琥珀色の戯言

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【読書感想】シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ☆☆☆☆


シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
二〇一五年一月の『シャルリ・エブド』襲撃事件を受けてフランス各地で行われた「私はシャルリ」デモ。「表現の自由」を掲げたこのデモは、実は自己欺瞞的で無自覚に排外主義的であった。宗教の衰退と格差拡大によって高まる排外主義がヨーロッパを内側から破壊しつつあることに警鐘を鳴らす。


 フランスで2015年1月に起こった、諷刺新聞『シャルリ・エブド襲撃事件』は、国際社会に大きな衝撃を与えました。
 フランスでは、政府の呼びかけにより、多くの人びとが「私はシャルリ」という標語を手にデモ行進を行い、その映像は日本人である僕にも記憶に新しいところです。
 さすが、「表現の自由」の国、フランス!
 と言いたいところではありますが、ヨーロッパの熱狂に比べて、日本では、やや冷めた見かたをしていた人が多い印象でした。
 表現の自由は大切かもしれないけれど、偶像崇拝を厳禁しているイスラム教徒を侮辱するような「諷刺」を行う必要があったのか。
 もちろん、だからといって、シャルリ・エブドのスタッフが命を奪われるべきではないと思いますが。

 あの日から時が経過し、われわれは今では知っている。2015年1月、フランスはヒステリーの発作に襲われたのだ。風刺新聞『シャルリ・エブド』の編集部と警察官とユダヤ食品店の顧客を狙った殺戮が、われわれの国の歴史に類例のない集団的反応を引き起こした。ショックの冷めやらぬなか、ただちにあの事件について語るのは不可解だったと思う。さまざまなメディアがいつになく一致し、こぞってテロリズムを告発し、フランス人民の素晴らしさを讃え、自由と共和国を神聖視した。『シャルリ・エブド』と、『シャルリ・エブド』がムハンマドを諷刺した画が聖域化された。政府はあの週刊新聞の再生を支援するための補助金を出すと告知した。群衆が政府の呼びかけに応じ、フランス全国でデモ行進した。報道の自由を象徴するために鉛筆を手に持ち、機動隊員たちと、建物の屋根に陣取るスナイパーたちに拍手喝采しながら――。「私はシャルリ」というロゴが黒字に白で描かれ、テレビ画面に、街頭に、レストランのメニュー表に溢れた。子供たちが中学校から帰宅すると、その手にはCの文字が書かれていた。7、8歳の子供たちが小学校の校門の前でマイクを向けられ、事件の恐ろしさと、諷刺する自由の重要性についてコメントさせられた。政府が教育上の処分を布告した。高校生が政府の決めた1分間の黙祷を拒否すると、それがどんな拒否であろうとも一律に、テロリズムの暗黙の擁護、および国民共同体への参加の拒否と解釈された。1月の末頃、われわれは知ることになった。一部の大人たちが、唖然とするほど退嬰的な振る舞いをするに到ったということを――。8、9歳の子供たち数人が警察に事情聴取されたのだ。全体主義の閃光であった。

 あのデモをみて、「フランスの表現の自由を守ることへの覚悟ってすごいな」と、僕はけっこう感動していたのです。
 でも、フランスで、その渦中にいたトッドさんのこの話を読むと、これはこれで「やりすぎ」ではないか、という気はするんですよね。
 テロをきっかけにあの諷刺画が問題視されるようになると、「やはりテロは有効なのだ」と思われてしまう、というのはあるのでしょうけど、高校生、ましてや、10歳にも満たない子どもたちまで、「監視」の対象にしていたとは。
 たしかに、これはこれで「全体主義」ではあるよなあ。
 イスラム教徒は、フランスではマイノリティですから、テロには反対でも、あの諷刺画は受け入れられない、という人には、つらい状況だったと思います。


 ただ、この本を読んでいると、日本からみると、「フランス」というひとつの国でも、その内情は一枚岩ではなくて、カトリックの影響がまだ強い辺境部と、宗教的なしがらみから解放された都市部がかなり鮮明に色分けされていることがわかります。
 トッドさんは、あのデモにも、強い関心を抱いた層と、あまり興味を持たなかった層がいたことを、それをさまざまなデータを用いて示しています。
 また、フランス社会に生まれてきた「階層」による意識の違い、というのもあるのです。

 デモ参加率と都市部の社会的構成を引き比べた結果は意味深長だ。


(中略)


 労働者の比率が高い都市部、たとえばダンケルクアミアン、サン=カンタン、モブージュ、シャルルヴィル=メジエール、ティオンヴィル、ルーアンル・アーヴル、ムルーズ、ベルフォール、ラヴァル、ル・マン、ショレなどでは、デモ参加率が低いことがわかる。反対に、パリを筆頭にリヨン、ボルドートゥールーズ、レンヌ、ナントなど、管理職人口の拠点といれる都市では、デモ参加率が高かったと身受けられる。デモ参加率と労働者の比率の間で測定され得る相関係数がマイナス0.44であるのに対し、デモ参加率と管理職の比率の間では、それがプラス0.38となる。この二つの指標は非常に高いとはいえないものの、統計的には明らかに有意である。

 トッドさんは、労働者の割合が多い地域では、デモの参加者が少ないことや、極右政党の国民戦線(FN)の支持者が多いこと、カトリックの影響が強い地域では、デモの参加率が高く、高等教育を受けた人々は、FNの支持者が少ないことを指摘しています。
 シャルリ・エブド事件をきっかけに、フランスは「連帯」を内外にアピールしましたが、実際のところ、「格差による意識の違い」が解消されたわけではありません。


 著者はさらに、フランス(をはじめとするヨーロッパ)での「反ユダヤ主義」についても指摘しています。
 2015年1月23日のテロの犠牲者のなかで、ユダヤ人の死者たちのことが、『シャルリ・エブド』の犠牲者たちほど話題にならなかったというマルセラ・イアクブさんという人のコラムを紹介したあとで、著者はこう述べているのです。

 ここでわれわれは、シャルリの原罪に近づいている。2012年3月の連続襲撃事件、モハメッド・メラという若者がモントーバン(フランスの南西部、ミディ=ピレネー地域圏に属するタルヌ=エ=ガロンヌ地域圏の首府)のユダヤ系中・高校「オザル・アトラ」で発砲して教師1人と生徒3人を殺害したあの事件の翌日、シャルリは平静だった。しかし道徳的に見ると、まったく疑いもなく、トゥールーズでの殺戮のほうが『シャルリ・エブド』でのそれよりも重大だ。ユダヤ人であるというだけの理由で子供や大人を殺すのが、ひとつの闘いを引き受けている編集部のメンバーを殺害するのに増しておぞましいことは明白なのだから。2014年5月には、フランス人のメディ・ナムシュがブリュッセルのユダヤ博物館を襲って4人を射殺した。フランス社会の第一の問題は、諷刺の自由、あるいは表現の自由の侵害だけではなく、都市郊外における反ユダヤ主義の拡がりである。
 2015年1月7日の事件は、したがって副次的に、それより前の殺害事件ですでに明らかになっていた反ユダヤ主義に対する平静さを、ふたたび表出することになった。デモ参加者たちが集結したのは、最も重大なことを告発するためではなく、すなわち半ユダヤ主義、およびユダヤ教というマイノリティの宗教が直面しなければならない危険の高まりを告発するためではなく、もうひとつのマイノリティの宗教であるイスラム教に対するイデオロギー的暴力を神聖化するためだった。

 これを「過剰反応」と考えるか、それとも、「重大な告発」と考えるべきか……
 日本で同じようなことが起こっても、被害者の立場による「扱いの格差」って、きっと起こるはず。
 メディアには、話題性がある人のほうが、大きく採りあげられやすいのは世界共通でしょう。
 ただ、「自ら闘いを引き受けている」人たちである『シャルリ・エブド』のメンバーよりも、ただ日常を送っていただけのユダヤ人の中高生が殺害されたほうが、たしかに「理不尽」だし、「重い」と僕も思います。
 でも、こんな事件が起こったことを、僕はこれを読むまで知りませんでした。
 不勉強なだけ、なのかもしれないけれど。


 著者は、2015年11月13日に起こった、パリISテロ事件を受けて、巻末に「日本の読者へ」という文章を書いています。

 事件への反応は、2015年1月7日のテロ事件の直後とはかなり違ったものになりました。1月の折には、標的がイデオロギー的・宗教的に特定可能で、具体的にはイスラム恐怖症の新聞、ユダヤ人、警官でした。しかし当時、心理的ショックが政府によって利用され、国民の一致団結が演出されました。そんな一致団結はしかし、本書を通読していただければお分かりになるであろうように、実は存在していなかったのです。都市郊外の若者や一般の労働者は、1月11日に全国各地でおこなわれた巨大デモにほとんど参加しませんでした。とくに高いパーセンテージで参加していたのは、最近までカトリックだった諸地域の人びとでした。『シャルリ・エブド』が襲撃されたために、イスラム教とイスラム恐怖症をめぐる問題系が劇的に浮かび上がりました。ムハンマドを諷刺する権利が、テロリストたちと抗議デモ参加者たちの双方にとって、主要な関心事となりました。
 これに対して、11月13日の連続テロで表出されたのは、ほとんど混ざり気のないニヒリズムでした。中東で組織され、都市郊外の若者によって実行されたにもかかわらず、その殺戮行為は、現実のどんなイスラム教とももはや無関係なように感じられました。ダーイシュ(「イスラム国」)自体と同様、その行為が表示したのは、イスラム教の病的な崩壊であって、どんな再活性化でもありませんでした。

 ダーイシュ(「イスラム国」によって選ばれた暴力による対決を受け入れる好戦的で権威主義的なスピーチが、社会党政府が示した主要な反応でした。つまり、シリアをもっと空爆する、警察と軍隊によってフランスをくまなく警備する、憲法がすべてのフランス人に与えているいくつかの保障を消し去ることになる非常事態宣言を発令する、といったことです。その一方で、都市郊外の荒廃、労働者階層の荒廃については何も考えないのです。したがって、経済政策とユーロの失敗についても、高齢者層が有する許されるべきでない特権についても、若者たちの経済的・心理的・道徳的圧殺についても、何も考えないのです。今度もまた、オランド大統領とそのチームが事件の中に見たのは、失業率が上がり続ける国にあって、政治的な言い訳を探す機会だけでした。政権の座にある社会党権威主義にのめり込んで行く安易さときたら、共和主義の伝統におよそ沿わないものです。

 ああ、高齢者層と若年層のギャップとか、都市郊外・労働者階層の荒廃とか、同じようなことが日本にもあてはまるよなあ、と思いながら、僕はこれを読みました。
 これはほんとうに「他人事」ではないよなあ。


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