
- 作者: 又吉直樹
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2016/06/01
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
芸人で、芥川賞作家の又吉直樹が、少年期からこれまで読んできた数々の小説を通して、「なぜ本を読むのか」「文学の何がおもしろいのか」「人間とは何か」を考える。また、大ベストセラーとなった芥川賞受賞作『火花』の創作秘話を初公開するとともに、自らの著作についてそれぞれの想いを明かしていく。「負のキャラクター」を演じ続けていた少年が、文学に出会い、助けられ、いかに様々な夜を乗り越え生きてきたかを顧みる、著者初の新書。
あのピースの又吉さん(というか、『火花』で芥川賞を受賞した、と言ったほうが、今は通りがよさそうです)、初の新書。
作家であり、「読書芸人」である又吉さんがテーマとして選んだのは「本の魅力を伝えること」でした。
「なぜ本を読まなくてはいけないのか?」「文学の何がおもしろいんだ?」「文学って知的ぶりたいやつらが簡単なことを、あえて回りくどく言ったり、小難しく言ったりして格好つけてるだけでしょ?」
なかなか厳しい意見もあります。そのような時、僕は自分の知っている小説やエッセイの魅力的なところを話してみたり、その人が興味を持っていることとテーマが近い本を薦めるようにしています。後から、「読んだら、おもしろかった」という感想が返ってくると嬉しい気持ちになります。
でも今回は少しやり方を変えてみようと思います。
「なぜ本を読まなくてはいけないのか?」「文学の何がおもしろいんだ?」「文学って知的ぶりたいやつらが簡単なことを、あえて回りくどく言ったり、小難しく言ったりして格好つけてるだけでしょ?」
そのような質問に対して、自分なりに時間をかけて逃げずに説明してみようと思います。このことについて自分でも真剣に考えてみたいとも思いました。
この本のなかで、又吉さんは、本好きになるまで、そして芸人になるまでの人生を振り返っておられます。
僕は「又吉さんって、内向的だったけれど、成績は良いほうだったんだろうな」と想像していました。
ところが、「中学時代は学年で下から十番くらい」で、「授業を妨害するようなことは一切なく誰よりも静かなのに成績が悪いので、先生も戸惑っていたのではないか」という感じだったそうです。
中学校に入学しました。そして一年生の時、芥川龍之介の『トロッコ』に出会いました。いつものように先回りして読んでいた国語の教科書の中で読みました。それは今まで読んだどんな文章とも違うものでした。
「この主人公、めっちゃ頭の中でしゃべっている。俺と一緒ぐらいしゃべっている」
まず最初に思ったのはそのことでした。こんなに考えているやつが他にもいるんだ。
そして決定的だったのは中学二年生の時に読んだ太宰治の『人間失格』でした。『人間失格』は僕にとって、一番頭の中でしゃべっている小説でした。内容もさることながら、頭の中でずっとしゃべっている人達がいる。ずっと考えている人達がいると知れたことが、僕は本当に嬉しかった。僕だけではなかった。みんなひとりで考え、悩み、行動している。
外からみたら物静かな又吉さんなのですが、太宰治の小説の登場人物のように「頭の中ではずっと考え、しゃべっている人」だったのです。
ああ、この感覚、なんだかわかるような気がする。
太宰治との出会いによって、又吉さんは「そういうのは自分だけではない」ということに気づき、その「頭の中の言葉」を表に出すことを意識できるようになりました。
この新書のなかで、又吉さんは、『火花』を書いていたときのことや、『火花』に込めた思いについて語っておられます。
『火花』では芸人は実は切実な生き物であることを書いています。ここまで書いていいのかと僕自身思いました。劇場に足を運んで下さるお客さんが楽しみにくくなるんじゃないかとか。それでも、笑われてもいいと思っている僕でさえ、ここまでなめられる筋合いもないとも思っています。
芸人は楽して金稼いで、薄っぺらで浮かれているからすぐ消えていくんだクズどもが、そんな憎悪の対象になっていることも感じていました。前世で芸人に殺された経験があるんですかね。さすがに、そこまで言われる筋合いはないし、それはまったく違う理解です。この時代の「芸人」がいつか事典で説明された時、すごく間違った解釈で説明される可能性があるんじゃないかと不安になるほどです。
芸人があんなに頑張っていることをわからせる必要がなかったと言う人がいたら、それは売れている人か愛されている人の言葉です。芸人が適当に暮らしているという認識の下で、馬鹿にされていたとしても、愛されていたり、笑われているならいいと思うんです。だけど現状はそうではない。売れていない人間からしたら、むちゃくちゃ誤解されて、昔の芸人はすごかったとか聞かされて、クズみたいな扱いを受けて、笑われもせず、なぜか憎悪の対象になってしまう時さえある。もちろん「そんな現状を理解して欲しい」なんてことを書きたかったわけではなかったのですが、僕がたまたまそういう時期が長くて現実を目の当たりにしてきたので、その目線は外せなかった。その最も濃い視点を外して観察者に徹することができたら、また違う作品が書けたと思います。それが、おもしろいかどうかはわかりませんが。
又吉さんは、本当に真面目な人なのだと思います。
あくまでも芸人としての活動が優先で、それ以外の時間に文筆業をやっている。
『火花』も仕事を終えた夜中に少しづつ書き溜めていったそうです。
いまの作家には、西村賢太さんのような「昔ながらの無頼派」は少なくみえるのですが、又吉さんからは、太宰治や芥川龍之介のような「自意識との葛藤」とか「羞恥心と自尊心」のような、めんどくささが伝わってくるんですよね。
本を読むというのは、なんだか高尚な行為のように思われがちだけれど、生きることに難儀な人のためにこそ、「文学」は存在しているのではないか、と又吉さんの話を聞いていると、あらためて考えてしまうのです。
又吉さんは、『火花』のなかでも、「共感至上主義」への気持ち悪さを登場人物に喋らせています。
「この主人公に共感できない」という感想についても、「わからない人に触れるからこそ、自分の幅を広げる可能性があるのではないか」と仰っているのです。
また、「主人公の人格」についても、「小説の主人公は、ちゃんとした人間じゃなければいけない。おかしいヤツは許さない」というのは小説の世界を狭めてしまうのではないか、と危惧されています。
自分の感覚にはまるものがおもしろい、それ以外はおもしろくないというように読んでいくと、読者本来のおもしろさは半減してしまうと思います。読書のおもしろいところは、主人公が自分とは違う選択をすることを経験できることや、今まで自分が信じて疑わなかったようなことが、本の中で批判されたり否定されたりすることにあると思います。
言い換えれば読書によって今までなかった視点が自分の中に増えるということです。本に書かれていることがすべて正しいわけではないので、否定された自分の考えがなぜ否定されたのか、どのように否定されたのかを知り、それについて自分で考えを改めたり、いやそれは違うと反論したりすることによってさらに視点は増えていきます。
「わからない、共感できない」ものに実害を受けずに近づける、それが文学の力ではないか、と。
自分に共感できるものばかりに触れて、周りに集めていたら、いつまでたっても、自分は変わらない。
いや、変わる必要があるのか、という問題もあるのだけれど。
又吉さんに興味がある人、というよりは、「芸人が書いた小説なんて、読む価値ないよ」と読まずに決めつけている人、あるいは、「本なんて読んでも何も変わらないよ」と思っている人にこそ、読んでもらいたい。
そういう人に、「本を読む理由」を届けるのは、なかなか難しいことなんですよね。
だからこそ、こういう新書で、あえて語っているのではないかなあ。

- 作者: 又吉直樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/06/11
- メディア: Kindle版
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