琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】戦争する国の道徳 安保・沖縄・福島 ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
国民を舐めきった政治家に、激怒せよ!
もはや日本に道徳はなく、損得しかないのか!?
今、つくりだすべき倫理とは?


日本は戦争する国になった。これは怒(いか)ることを忘れ、日米安保に甘えた国民の責任だ。安保法制化も、沖縄県民だけに押し付けてきた米軍基地の問題も、当事者以外の意見を封じる福島の原発問題も背景にあるのは、怒りや苦しみによる連帯ができず、すべて他人事(ひとごと)として受け流す日本人の感情の劣化だ。しかし、今度こそ怒らねば、そして怒りつづけねばならない。戦争する現実を直視しつつ、舐めた政治家たちに恐怖を与えねばならない。この危機に、かつて罵り合った小林よしのり氏と宮台真司氏、さらには東浩紀氏という日本を代表する論客三人が集(つど)い怒り合った。暴走する権力を阻止し、共闘することを誓った一冊。


感情を抑えるな! 絶望に囚われるな!
〇日本を変えるにはときには政治家へのテロしかない場合もある
国民国家間の戦争は本当にありえるのか
〇インターネットが持っていた連帯の可能性もいまは消えた
〇かつては日本が戦争を仕掛けたという事実を水に流していけない
〇「崩れた民主主義」の行きつく先
〇保守でも革新でもない、新しい日本像をつくる


 「これが道徳だ!」と声高に語りたがる人が増えるほど、その社会は不安定なのではないかと僕は感じます。
 その一方で、「あちらにはあちら側の事情がある」ということを想像しすぎる人というのは、周囲に配慮しすぎて、何もできなくなってしまうこともある。


 僕は『ゴーマニズム宣言』が、『SAPIO』に移ってしばらく経つくらいまでは、単行本で小林よしのりさんの言説を追いかけていました。
 ずっと「とにかく戦争反対、暴力反対、日本はアジア諸国に酷いことばかりをした」と思っていた自分の「常識」を疑うきっかけになったのは『ゴー宣』だと思います。
 ただ、最近はAKB48を熱く語る小林さんから、ちょっと離れてしまっているのも事実。
 僕もAKBが嫌なわけじゃないのですが。

東浩紀さらに小林さんは『新戦争論1』で、「もし日本が中国に占領された場合は」「わしが抵抗戦線の指揮をとってもいい! あるいは手本として、神風特攻の第1号になってもいい!」とまで書かれている(107〜108ページ)。こうした小林さんの主張には、日本の現状に対するきわめて強い危機感が表われていると思います。

 「危機感」はわからなくもないのだけれど、「自分が神風特攻の第1号になってもいい」なんていうのは、「小林さん、死に急いでいるだけなのでは……」と心配になってきます。
 というか、本人に「覚悟」はあるのかもしれないけれど、そんなふうに煽らなくても……
 だいたい、小林さんが「特攻第1号」になるわけなんてないにもかかわらず、こんなことを言うのは無責任です(飛行機の操縦もできないだろうし)。
 こういう「威勢のいい言葉」で人々を鼓舞しようとした人々が、太平洋戦争をはじめてしまったのではなかろうか。


 この新書、読む前から「そういう予感」はしていたのですが、鼎談の多くのページは、小林さんと宮台真司さんの「オレのほうが世の中に影響を与えてきた」というマウンティング合戦+ほめ殺し合戦です。
 以前は不仲というか、『ゴーマニズム宣言』のなかで、宮台さんを情けないキャラクターで描き、「印象操作」していた小林さんが、ここまで宮台さんと和解していたことに驚きました。
 このマウンティングおやじ2人に対して、進行役として自分を殺し、送りバントを続けていた東浩紀さんの株は、僕の中では上がりっ放しでした。


 ほんと「俺たちは偉い、よくやってきた!」という話が多くて辟易します。
 ただ、個々の話のなかには、興味深いところも少なからずあるのです。

小林よしのりさっきの「誇り」とかそういうものが大切だという宮台氏の意見に、わしも賛同する。保守の人間は、「誇り」というキーワードにものすごい弱い。たとえば道徳を教科化するというときも、「誇りが大切だから」とか言うわけです。でも、そもそもその「誇り」とは何なのか、という議論が必要なわけでしょう。


東:そのとおりですね。


小林:沖縄においてもそうですよ。自立心とは何なのか。依存心とは何のことか。日本人としての誇り、沖縄人としての誇りとはいったい何なのか。そのこと自体をいまから問題にしていかなければならないわけ。でも、そこを議論できるテーマや視点を誰も抽出できてない。


 これはたしかに、自省する必要があるよなあ、と。
 「日本人としての誇りを持て」と主張する人はたくさんいるけれど、じゃあ、その「日本人としての誇り」というのは、一体何なのか、言葉にして説明できる人が、どのくらいいるのだろうか?
 他者を責めるときの方便として、「誇り」を濫用しているだけではないのか。
 そもそも、「誇り」というのは、他者に押し付けるものではなく、自分のなかに存在していれば良いものではないのか。
 本当に「誇り」を持った人間が、ヘイトスピーチをするのだろうか。


 東さんは、小林さんと宮台さんが「精神主義」に陥っているのではないか、と指摘しています。

東:これまでの話を聞くと、どうもお二人ともかなり精神主義に傾いていらっしゃるように聞こえます。日本にはもう、これをこういうふうに改善すればよくなるという具体的な処方箋がない。そんなことよりも、いま必要なのは俺たちの心だ、という話になってきているように聞こえるんですね。でも、そうなってくると、それはそれで未来がない話のようにも思えてくる。


小林:それはちょっと違っていて、まず「誇り」という言葉の定義、「戦後レジーム」という言葉の定義が、安倍晋三は完全に間違っているわけ。
 それに、わしの考えは精神主義とも違う。宮台氏が在特会とか在日朝鮮人に対するヘイトスピーチのことを「劣化した感情の発露」だと書いているのを読んで、その言葉にものすごく感心した。「劣化した感情の発露」か、なるほどそのとおりだと。いまの時代は人々の感情が劣化して、あちこちで噴出している。でも「誇り」とか「豊かな情感」は必要だから、演説のときには感情の部分を強調するわけだ。言葉と感情は、やはり一体になっていかないと、どうにもならないんですよ。若者のカルチャーがあった時代は、感情がもっと豊かだったよね。


宮台:それは間違いない。問題は「反知性主義」じゃなく「感情の劣化」なんだよ。道徳心理学者ジョナサン・ハイトが強調するとおり、最先端の実験心理学では、感情が理性を方向づけるのであって逆ではないことが証明されている。感情が劣化しているから知性を尊重できないんだよ。だから処方箋も理性ならぬ感情の涵養(かんよう)にあるわけだ。


 感情の劣化か……
 感情というものに、優劣があるのか?
 現代人の感情は、本当に「劣って」いるのか?
 それこそ「いまの若者は……」とか、「○○はオワコン」みたいな、過去を生きている人の定型句のような感じがするのですけどね。
 

東:重要なのは政策だけではなくマインドセットだと。アベノミクスもその意味では本当に第二段階に入ってきた。金融緩和はした、規制緩和もした、あとは一人ひとりを経済戦士に洗脳し、再び鍛え上げれば、日本もまだまだ行けるはずだという精神論になっているのだと。
 しかしそれは無理だろうというのが、小林さん宮台さんの共通の見解ですよね。僕も同意しますが、しかしそこで単純に里山に帰れますかね。というのも、日本は、途中に敗戦という方向転換はあったけれども、明治以降、とりあえずずっと欧米に追いつけ追い越せで自分を駆動してきた国なわけです。つまり、「1位になる」「成長する」ということをとても重視していて、それがアイデンティティの一部になっている。若い人はそうでもないという意見もありますが、嫌韓の盛り上がりなど見ると、やはりまだまだ日本はすごいと思いたいんだと思いますよ。里山でこぢんまりとやっていても俺たちは幸せだ、なんて国にはなれないんじゃないか。そもそも、台風や地震だらけの日本では、里山の小さな集落の維持にこそお金がかかる。


 僕もこれは確かにそうだなあ、と感じます。
 なんのかんの言っても、「成長を求めず、こぢんまりとまとまっていくこと」を、受け入れられる人ばかりじゃないと思うんですよ。
 さんざん高度成長やバブルを享受してきた高齢者たちが、若者に「お前たちは成長しない時代に生まれたんだから、しょうがないね」と言っても、素直に頷くのは難しいはず。
 小林よしのりさんに「オレは中国に神風特攻するから、お前らもオレに続け」なんて言われても、「迷惑」以外の何物でもないのでは……


 僕としては、以前影響をかなり受けた小林よしのりさんや宮台真司さんが、ここまで行ってしまったのか、と思い知らされた新書でした。
 でも、僕の感情って、本当に「劣化」しているのかな……
 こんなに他者の情報を入手しやすい時代なのに、他者への想像力が欠けている言葉がネットには並んでしまうのは、なぜなのだろう?

アクセスカウンター