- 作者: 鮫肌文殊
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/11/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Kindle版もあります。
- 作者: 鮫肌文殊
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/12/23
- メディア: Kindle版
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内容紹介
超売れっ子放送作家の鮫肌文殊。すべてのきっかけは、中島らもとの出会いだった。中島らもに常識を木っ端みじんに打ち砕かれながら、酒を呑み、女を知り、役者をやったり歌ったり。らもが飲み過ぎて倒れて仕事がなくなり、これはいけないと上京した鮫肌は、テレビの仕事に集中。数年ぶりに中島らもと再会し、伝説のトークイベント「らもはだ」がはじまった。出会いから死去するまでを描ききった、壮絶なラブレター。
この本を旅先で見かけたとき「ああ、なんでこんなところで見つけてしまったんだ!せめて文庫だったらよかったのに!Kindle版もないのか……(今はKindle版もあります)と思ったんですよ。
でも、鮫肌文殊さんが書いた「中島らもとの日々」だぞ、こんなの、僕に買えって言ってるようなもんだろう!と、いささか興奮しながらレジに持っていき、そのままホテルで読んでしまいました。
「中島らもが死んだ」
2004年7月27日。
番組の構成会議の最中に鳴った携帯電話。
着信「キッチュ」。
悪い予感がしたが、すぐに出た。
ああ、らもさんがあっちに逝ってしまってから、もう12年以上経つのだなあ。
この本には、まだ広告代理店でサラリーマンをやりながら作家をやっていた時代の中島らもさんとの出会い、そして、鮫肌さんが放送作家として多くの人気番組を手掛けたあと、結果的に中島らもさんの最晩年の仕事になったロフトプラスワンでのトークイベント『らもはだ』で、らもさんのパートナーとして、危なっかしい中島らもの「最後のパートナー」になったことなどが描かれています。
中盤、鮫肌さんが東京に出てきてからしばらくは、鮫肌さんの放送作家としての生活が主に書かれていて、「らもさんのことを書いた本じゃないの?」と思ってしまったのですが、この空白期間は、鮫肌さんが実際にらもさんと離れていた期間なんですよね。
あらためて考えてみると、鮫肌さんは、「自分がこの目で見た、接した中島らも」のことだけを書いているのです。
伝聞や想像で、会っていなかった時期を埋めるという「知ったかぶり」はしなかった。
それって、ものすごく誠実な態度ですよね。
そのことだけでも、鮫肌さんは、中島らもという人と、その記憶を本当に大切にしているのだな、と思うのです。
1970年代の伝説の投稿雑誌「ビックリハウス」の常連投稿者として注目された鮫肌さんは、本まで出版してしまいます。
それを中島らもさんに送ったのが、きっかけでした。
二つ返事で飛びついて、19歳のとき、童貞作品集『父しぼり』を上梓した。高校時代に書き溜めていた、10代の童貞の妄想とただひたすらやみくもに世の中への「NO!」を叫ぶ不平不満を叩き込んだ小説&詩を一冊にまとめたものだ。あまりにも嬉しくて、いきなり「ボクもこんなの書いてます。よかったら読んでみてください」と自分が好きだった方々に面識もないのにファンレターがわりに本を送りつけた。その中に、当時、サブカル誌「宝島」の「啓蒙かまぼこ新聞」で人気だったコピーライターの中島らもがいたのである。
らもさんを初めてテレビで見たのは「どんぶり5656」という読売テレビで1983年に放送していた伝説のカルト深夜番組の中であった。
竹中直人と2人で「お互いの脂性の顔面にどこまでいろんなものを引っ付けることが出来るのか?」をただひたすら競い合うだけでのナンセンスコントを演じていた。
「どんぶり5656」は、新進コピーライターとしてバリバリ売り出し中だったらもさんも企画立案で、公共の電波を利用して本当に好き勝手に遊んでいた深夜番組だった。
西川のりおが「うどんとパン」という「宝島」VOW的看板の前で、
「♪うどん うどん パン パン うどん パン パン」とドンパン節の替え歌を熱唱するだけのオープニングコント。
同じく西川のりおが、街中を「ただひたすらまっすぐに走りぬけていく」だけの「夜はまっすぐ」(途中に民家があろうがおかまいなく、まっすぐ走って乱入していく、街頭テロみたいなコーナー)。
らもさんの初期のエッセイにも登場する当時大阪のライブハウスでその名を口にしただけでみんなションベンちびったという超暴力ハードコアバンドZOUOのボーカリスト、チェリーの「関西ナンバーワンの高さを誇ったモヒカン頭」の髪を立てる一部始終を映したプロモーション・ビデオ。
花火のあがる美しい映像に「テレビは家具だ」というテロップをのっけて数分間流し続けるだけの早すぎた環境ビデオコーナー。
こんな番組をつくっていた、らもさんとの出会いが、1985年8月だったそうです。
それにしても、すごい番組だなこれ……
お酒やドラッグなど、「酒池肉林」のようだった中島らもさんと仲間たちの生活なのですが、らもさんには、こんな一面があったことを鮫肌さんは書いておられます。
昔、鮫肌さんたちと一緒に出した本が(そのときは全然売れず、印税は飲み代にもならないほどの雀の涙だったそうです)、のちにらもさんの人気に伴って文庫化された際、らもさんはその昔の本に「ちょちょいっと4コマ漫画を描いて載っけただけ」の鮫肌さんにも、60万円というギャラを支払ってくれたそうです。
こんな風にらもさんはお金に関して、凄く義理固い。
仲間にちゃんとしたギャラという対価を払って仕事をするのにこだわっていた。
リリパット・アーミー(らもさんが主催していた劇団)にしてもそうだった。
演劇なんて食えなくて当たり前。なんだったらチケットノルマを押しつけられて役者の持ち出しになるのが常識だった小劇団の世界で、初めっからキチンとギャラを支払っていた。
オレもお世話になりっぱなし。
しかも知り合ってから数年、らもさんは飲み代を全部出してくれていたのである。
あまりにも悪いので恐縮して「今回はオレに出させてください」と言ったところ、こう諭されたのを覚えている。
「あのな、キミ、自分が金を稼げる年になった時に、今度は下の奴に奢ってやれ。オレも上の人にそうしてもらってきた。若い奴は金がないやろ? 金はある奴が出したらええねん」
らもさんが師と仰いでいた先輩広告マンで電通大阪支社所属の伝説のコピーライター、藤島克彦さんから教えられた言葉だそうである。
らもさんの追悼イベントで、鮫肌さん、松尾貴史さん、ガンジー石原さんが「思い出トーク」を行った際に、こんなエピソードが語られたそうです。
「ほんとにらもさんは、不思議な人でした。おためごかしじゃなくて、弱者に対して優しい人で、その場にいる立場の弱い人をさり気なく助けてあげたり……そういうところ、ありましたね。友達だからギャラにしろ何にしろ、安く使う文化が日本にはあるでしょ。そういうことをいつもすごく怒ってらして。『そんなん友達違う。友達やったらもっと良い条件で仕事を回すのが筋なんちゃうか』って。それが正論だと思いますけど、それってなかなか出来ないじゃないですか。それをらもさんは自分で全うしてはりました」
中島らも、という人が、いろんな「不祥事」を起こしながらも、亡くなられたあともずっと多くの人に慕われ続けているのは、こういう「本当の意味で、友達を大事にしていたから」ではないかという気がします。
でも、これを実際に全うするというのは、なかなかできることじゃない。
友達だからとタダや安いお金で頼むのが「あたりまえ」になりがちで、それが「友情」なのだと思い込んでしまう。
らもさんは、無茶苦茶をやっていたようで、自分なりの「美学」を持って生きていた人でした。
そして、人の面白さとともに、人の、お金の「怖さ」も知っていた。
晩年、トークイベント「らもはだ」での、さまざまなゲストとの絡み(というか、らもさん欠席で、大槻ケンヂさんが代理ホスト、なんて回も多かったそうですが)や、その裏話を読むと、よくこのイベント、本にするためとはいえ、ずっと続けてこられたものだなあ、と呆れてしまいます。
らもさんの趣味全開、放送禁止用語連発、いきなりロックコンサート。
その日も打ち上げは、犬鍋の店「上海小吃」。
(大麻で逮捕されてから)出所してからのらもさんは、完全に「ロックモード」に入っていて、ギター片手にいきなり知り合いのミュージシャンのライブに押しかけて行ってはステージに立っていると噂になっていた。「電波少年」じゃないけど、アポ無しミュージシャンである。
なんでそんなに最近ガンガンにロックモードなのか聞いたところ、心底うんざりという口調でこう言った。
「50歳越えて、もうええかなと思ってね。これからは好きなことだけして生きていくよ」
と、らもさん。
小説のほうでも出版社にこれからはエンターテインメントは書かない宣言をしたらしかった。
書きたいものを書く。歌いたいことを歌う。
だって50歳なんだから。
「キミ、何歳なった?」
ワイワイといつもの打ち上げの席でのアホ話の最中、いきなりらもさんに聞かれた。
「38歳になります」
「38か。そこからが長いんや」
遠い目になってボソッと呟くらもさん。
躁鬱病にアル中にヤク中、壮絶な40代を送ってきたらもさんが言う「そこからが長い」発言。説得力が違う。
僕はいま40代半ばなので、このらもさんの言葉は沁みました。
いや、実感としては「同じことを繰り返しているうちに、いつのまにか1年経っている」というもので、子どもをみて、「ああ、時間が経ったのだな」と再確認しているのですけど。
僕は50になったら、「好きなことをして生きよう」と思うだろうか。
そもそも、今、「好きでもないことでも、一生懸命やっている」と言えるだろうか。
僕は、らもさんが若くして亡くなられたとき、まだこれからいろんな作品が書けたはずなのに……もったいない……と嘆いていました。
多くのファンも、同じ気持ちだったと思う。
でも、ここで身近にいた鮫肌文珠さんが描く「あの事故の前の中島らも」の姿を読むと、いろんな意味で、らもさんは、もう「ギリギリまで生き抜いてしまった」ような気がしたのです。
あれは、事故ではあったけれど、らもさんは、もう限界だったのではなかろうか。
むしろ、よく50過ぎまでがんばって生きつづけた、と思ったほうが良いのではないか。
それも、12年経ったから、という話ではあるのかもしれないけれど……
僕がなんと言おうが、読む人は読む本だと思います。
そういう人たちは、きっと、これを読んで、「ひとつの区切り」みたいなものを感じるのではないかなあ。
らもさん、僕もそろそろ、50歳が見えてきましたよ。