琥珀色の戯言

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【読書感想】姉・米原万里 思い出は食欲と共に ☆☆☆☆

姉・米原万里 思い出は食欲と共に

姉・米原万里 思い出は食欲と共に


Kindle版もあります。

姉・米原万里 思い出は食欲と共に (文春e-book)

姉・米原万里 思い出は食欲と共に (文春e-book)

内容紹介
プラハでのソビエト学校時代を共に過ごし、最後まで近くで看取った妹、井上ユリ氏(故・井上ひさし夫人)が綴る、姉・米原万里の思い出。
ロシア語通訳であり、その体験を生かして綴ったエッセイやノンフィクションで読売文学賞大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した米原万里氏は、食べることが大好きだった。その食べる速度の速さも量も、実は父親ゆずり。米原家の血なのか!?
プラハの小学校時代、レーニンの映画を観ては一緒にじゃがいもと卵をゆでて貪り、のちに椎名誠を読んでは時間差でカツ丼を食べに走り、姉・万里の思い出はいつも食べ物と分かちがたく結びついている。プラハの黒パン、ソーセージ、鶏卵素麺、チェコの森のキノコ、父の味・母の味、「旅行者の朝食」や「ハルヴァ(トルコ蜜飴)」など、食をめぐる名エッセイの舞台裏を明かす、米原ファン垂涎の一冊。2016年5月で没後10年となる米原万里著作を振り返りつつ、新たなエピソードを紹介するユニークな回想録。
家族の蔵出し写真も多数収録。


 作家・通訳として活躍された米原万里さん。
 2006年に56歳の若さで亡くなられてから、もう10年が経つんですね。
 この本は、米原さんの妹であり、作家・井上ひさしさんの妻でもある、井上ユリさんが、万里さんと過ごした子ども時代や両親のことについて書いたものです。
 米原さんの一家、とくにお父さんと万里さん、ユリさんは「食べること」が大好きで、その「食」にスポットがあてられています。


 万里さんの子ども時代について、著者はこんなエピソードを紹介しています。

 母は小さいときの姉について話すとき、いつも「遊びに夢中になっていると、どんなに大きな声で『万里ちゃん!』とよびかけても気がつかない」と言っていた。


(中略)


 こどものとき、姉はよく、なにかに成りきっていた。
 二年生のとき、ボリショイバレエ団が来日し、両親にその公演に連れて行ってもらってからは、バレリーナに成りきって、家の中で踊ってばかりいた。あんまり熱心なので、母は松山バレエ団に頼んで、こども向け教室に姉を入れてもらった。学校の学芸会でも踊る、と言いだして、結局四十分間、一人で踊り続けた。先生は、「この次は十五分にしようね」と言ったそうだ。踊り続ける姉も姉だが、先生や、学校の対応もすごい。みせかけの「平等」や「気配り」で、こどもも先生もがんじがらめの中では考えられないおおらかさだ。


 万里さん、ユリさんのお父さんは共産党の幹部で、太平洋戦争終了まで、10年以上も地下活動をしており、お母さんはお茶の水女子大を出ていたインテリでした。
 洗濯や掃除が大好きな几帳面なお父さんと、家事よりも勉強や仕事のほうが得意にみえたお母さん。
 お父さんの仕事で、チョコスロバキア(当時)のプラハに行き、現地の共産党の有力者の子弟向けの学校に入った米原姉妹。万里さんは9歳から、ユリさんは6歳からの多感な時期の5年間を日本から離れたプラハで過ごしました。
 いろんな国の子どもたち(「ソビエト学校」では、各国の共産主義車の子弟が学んでいたので)と一緒に過ごしたことは、ふたりの人生観や食べ物の好みに大きく影響しつづけたのです。
 後には、ソ連と中国の共産党の仲違いもあり。子どもたちの世界にも、その軋轢が影を落とすことになりました。


 万里さんの両親は、あの時代の日本で、ずっと「共産主義の理想」を追い求めた人でした。
 その一方で、日本が経済的に発展し、豊かになっていくなかで、「共産主義の理想と内実」も知り、葛藤していたのではないかと思われます。

 わたしたちが年ごろになると、親は、いったいいつになったら結婚するのか、と心配した。思想的立場もあって、口が裂けても、「結婚しろ」とは言わない。でもまわりには、「うちの子たちは『結婚しない女』なのかしら?」とこぼしていたようだ。
 姉が三十歳を過ぎると、母は、
「結婚なんてしなくていいのよ。でもこどもはいいわよ。万里ちゃん、こども生みなさい。大丈夫、わたしが育ててあげる」
 と言うようになった。そのたびに「そんな余計なこと言って、実際生まれたら、おかあさんはもう歳だから体力ないし。結局面倒はこっちに回ってくるじゃない」とわたしは内心気が気でなかった。


 こういう、ずっとひとつの思想を追ってきた人ならではの、「理想主義と、現実とのせめぎ合い」みたいなものは、米原万里さんにも受け継がれていたのかもしれません。
 万里さんは大学に入学する前に二浪されています。

 このころの万里は建築家になるのが夢だった。でも、いざ受験となると、例によって逡巡する。理系に進路を変更する勇気が持てない。文系のいろいろな学部、学科を受験して失敗を重ね、二浪の末、ロシア語で受験できる東京外語大学を受けることにして、結果合格した。自分の決めたこの選択に、しかし万里自身は傷ついていた。ロシア語ができるのは、たまたま親の都合で海外に済んだからで、自分の選択や努力の結果ではない、と考えたからだ。
 この考え方はわたしも一緒だった。こどものころを過ごしたむこうの個人主義の影響かもしれない。親は大好きだし、尊敬するが、自分は別の分野で勝負したい。だからできもしない理系に進んだし、後にはインテリの親とは異なる、手仕事の料理を仕事にした。単に食いしん坊だったから、というのが一番の理由だが。
 北海道の大学に進んだわたしに万里は、「やはり長い人生、自分の好きなことをしたいから、建築家になる、大学を受け直す」と決意したハガキをくれたが、実現にはいたらなかった。
 万里は自分のことになると、決断力がなくなる。


 米原万里さんといえば、快活で、歯に衣着せぬ率直な言動の人、というイメージが僕にはありました。
 でも、身近な人にとっては、必ずしもそうではなかったようです。
 むしろ、米原さんは「他人にみられたい自分の姿」をエッセイに綴ってきたのかもしれません。

 ロシア語を専門にしたことが、その後の米原さんの人生に、少なくとも金銭的には幸運をもたらしました。

 ゴルバチョフが登場し、ソ連ペレストロイカが始まってから、それまで暇を持て余していたり、干上がったりしていた人たちの多かったロシア語通訳業界はにわかに活気づいた。このときからソ連崩壊をはさんだ十年の間、万里はめまぐるしい忙しさで、荒稼ぎした。いつ倒れてもおかしくないほどで、たとえば成田に帰国して、家に戻らないまま、数時間後またロシアに飛び立つ、なんてこともあった。そうして得た資金で、鎌倉に大きな家を建てることができた。
 通称「ペレストロイカ御殿」だ。


 芸は身を助ける、と言いますが、万里さんは、自分にとって不本意だった「特技」を活かして生きていくことになったのです。
 まったく異なる料理の道を選択した妹さんに比べると、たしかに「親が敷いたレールに束縛されてしまった」という面はあるのかもしれません。
 傍からみれば、留学経験を活かして「荒稼ぎ」できて、ラッキーじゃないか、とか思ってしまうのですが、理想主義者として、思うところはあったんじゃないかなあ。


 米原さんの人となりをあらわす、こんな話をユリさんは紹介しています。

 通訳でしょっちゅうロシアに出かけていた万里は、いつからか、行くたびにあの重たい黒パンを、大量に買って帰るようになった。そして、わたしにもそのパンを分けてくれる。
 万里には香水をつける習慣があった。そして身につけるだけでなく、クローゼットに蓋をあけた香水瓶を置いていた。ロシアのパン屋、というより、日本以外のどの国も、商品を丁寧に何重にも包装したりしない。パンなら紙で包むだけだ。だから万里のトランクで香りの染み込んだ衣類と一緒に運ばれるパンには、どうしても香水の香りが付いてしまうのだ。香水が苦手なわたしには、いや、多分苦手でなくてもこれはちょっとつらい。サービス精神の旺盛な万里は、ロシア在住経験のある知人やロシア語通訳仲間にこれを配っていた。
 みんなどうしていたんだろう。困っていただろうな。


 香水というのは、つけている本人は、その匂いに鈍感になる面があるのかもしれません。
 万里さん自身は「懐かしいロシアの黒パン」をみんなに食べさせてあげようと、わざわざ買って日本にまで持ってきているわけで、もっと簡単でかさばらないお土産だってあるはずなんですよね。
 万里さんは、「これがいい」と思うと、そのことに真っ直ぐ突き進んでいく人だったのでしょう。
 いまの世の中だと、発達障害とか言われてしまうようなところが、あったのかもしれません。
 その一方で、天才というのは、こういうものなのかな、という気もするのです。
 少なくとも、米原万里さんの作品は、没後10年経っても、多くの人を魅了しつづけています。


 この本のなかには、米原さんのエッセイ集『旅行者の朝食』についての話がたくさん出てきます。
 僕はこのエッセイ集が大好きで、なかでも、このエッセイ集を読んで以来、ずっと一度食べてみたいと思い続けている『ハルヴァ』というお菓子についての続報をユリさんが書いておられるのを読んで、嬉しくなってしまいました。
 ああ、あれを読んで、食べてみたい!って思ったのは、僕だけじゃなかった。そりゃそうだよね。


 感傷的になりすぎることもなく、必要以上に持ち上げることもなく、「妹からみた、姉・米原万里」が描かれている、読んでいて楽しい本でした。


fujipon.hatenadiary.com

旅行者の朝食 (文春文庫)

旅行者の朝食 (文春文庫)

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