琥珀色の戯言

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【読書感想】スクラップ・アンド・ビルド ☆☆☆


スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド


Kindle版もあります。

内容紹介
第153回芥川賞受賞作


「早う死にたか」
毎日のようにぼやく祖父の願いをかなえてあげようと、
ともに暮らす孫の健斗は、ある計画を思いつく。


日々の筋トレ、転職活動。
肉体も生活も再構築中の青年の心は、衰えゆく生の隣で次第に変化して……。
閉塞感の中に可笑しみ漂う、新しい家族小説の誕生!


そうか、「介護」か……
芥川賞と介護といえば、モブ・ノリオさんの『介護入門』を思い出さずにはいられないのですが、あの作品が受賞したのは第131回・2004年の上半期だったんですね。
あれから、もう10年以上も経っているのか。
『介護入門』は、ヒップホップ調の文体なども含め、当時はけっこう「何これ?」みたいな感じで話題にもなりましたが、モブ・ノリオさんはその後あまり作品を発表されていないようです。


感想を書き始める前までは、「芥川賞って、『介護ネタ』と『昔気質の純文学』が好きだよねえ」なんて話にしようかと思ったのですが、「10年に1作受賞」とかだと、「好き」とも言えないか。


この『スクラップ・アンド・ビルド』は、「ずっと入院していなければならないほどではないが、ひとりで生活できるほどの体力はなく、ずっと『もう死にたい』と言い続けている祖父の介護をサポートしている若者の話」です。
まあなんというか、いろいろと「微妙」ではありますし、医療側としては、いろいろ物申したいところもあるのですが、「家族側からみた介護の現実」みたいなものについて、考えさせられるものではありました。
前述の『介護入門』は、『恍惚の人』以来の「重苦しい介護の現実に、家族が耐えていく」という建前に風穴をあけるような作品だったのですが、この『スクラップ・アンド・ビルド』は、どんどん衰えていく祖父を「反面教師」のようにして、自分を鍛えようとする若者の姿が描かれています。
ひたすら、「こんなふうにならないように、身体を鍛えよう!」とか「自分を磨こう」とばかり考えているんですよ、この主人公。「お迎え」が来るのを願っていると口にしながら、「そんなことないですよ」「長生きしてください」という言葉を待っている祖父をみながら。

「もう、毎日体中が痛くて痛くて……どうもようならんし、悪くなるばぁっか。よかことなんあひとつもなか」
 背を丸め眉根を寄せ、両手を顔の前で合わせながら祖父がつぶやく。佳境にさしかかった、と健斗は感じる。
「早う迎えにきてほしか」
 高麗屋っ。中学三年の課外学習で見た歌舞伎で、友人たちと面白がり口にしまくった屋号を思いだす。祖父の口から何百回も発された台詞を耳にしながら、健斗は相づちをうちもせずただその姿を正視する。
「毎日、そいだけば祈っとる」
 弱々しい声でこんな台詞が発されたとき、祖父がここへ来る前の四年間埼玉の自宅で面倒を見ていた叔父なら、それを打ち消しなだめるような優しい言葉をかける。五人兄妹のなかで最もニヒリストの母に似たのか、健斗にはそんなことをする気も起こらない。醒めた観客相手にも、祖父は慰めてもらう前提の愚痴を吐き続けることを止めなかった。
「もうじいちゃんなんて、早う寝たきり病院にでもやってしまえばよか」


「かわいそう」とか「子どもの、家族の義務」とかいう考えかただけでは、やっていけなくなっている「超高齢化社会」の現実というのがここには書かれているのです。
いまの世の中、80歳、90歳くらいまで長生きする人は、そんなに珍しくもない。
「家族が面倒をみるべき」という世間の目や、介護施設に入所するためにはお金、あるいはかなりの順番待ちが必要です。
親が90歳まで生きると、子どもは60歳くらいになってしまっているわけで、「老老介護」、そして、「介護をしているうちに、自分の人生も晩年になってしまい、今度は自分が介護される番になる」世の中なのです。
大人の人生が、介護するか、されるかだけで終わってしまう。


これを読んでいて、昔読んだ、筒井康隆さんの『定年食』という短編を思い出してしまったんですよ。
『定年食』の世界では、人間はある年齢になると、みんな殺されて、周囲の人々の食料になるという「きまり」がある。
仮にその年齢まで元気であっても。
なんて残酷な話なんだ、と思いつつも、ちょっと「潔さ」みたいなものを感じながら、高校時代の僕は読んだのです。
さすがにそこまではいかないだろうけど、いまの世の中でも、「とにかく人間を延命させよう、どんなかたちになっても、心臓が動いていればいい」と考える人は、以前より少なくなってきている印象です。
とはいえ、「積極的に人が死ぬようなこと、ましてや知っている人を傷つけるようなことをしたくはない」のも事実ではあります。
ヨーロッパでは、「老衰で口からものが食べられなくなったら、チューブを口や鼻から入れたり、胃瘻をつくったりして栄養補給をすることはない」そうなのですが、日本もそうなりつつあります。
まあ、高齢者たちが、実際にどんな感覚なのかというのは、「わからない」のですけどね。


この『スクラップ・アンド・ビルド』って、「家族というしがらみから、人々が解放されたいと願いつつも、現実的にはうまく離れられない」という「過渡期の文学」ではないかと僕は感じました。
主人公にとっての祖父は「家族」ではあるけれど、そこに存在しているのは、「家族への愛着」というよりは、「介護の必要性があるという理由で、実家に自分の居場所をつくってくれる存在」なのです。

 マンションへ帰り着き階段を上る時にはもう、両脚や腹直筋の筋肉痛が始まっていた。30にもなっていない己の衰えを情けなく思ういっぽう、健斗の気持ちは自分の恵まれた点を再発見できた喜びで明るい。そもそも自立歩行できてるじゃないか、俺は。祖父がなによりも嫌がる階段の上り下りを、こうしていとも簡単にできてしまっている。中途採用面接に落ちたくらいでめげるな俺。息もたえだえに暗い3LDKへ戻った健斗は、ついでに健全な肉体を謳歌するように廊下で腕立て伏せ20回を行ってからシャワーを浴びた。


ほんと、この健斗って奴、自分のことしか考えてないよな、と思ったあとで、僕もやっぱり「自分のことしか考えていない人間」であることに気づきました。
というか、このくらい割り切らないと、介護なんてできないという人は、少なからずいるはずです。
人間、介護している間に、自分だって年を重ねていくわけだし。


個人的には、羽田圭介さんの作品としては、前に芥川賞候補になった『メタモルフォシス』のほうが面白かった(でも、ある意味「センセーショナル」で「下世話」すぎたのかもしれない)のですが、この『スクラップ・アンド・ビルド』も、「介護者と介護対象者の距離感の時代による変化」を描いた佳作だと思います。
でもやっぱり、「介護モノ」って、ちょっと「底上げ」されるのかな、という気もしますね。


『スクラップ・アンド・ビルド』は、こちらの『文藝春秋』の2015年9月号にも全文掲載されています。
又吉直樹さんの『火花』も(?)全文掲載。

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メタモルフォシス

メタモルフォシス

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