
- 作者: 元木昌彦
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2015/02/08
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
内容紹介
当時は絶対に言えなかったスクープの裏側をすべて書く!
田原総一朗氏、福田和也氏推薦! 佐野眞一氏との対談を収録
元木昌彦は、日本で一番危険な編集者である。その恐るべき手口を明かした書だ。(田原総一朗)
検察に脅され、暴力団に襲われながら、スクープを連発する、その辣腕の底にある、編集への敬虔な心持ちが何とも美しい。(福田和也)
スクープ戦争の裏側で何が起こっていたのか?
高倉健、吉永小百合、長嶋茂雄、山口瞳、萩本欽一、大原麗子、ビートたけしなど大スターのエピソード、オウム真理教、幸福の科学、小沢一郎、検察との闘い、相次ぐ訴訟、山口組の編集部襲撃、「ヘア・ヌード」解禁の真実……。名物編集者はいかにしてスクープをものにしたのか。その取材テクニックと後日談など、創刊以来最高発行部数150万部の金字塔を打ち立てた「日本一危険な編集者」が、「雑誌ジャーナリズムを死なせるわけにはいかない」という悲壮な決意のもと、これまで話せなかった内幕をすべて明らかにする。
「週刊誌」って、最近、読んだことありますか?
これを書きながら思いだしているのですが、うーむ、去年、飛行機に乗ったときに、パラパラッとページをめくったような気もしなくはない。
「総合誌」じゃなくて、『週刊アスキー』とか『ファミ通』とかは、ときどき手にとっているんですけどね。
この新書、『週刊現代』『FRIDAY』などの名物編集長だった、元木昌彦さんによって書かれたものです。
元木さんの新人編集者時代から、あの「たけし軍団襲撃事件」の後、写真週刊誌に大バッシングの嵐が吹き荒れていた時代に『FRIDAY』の編集長になったこと、その後、『週刊現代』で辣腕をふるい、オウム事件では大スクープを連発したことなどを振り返っておられます。
長嶋茂雄さんとはじめて食事をしたときの話や、長嶋さんの豪快すぎる食べっぷり。
あの事件のあと、ビートたけしさんと「和解」をしようとしたときの話。
そして、「坂本弁護士一家殺害事件」で、実行犯のひとりと接触し、その手記を掲載したこと。
僕が大学に入った時期、いまから25年くらい前は、『週刊現代』や『週刊文春』『週刊ポスト』などの「総合週刊誌」が、すごく元気な時代だったんですよね。
オウム事件という大きな、長期にわたるテーマがあり、ヘアヌードグラビアのブームもあった。
まだネットは普及しておらず、「新聞やテレビでは教えてくれない事件の詳細」が、雑誌には掲載されていたのです。
張り込みネタは編集部員それぞれが人脈や情報源を駆使して集めてくるのだが、有名人や芸能人と付き合っている女性本人からのタレ込みも結構多いと聞いて驚いた。
たとえば、「先週の土曜日の夜、六本木の××という店で、大物タレントが若いコと密会しているのを偶然目撃したわ。その店では有名な話みたい」という情報が匿名でもたらされる。念のため張り込んでみると、情報は本物で、写真もバッチリ。スクープ写真に一緒に写っている女のコが当のタレ込みの本人だとは、知らぬはタレントばかりである。タレントは”据え膳”と思っているかもしれないが、「私も有名になりたいの」という若いコの計算はしたたかである。
週刊誌の「激白!私を抱いた○○!!」みたいなのは、けっこうこういう「売り込み」で撮られているんですね。
そんなハニートラップだらけじゃ、有名人っていうのもけっこう大変だよなあ、と、ちょっとだけ同情してしまいます。
この本の「おわりに」で、元木さんは、こう仰っています。
総合週刊誌は冬の時代だと言われているようだ。役割が終わったのではないかという声まである。
私はそう思わない。この本でも触れたが、新聞、テレビでは知ることができないことは、いまでもたくさんあるのだ。確かに、『週刊現代』のように、一冊の中に政治、経済、スポーツからヌードグラビアまである週刊誌は日本独特のものである。
日本がまだ貧しかった頃、「幕の内弁当」のように、一冊買えばすべて間に合う週刊誌は重宝され多くの読者を獲得した。時代は代わり、嗜好も趣味も多様化した現代に、こうしたスタイルの雑誌は時代遅れになりつつあるのかもしれない。
しかし、出版社系週刊誌は50年以上かけて雑誌ジャーナリズムを育んできたのだ。
「もの言わぬ新聞」「もの言えぬテレビ」に代わって、権力者たちのスキャンダルを暴き、時の権力と対峙して堂々とものが言えるのは、雑誌、中でも週刊誌だと思う。
週刊誌というのは、テレビや新聞ほどの「即時性」が求められないかわりに、綿密な取材をして、人間を描くことができる、という面はあるのでしょう。
その一方で、「知る権利」「報道の自由」の名のもとに、行き過ぎた取材手法や、信憑性の乏しい情報の拡散などが問題にもされてきています。
著者は、小沢一郎という政治家の考え方、やり方が好きになれず、ある種の危機意識を持って「小沢バッシング」を行っていたと書いておられます。
いや、こういうふうに「ジャーナリストが自分の意見を持って、権力と対峙すること」そのものは、悪いことではないと思うのです。「中立」のフリをして、権力の言いなりになっているよりは。
でも、こういう文章を読むと、僕は首を傾げざるをえないのです。
『週刊現代』が小沢氏の政治資金管理団体「陸山会」の蓄財疑惑を報じたことをきっかけに、市民団体が東京都世田谷区の土地購入に関する政治資金規制法違反で小沢氏を告発した。
刑事捜査に発展して東京地検特捜部によって秘書三人が起訴され、小沢氏も検察審議会の起訴議決によって起訴されてしまう。最終的には小沢氏は無罪を勝ち取るのだが、これによって民主党代表、総理になることはできなかった。
この捜査については、検察が自民党と組んで仕掛けた謀略だという見方もある。だが、小沢氏にとっては痛恨事であっただろう。
「陸山会事件」の当時、著者は『週刊現代』と直接の関係はなかったのですが、それにしても、OBとして、あまりにも無責任な発言です。
小沢さんのことが、政治家として嫌いで、日本のためにならないと考えていたのだとしても、「冤罪を報じたことによって、結果的に権力の座から引きずり降ろした」というのを、手柄話のようにしてしまうって、どういう了見なんだろう、と。
率直なところ、この新書を読んでいると、「総合週刊誌黄金時代」の敏腕編集長の「報道の自由」「知る権利」を守るために戦う、あるいは、スクープをとってやろう、というエネルギーに圧倒されるのと同時に、「そのためになら、手段は選ばない」という傲慢さを感じるところも多いのです。
あの時代の総合週刊誌は、たしかに、面白かった。
でも、その「面白さの裏側」みたいなものが見えてきたとき、多くの人が「これを面白がっていて、良いものなのだろうか?」と考えるようになってきたのです、たぶん。
まあ、みんなが良心的になったというよりは、下世話な内部情報みたいなのは、ネットのほうがすぐに入手できる、というのもありそうです。
実際には、ネットの「情報」も、週刊誌などのメディアの記事をベースにしたものが多いのですが。
『週刊文春』が、AKBメンバーの暴露記事みたいなのを書くと、ネット上では「圧力に屈しない『文春』よくやった!」みたいな声と、「そんなことをわざわざ『報道』する意義があるのか?」という声が入り混じります。
結局のところ、正義か悪か、というより、「好きなものが叩かれると腹が立つし、嫌いなものを批判してくれると気分がいい」というだけのこと、なのかもしれませんね。