琥珀色の戯言

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【読書感想】フジテレビはなぜ凋落したのか ☆☆☆


フジテレビはなぜ凋落したのか (新潮新書)

フジテレビはなぜ凋落したのか (新潮新書)


Kindle版もあります。

フジテレビはなぜ凋落したのか(新潮新書)

フジテレビはなぜ凋落したのか(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
視聴率の暴落、初の営業赤字、世論の反発…かつての“王者”に一体何が起きたのか―。一九八〇年代に黄金期をもたらした組織改革は、お台場への社屋移転等によって効力を失い、番組から斬新さは失われた。さらに日本テレビの猛追、「韓流びいき」批判も加わり、フジテレビは王座から滑り落ちた。情報番組のプロデューサー等を務めた元社員が、自らの経験や関係者への取材をもとに、巨大メディア企業の栄枯盛衰を描く。


 もとフジテレビの社員(番組制作者)であり、現在は九州の大学で教鞭をとっている著者による「フジテレビの栄光と凋落」。
 著者は「フジテレビと揉めて辞めたわけではなくて、今でもシンパシーは感じている」と仰っており、あくまでも「栄光の時代を過ごした一社員の目」で、フジテレビの歴史を辿っています。
 現状での問題点を挙げていく、というよりは、フジテレビの歴史を振り返ることによって、「王座」にいた時代と今は、何が違っているのかを浮き彫りにしようとしているのです。


 関係者に話を聞いた、ということで、数々の証言も散りばめられてはいるのですが、取材相手についての詳細はほとんど触れられておらず、「身内」であることのメリットとデメリット、みたいなものを感じる内容でした。
 「身内」だけに、「視聴率三冠」が長く続いた時代の高揚した雰囲気が伝わってきますし、逆に「あんまり厳しいことも書けないんだろうな」というのを、読んでいて感じるんですよね。
 もうダメだ、と言われはじめてからけっこう時間が経つのですが、結局のところ、「テレビ」というメディアは相変わらず巨大なものですし、「ネットメディアの現状での限界」も感じられます。
 そんななかで、フジテレビは「ひとり負け」しているようにさえ見えるのです。

 あらためて言うまでもないが、かつてフジテレビは「王者」として君臨した。1980年代に画期的なバラエティー番組を立て続けに世に送り出したことえブレイクしたフジテレビは、長らく放送業界のリーディング・カンパニーとして時代を先導してきた。
 ところが、あの元気なフジテレビは、今や見る影もない。視聴率、営業成績ともに、かつてないほどの惨敗を喫し、社内の雰囲気もギスギスしていると聞く。
 それは数字にもはっきりと表われている。
 フジテレビは、2011年に視聴率三冠王(全日:6時〜24時、ゴールデンタイム:19時〜22時、プライムタイム:19時〜23時、全三部門で年間平均視聴率が1位)の座を日本テレビに明け渡すと、2012〜2014年にはテレビ朝日にも抜かれ、無冠のまま後退.巻き返しをはかるべく2015年4月に実施した異例の番組大改編も、一桁台の視聴率を連発するなど空振りに終わった。
 また、2015年4月〜9月期の中間決算では開局以来初めて営業利益(フジテレビ単体)が10億円の赤字となった。


 栄華を極めていたはずのフジテレビは、なぜこんなに低迷しているのか?

 1981年、開局当初の「母と子のフジテレビ」に取って代わって、「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチフレーズとなった。
 お祭り好きで、元気で陽気――。
 そのような”ラテン系”テレビ局のイメージが、社内だけでなく世間でも認知されるようになった始まりはここにある。
 その後この言葉は、キャッチフレーズを超えた会社の「最高規範」「憲法」あるいは「呪文」のように働き、社員の意識や番組制作を方向づけていった。


 「楽しくなければテレビじゃない」
 このキャッチフレーズは、フジテレビにとっての「憲法」のようなものだと著者は仰っています。
 1970年代に行き詰まっていたフジテレビは、1980年代、若き鹿内春雄さんを中心に改革をすすめ、当時の常識を打ち壊す自由闊達さや視聴者と同じ目線での番組づくりで、頂点を極めました。
 その後、日本テレビの躍進で、一時王座を明け渡したものの、2000年代の半ばから再び視聴率三冠に君臨してきたのです。
 ところが、2010年くらいから、フジテレビは迷走をはじめてしまい、2016年の夏の時点では、まだ明るい兆しはみえてきていません。


 これを読んでいると、「歴史は繰り返す」という印象を受けるのも確かで、フジテレビもずっと「視聴率王」だったわけではなく、マンネリや組織の固定、経営効率化のために関係者に「格差」をつくってしまう、などの影響で、制作者たちのモチベーションが低下してしまった時代もあったのです。
 だから、いまのフジテレビの凋落も、長い歴史のバイオリズムのひとつ、みたいなものなのかな、とも思うんですよ。
 ただ、この新書で紹介されていた、「ここ数十年間のプライムタイム(午後7時〜10時)や全日(24時間)の視聴率の推移、をみていると、数字が斬減してきているのがわかります。
 テレビ局どうしの陣取り合戦や「フジテレビ」が槍玉にあげられがちではありますが、実際、テレビというメディアそのものが、だんだん、視聴者に観られなくなってきているのも事実なんですよね。


 僕のような「フジテレビの全盛期(1980年代〜90年代)にテレビバラエティを観てきた人間は、つい、「昔のフジテレビは良かったのに」と思ってしまいがちなのです。
 でも、これを読んでいて痛感するのは、同じことをいまのフジテレビの中心にいる人たちも考えているのだ、ということなんですよね。
 それで、「あの頃のフジテレビを取り戻そう」としている。
 ところが、いまの若い視聴者が求めているのは『ひょうきん族』の楽屋オチ的な要素を多分に含んだ笑いではないのです。
 若者たちは、自分とテレビ局の社員との「格差」に敏感だし、享楽的に生きようと思えるほど、未来を信頼してもいない。


 この新書のなかで、「おニャン子クラブ」について、著者はこう書いています。

 彼女たちが歌っていた「セーラー服を脱がさないで」という曲は、現在の放送倫理基準に照らすと、限りなくアウトに近くクレームが寄せられてもおかしくないが、当時はノリノリのムードの中で普通に放送されていた。そういう時代だったのだ。


 僕も「今のテレビは、あまりにも息苦しいのではないか」って、考えてしまいがちなんですよ。
「昔はもっと、視聴者も『おおらか』だったのに」と。
 フジテレビの低迷というのは、ここで、「昔と今の視聴者の置かれている立場とか環境の違い」に向き合うこともなく、「昔うまくいった方法をもう一度やれば、うまくいくはず」だと誤解してしまっているのが原因ではないか、と僕は感じたのです。


 「いまの視聴者は、心が狭い」
 だから、「自由な番組づくりができない」
 レギュレーションが変わってしまったのが悪い、おかげで自分たちは不利になってしまった、とボヤキたくなる気持ちはわかるんですよ。
 しかしながら、どんなにボヤいても、急に視聴者の考え方が変わるわけがない。
 日本テレビテレビ朝日は、「いまのレギュレーション」を研究して、それに合った番組をつくる努力をしているけれど、フジテレビは「昔の栄光の時代の番組と視聴者」のほうばかり向いてしまっているのです。
 全部が全部そうだ、というわけではありません。
 フジテレビの朝のワイドショー『とくダネ!』を観ていると「ネットニュース的な内容」をネットよりも早く採りあげており、「古い考えに縛られていない人」もいるのだな、というのも伝わってきます。
 ただ、フジテレビは「昔、新しかったこと」にとらわれすぎて、「いまの時代には古くなってしまったこと」を続けているように見えるんですよね。


 著者は、2011年8月21日に行われた「反フジテレビデモ」についても触れています。

 彼らの主張は、フジテレビが”韓流びいき”だというもの。韓国ドラマやタレントを偏重し、韓流コンテンツの「ステルス・マーケティング」(註:宣伝行為であることを隠して宣伝すること)を行っているほか、スポーツ番組で国歌斉唱のシーンを放送しないなど、日本を貶めるような「反日」的言動が多いというものである。
 これは全くの誤解である。
 業界関係者であれば誰でもわかることだが、韓流コンテンツを放送しているのは、「経済原理」に従っているだけ。韓流コンテンツは比較的安く買える上に、視聴率が高い。つまり儲かる。コストパフォーマンスのいい、おいしいビジネスなのである。それ以外に理由はない。
 決してフジテレビが反日で、韓国を推しているという「イデオロギー」があるわけではない。そもそもグループには、保守的言論で知られる産経新聞があるのだから、後は何をかいわんやである。


 この話も、著者が仰る通りで、おそらく、フジテレビは「安くて視聴率が取れるコンテンツだから放送している」だけなのです。
 「いや、イデオロギーじゃないんです」と言いたいのだけれど、メディアの建前として考えると「儲かるコンテンツだから放送しているんですよ」と宣言するのは難しい。 
 それももしかしたら古い時代の考え方で、いまは「こんなに安く買えて、これだけの視聴率が獲れ、CM料が多く入ってくるので、儲かるんです!」って数字を出して言い切ってしまったほうが、「ああ、そりゃしょうがないね」って、みんな納得してしまう可能性もあるような気もします。
 それが良いことなのかどうかは、さておき。


 フジテレビとしては「自分たちは悪いことなんてやっていないんだから、説明なんてする必要はない」と考えているのでしょう。
 著者は、それにも警鐘を鳴らしています。

 フジテレビがデモの対象となったのは、社会の雰囲気がよりシビアになる中、報道・情報系の番組以外では、相変わらず仲間内で楽しそうにはしゃぎ、長引く不況などどこ吹く風の”高給取り”に対する苛立ちや鬱憤もあったのだろう。日本社会のリアルに寄り添わず、浮世離れしたフジテレビが許せない――ネットユーザーはそんな感情を抱いたのではないだろうか。


(中略)


 とまれ、”韓流ゴリ押し”デモは、誤解に基づいた騒動ではあったが、フジテレビのその後を決定づける分水嶺となったと私は考える。フジテレビが狙われたのはそれなりの理由があったのに、ネットの批判を軽く見て、対処を間違えたのではないか。この件に関するネット世論を異端の言説とするのではなく、世間からの警告と捉え、「なぜここまで叩かれるのか」を徹底的に分析し、その結果を社内で共有して対処していれば、その後の凋落はなかったかもしれない。

 「悪いことなんてやっていない」から、説明なんてする必要はない、というのではなく、たとえそれが濡れ衣であっても、ちゃんと説明していくことが、誤解を得く近道であり、いまの時代の企業にとっての「身を守る方法」なのです。


 現状では、フジテレビが「昔のフジテレビらしさ」にこだわろうとすればするほど、観る側にとっては「懐かしいが、時代錯誤のバラエティ」が量産されてしまっています。
 でも、フジテレビ側は、それを「昔のフジテレビと違うからだ」と思い込み、さらに迷走してしまっているのです。
 「時代は変わっているのだから、昔うまくいったのと同じことをやっても、成功させるのは難しい」
 社内でのコミュニケーション不全という「大企業病」や「成功体験の魔力」に取りつかれてしまったフジテレビが復活するのは、けっこう大変かもしれません。
 そのための近道は「楽しくなければ、テレビじゃない」という原点を捨てる、あるいは、自分たちがイメージしている「楽しさ」と視聴者が求めている「楽しさ」のギャップを実感することじゃないか、と僕は思います。

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