- 作者: 佐藤康光
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/11/28
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 佐藤康光
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/12/18
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内容紹介
将棋の名人戦は一局に2日間を要し、最大で7局にわたる、長時間の戦いである。一局当たりのそれぞれの持ち時間は9時間。その間、「没我」の世界に入り、ひたすら盤面を読み、相手の動きを予測し、無数の選択肢のなかから最善の一手を指し続ける。一流棋士はなぜ、それほどの長時間にわたって集中力を保ち、深く思考し続けることができるのか。そして、直感力や判断力の源となる「大局観」とは何か。タイトル獲得通算13期を誇り、「緻密流」とも称される異端の棋士が初めて記す、「深く読む」極意。
そうか、まだ佐藤康光さんがいた!
この新書を見つけたとき、僕はそう思ったのです。
人間対コンピューターの真剣勝負「電王戦」による将棋の盛り上がりや、「勝負の世界で生きている人たち」と認知されていることもあり、棋士たちの書いた新書は、けっこうたくさん出ているんですよね。
羽生善治さんをはじめとして、谷川浩司さん、加藤一二三さん、森内俊之さん、渡辺明さんなど、いま第一線で活躍している棋士のほとんどが、将棋の専門書以外に、新書で「勝負論」「人生観」を語っておられます。
同じ「将棋」の世界の話なので、似ているところもあり、また、それぞれ個性がうかがえるところもあり。
佐藤さんは、「まえがき」で、自身のことについて、こう仰っています。
棋士にはそれぞれ個性がある。それを「棋風」と呼んでみたり、「〜流」とニックネームがつけられたりする。
私の場合は「緻密流」がそれで、「一秒間に1億と3手読む男」と言われたこともあった(言うまでもなく、1億手など何年かけても読めないし、読めたとしてもそれで勝てるわけでもないとは思うが)。
長時間にわたって盤上に没頭し、まるで全ての可能性を読み切ろうとしているかのような姿勢がそのように評されたことは名誉なことだし、誇りに思う。ある意味で、一般の方が棋士に求めるイメージの粋のような評価だといえよう。
棋士の強さの源泉は、何といっても読む力にある。勝ちまでを正確に読み切る「縦の読み」はもちろんだが、いくつもの選択肢があり、さらにその先で限りなく分岐していく局面で、色々な可能性を模索しながら不要な部分を削ぎ落としていくための「横の読み」も必要だ。
縦の読みと横の読みのあいだを何度も行ったり来たりしながら、思考を深めていくと、やがてその一局の勝敗を分ける「本質」が表われてくる。その過程で何度も集中力が途切れるようでは、本質は遠ざかるばかりだ。集中を保ちながら考え続ける力、イコール長考する力であるといっていいだろう。
ただ、現在の私はもう少しいい加減というか、緻密さよりも好みやモチベーションに左右されるタイプの棋士だと思う。
佐藤さんは、盤上に長時間没頭し続ける集中力がある強い棋士で、ヴァイオリン演奏という特技でも知られているトップ棋士なのです。
その一方で、こんなエピソードも。
そういえば、かつて先崎学九段に「佐藤康光は将棋に負けると布団をかぶってわんわん泣く」とエッセイに書かれてしまったことがあるが、さすがに最近は年齢も重ねてきて丸くなったのか、負けて泣くことはほとんどなくなった。
これを読んで、僕は驚いてしまいました。
将棋って、トップ棋士でも、百戦百勝、というわけにはいかない世界なのです。
現役通算成績をみると、羽生善治さんの勝率が約72%、佐藤康光さんは63%。
羽生さんでさえ、プロ棋士相手に指せば、10回に3回くらいは負けてしまう(ちなみに、羽生さんの72%というのは、トップ棋士が相手となるタイトル戦での対局の多さを考えると、驚異的な数字です)。
負けることがあるのは、当たり前。
にもかかわらず、佐藤さん、泣いてたんですか……しかも、「最近は泣くことはほとんどなくなった」って、今でもたまに泣くことがあるのか……
そういう、将棋や勝負に対する純粋さ、みたいなものが、佐藤さんの「新手」を見つけようという原動力なのかもしれませんね。
創造派の棋士でいることに、デメリットがないとはいえない。
2009年、三浦さんとの第68期A級順位戦で、「横歩取り」での新手を指した私が敗れた。しかし私が指したその新手を三浦さんが研究し、実戦で連続採用して、かなりの勝率を収めたのだ。翌年、三浦さんは名人戦挑戦者となり、七番勝負第1局でもこの手が現れた。
結局、三浦さんの研究は当初の私の構想の遥か先まで進み、2、3年後にその戦型を豊島さんと久々に指したときは、逆にボロボロに負かされてしまった。
創造派の棋士は、時にこういう悔しさを覚悟しなければならない。
莫大な時間を投じて新手を練り上げても、自分自身のメリットにつながらないこともあるということだ。新手には、著作権も印税も発生しないのだから、仕方がない。
勝負師としてはどうなのだろうかとは思うが、子どもの頃から好きだったものを仕事にすることができて、それに没頭した結果なのだから幸福なのだと思っている。
理想の将棋や納得できる将棋を追っているほうが精神衛生上はいいし、より前へと進む活力になる。
将棋の「新手」というのは、これまでの定跡から外れた、新しい着想の手なのですが、将棋の手には著作権など存在しないので、一度実戦で使ってしまえば、研究されてしまうし、他の人に使われても文句は言えない。
正直、それを作り上げる手間に比べれば、割に合わないのではないか、とも思うんですよ。
新手がすべて有効なわけでもないし。
にもかかわらず、佐藤さんは、「新しいもの」をつくり続けようとしているのです。
佐藤さんというのは、「こじらせてしまっている人」だよなあ、と僕はこれを読みながら、ちょっと微笑ましい気持ちにもなったのです。
年長者に「微笑ましい」っていうのは失礼ではあるのですが。
こんなこともあった。あるタイトル戦の番勝負で、防衛か奪還かを左右する重要な一局を迎えていたときのことだ。夕食会を終えて、明日の対局に備えて眠りにつこうとすると、何やら気配がする。嫌な予感に目を開けると、大きなゴキブリがいる。
好きな人も少ないと思うが、私はゴキブリが大の苦手だ。主催社に伝えてすぐに部屋を替えてもらおうか、とも考えた。今の私なら迷いなくそうするだろう。
しかし、大一番を迎えて神経が高揚していたのか、「これも試練だ。こんなことに打ち克てないようでは勝負に勝てるはずもない」と考えてしまったのだ。
宿泊していたのは格式ある素晴らしい旅館だった。対局者に用意してくれた部屋には二つの和室があったので、奥の間は「試練」の化身に譲って、私は手前の和室で寝ることにした。「気にするな。打ち克つんだ」と自らに言い聞かせたが、結局はほぼ一睡もできずに夜明けを迎えることになた。
果たして、その対局もやはり負けてしまった。そんなことに命運を託すのが、そもそも大悪手だったのだ。
こういうのも、傍からみれば「そんなに嫌いなら、試練だ何だと考え込まずに、部屋を替えてもらったらよかったのに……」と思うのですが、「そういうふうに考えて、自分を追い込んでしまう気持ち」も僕はわかります。
そして、この話はわかりやすい例なのですが、こんなふうに「簡単に回避できるような問題」を「自分に課せられた試練だと見なして、自滅してしまうこと」って、けっこうあるんですよね。
将棋というのはコンピューターのおかげで急速に進化しつづけているのですが、それが将棋の将来にとって良いことなのだろうか、とか、考え込んでもしまうのです。
佐藤さんがどんなに長考しても、コンピューターは「疲れ」を感じることなく、もっとたくさんの手を読んでしまうのだから。
いまのように「人間とコンピューターが勝負になる時期」がいちばん面白くて、その時期を過ぎて、ワンサイドゲームになっても、僕たちは将棋や棋士に興味をもち続けることができるのだろうか?
棋士自身も、人間のなかで強くなることに意義を見出すことができるだろうか?
人間が将棋を指すことの意味って、「負けたら布団をかぶって泣く」というドラマ性に集約されていく時代は、すぐそこまで来ているのかもしれません。
「棋士の話」が好きな人は、ぜひ。