琥珀色の戯言

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【読書感想】コミュ障 動物性を失った人類 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
最近、学校や会社の中で人と上手に話ができなかったり、他人の話をちゃんと聞けない人が目立つという。自分の言いたいことだけ言ったら、他の人の言うことには耳を貸さない、相手の目を見て話ができない、等々。いったい、「コミュ障」とはどういう人なのか? 本書では、「コミュ障」の人たちの特異な言動を、脳の情報処理系から分析していきます。すると、意外な発見が……。じつはコミュ障の人には他の人にはない社会を突き動かす能力が備わっているというのです。さらに、こうした情報処理能力は、動物的な処理経路を捨て去ることで実現していると。つまり、コミュ障の人たちは、より人間らしい人間と言い換えることができるのです。ますます住みにくくなってきた現代社会をどう生き抜いていったらいのか、そのヒントがここにあります。


 「コミュ障」という言葉をきいて、「あの人のことかな……」と顔を思い浮かべる人がいますか?
 まあ、いまの世の中、けっこうよく使われてる言葉でもありますし、みんな、ひとりやふたりは、周囲にいるのではないかなあ。
 僕の場合は、まず「自分自身が『コミュ障』のような気がする……」という不安が先に立ってしまうのですけど。
 「コミュ障」という言葉ができて、「人づきあいが苦手なひと」は、生きやすくなったのか、それとも、生きづらくなったのか……
 そもそも、「コミュ障」って何なのか、簡単に説明できますか?
 僕は「空気が読めず、そのおかげで周囲を不快にしてしまう人」というくらいの解釈をしているのですが、それが正しいかどうかは、あらためて考えてみると、あまり自信がないのです。


 著者は、現在、京都大学の霊長類研究所の教授で、「サル」の専門家です。
 そして、さまざまな「実験」によって、「コミュ障」を客観的に評価しようとしています。

 実験を二グループの学童で行ってみたのだった。
 第一グループは、ごくふつうの小学三年生の児童、そして第二グループは、コミュ障の子どもと判断される児童である。両グループとも学業の成績はまったく変わらない。知能指数(IQ)の値にも、差がない。ただし後者のグループに含まれる子どもは、学校内でも校外でも子ども同士の付き合いに問題を抱えている。先生や保護者との意思疎通にも困難があり、それがもとで相談施設や診療施設を訪れ、定期的な面談を受けている児童にほかならない。
 そういう子ども20名に実験への協力を求め、他方、学校や日常の生活に何の支障もない子どもを24名、無作為に選んで双方で「ウォーリーをさがせ」実験(描かれた12個の顔のなかから、他の顔とは違う1つの「怒った顔」や「柔和な顔」をすばやく探す実験)を行って結果をまとめてみた(本には結果のグラフが提示されています)。
 まず、ふつうの子どもから読み取れるのは、怒り顔を見つける方が笑い顔を見つけるより、要する時間が短いという事実であろう。後者が探し出すのには、1.1秒以上の時間を必要とするのに対し、前者ではおおむね1.0秒程度しかかかっていないのだ。
 他方、コミュ障の子どもについて見ると、笑い顔を見つけ出すのにかかる時間は、ふつうの子どもが要するのと大差ないことがわかる。ところが怒り顔を見つけるのにも、笑い顔の場合と同じくらいの時間を要している。
 結果として、怒り顔を探し出すスピードは、ふつうの子どもがコミュ障の子どもよりも速いということになる。一方、笑い顔に関しては、二グループにそれほど差がない。つまりコミュ障の子どもは怒り顔の検出だけが不得手ということなのである。


 もちろんこの結果には「有意差」があって、著者は、「このたった0.1~0.2秒の差が大きい」ことを説明しています。
 怒り顔を見つけるスピードが早いの
には、「危機をより早く認識する」というメリットがあるのだけれど、そういう「動物的な危機管理能が、「コミュ障」の人は鈍い、ということなのです。

 コミュ障の人は、他人が自分と異なる感性、価値観、ひいては世界認識することを夢想だにしないのだと、従来主張されてきたのだった。つまり、社会的存在としての人間を人間たらしめている社会性というもっとも高度とされる心理的能力に限界があることで、コミュ障の人は生まれると考えられてきた。
 だが、ここで書いた実験の結果はそうした今までの通念とまったく相反するもので、コミュ障は人間の資質を動物的なものと人間的なものに大別した場合、後者よりもむしろ前者に問題があることから生ずる可能性を示唆しているのだ。
 むろん世の中には、自身の判断や価値観を他人に押しつける人がいないわけではない。それどころか誰でも多少なりとも、そういうことをくり返しては日々を送っていることはすでに書いた。けれどコミュ障は、他の人々の「ひとりよがり」とは異質なのである。
 それにもかかわらず両者を区別せずに十把ひとからげにすることこそが、むしろ問題を複雑にしているのかもしれない。


 著者は「ただし、あらゆる人の行動に関心を示さない、という人も存在していて、それは古典的な自閉症であったり、うつ症状であったりする可能性がある」ことにも言及しています。


 最近は、「話が通じない人」「空気が読めない人」は、みんな「コミュ障」という言葉で表現されてしまいがちなのだけれど、実は、いろんなケースがある、ということなんですね。
 正直なところ、著者の話には頷けるところもあるけれど、STAP細胞の小保方さんに関する言及などは「ちょっとやりすぎなのではないか」と感じたところもあったのです。
 「こういう実験結果があって、こういう考え方をしている人もいる」という意味では、すごく興味深いし、「コミュ障」のほうが、むしろ「人間的」というのは面白いな、とは思うのですけど。

 理屈の上でこうすべきと考えても、周囲の冷たい眼が気になるから躊躇する、ということが稀だからにほかならない。だって冷たい眼差しへの感受性が低いのだから。そしてこのことは、情に棹さすことなく(つまり無用な感情をさしはさまず)、冷徹に対象に向き合うことが求められる科学的な研究という行為でも、コミュ障の人がユニークな適性を発揮できる可能性を示唆しているのである。
 つまり感情というものを犠牲にして、知性の優位性を無条件に認める資質――この態度をいかなる状況下でも貫徹できるという意味では、コミュ障の人こそまさに現代社会にとってうってつけの人材であるかもしれないのである。


 著者は、レオナルド・ダ・ヴィンチアインシュタインといった「コミュ障の天才」たちの事例をあげています。
 ネットでも、理屈や原理原則を譲らないタイプの人を見かけることがあります。
 というか、ネットのほうが、そういう意見は表明しやすいのかもしれません。
 現実社会では、「黙殺」「抑圧」されやすいのだろうから。


 少なくとも「コミュ障」=「人間として劣っている」ということではない、というのは、この新書のひとつのメッセージではないかと思いました。
 とはいえ、当事者の「生きづらさ」みたいなものは、そう言われても、なかなか克服するのが難しいのでしょうけど。

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