあいさつまでしています。なんなのあれ、気持ち悪い。
 1500万分の30の危険に対する警戒としては、もうじゅうぶんなレベルの活動をやってます。これ以上やったら見守りでなく見張り、監視です。
 オトナたちがいつでも見守ってくれってうれしい! なんてこどもたちが感謝するとでも思ってるの? いまでさえじゅうぶんウザいのに、これ以上監視されたら、きっと反抗する子が出てきますよ。
 これ以上どんなに見守りを強化しても、1500万分の30というわずかな発生率をゼロにすることなど不可能です。スーパーヒーローにでもなったつもりですか。思い上がりもはなはだしい。
 過剰な見守りが、こどもたちの自主性や判断力を奪ってしまうデメリットのほうが心配です。
 これ以上はオトナたちの力でもどうにもならないから、あとは自分で判断して生き残れるようになりなさい、と真実を教えるのがホンモノの教育です。

 
 この文章などは「煽り成分」もけっこう含まれてはいるのですが、リスクを減らすためにかかるコストを考えると、たしかに、ゼロにするのは難しいし、これ以上減らしていこうとすれば、見守る側も見守られる側も、あまりにも負担が大きくなりますよね。
 それでも、「もし、自分の子どもが被害にあったら……」と考えると、なかなか「もう、このくらいで良いんじゃないですかね……」とも言いがたい。
 数字として、全体の統計としての印象と、「それが自分に起こったら……」という想像とのせめぎあい、みたいなものは、僕にもあるのです。
 「けっこう安全」な社会であることは理解できるのだけれど、なかなか「安心」できない。
 

 パオロさんは、この問題について、「安全・安心ウォーZ」という章で、こんなふうに書いておられます。

 ”安全”と”安心”は文字にすると似てるけど、水と油といってもいいほどに異なる概念です。
 その決定的な違いは、危険(リスク)に対する態度にあります。
 安全を実現するためには、つねに現実の危険と向き合わなければなりません。どんな危険がどこにどれだけ存在するのかを、つねに把握して可能なかぎり回避する。これがホンモノの安全対策。
 かたや、安心はこころの状態にすぎません。感じかたには個人差があります。アタマの悪い人ほど、現実の危険から目を背け、儀式やげん担ぎを懸命にやって、危険を遠ざけたと”安心”しがちです。
 安心は、安全であることを保障しないのです。安全の実現のためには、安心することは許されません。


 安心を追い求めても、キリがない。
 そして、安全に「100%」はない。
 わかるんだけどねえ、うん。頭では、わかっているつもりなんだけどねえ。
 人間って、宝くじを買うときには、それがものすごく低い確率でも「起こるかもしれない」と期待し、不幸な事故や天災に関しては、「なんでこんなことが起こるんだ」と考えてしまう。


「テンション」という言葉が日本では誤用され、それが一般的になっていることを指摘した章より。

朝日新聞』1989年8月6日付に掲載された上野千鶴子さんのコラムより。

 わたしは日本人の中ではテンション・レベルが高い方に属するだろう。そのわたしから見ても、アメリカ人は、ハイパーテンションな人々だが、そのアメリカ人の間にいるのがちっとも苦にならないから、きっとわたしも相当にテンション・レベルが高いのだろうと思う。

 
 ちなみにですが、”ハイパーテンション”は英語では”高血圧”のことです。上野さんは、アメリカ人は高血圧だが自分はもっとすごいぞ、と生活習慣病自慢をしているのでしょうか。
 ちがいますね。そんな自虐コラムではありません。文脈から察するに、自分は日本人にしてはかなり気が強く積極的でやる気にあふれている人間なのだ、とおっしゃりたいようです。ということはやはり、テンションを元気・活力などの意味でまちがってお使いになってるんです。


 著者によると、英語の”テンション”は、「緊張、張りつめた状態のこと」だそうです。
 この本来の意味を知っている人も多いとは思いますが、日本では、かなり「誤用」されているのです。
 それにしても、この上野先生の「ハイパーテンション」なコラム、朝日新聞の校正の人、なんとかしてあげればよかったのに……すみません、僕は爆笑してしまいました(ハイパーテンション、というのは、医学の世界ではよく使う言葉でもありますし)。


 「ネットリテラシー」なんて言う人は多いけれど、じゃあ、どんなふうに身につければ良いんだ?
 そう思っている人は、まず、この新書を読んでみることをおすすめします。
 面白くって、ためになる。そして、自省せざるをえない。


 「リテラシー」(情報を活用する能力)も「安心」ではなくて、「なるべく安全」を目指したいものです。



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