あらすじ
江戸幕府によるキリシタン弾圧が激しさを増していた17世紀。長崎で宣教師のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が捕まって棄教したとの知らせを受けた彼の弟子ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)は、キチジロー(窪塚洋介)の協力で日本に潜入する。その後彼らは、隠れキリシタンと呼ばれる人々と出会い……。
2017年最初の映画館での観賞。もう1月も終わりだというのに。
夕方の回で、観客は15人くらいでした。
この映画、巨匠マーティン・スコセッシ監督で、今年のアカデミー賞の作品賞にもノミネートされるのでは、と言われていたのですが、結局、ノミネートされたのは「撮影賞」のみという「残念ニュース」を最近ネットで読みました。
このタイミングで公開されたのも「アカデミー作品賞最有力!」みたいな売り方を考えていたのではないかと思われるのですが、世の中うまくいかないものですね。
内容的にもまさに「救いようがない」重い作品なので、観る側にもある種の「心の準備」みたいなものが求められますし。
上映前に、アカデミー賞の各部門にノミネートされまくっている、『ラ・ラ・ランド』(2月24日公開予定)の予告編を観たのですが、そりゃあもう、ハッピーそうなミュージカル映画で、異国の昔の宗教弾圧よりも、こっちを観て束の間でも楽しみたい、って人が多いだろうな、って思いました。
僕は原作(というか「原案」くらいにしておいたほうが良いのか)の遠藤周作さんの『沈黙』を読んで、なんともいえない押しつぶされそうな気持ちになったことを記憶しており、マーティン・スコセッシ監督が映画化するのであれば、ぜひ観たいと思っていたのです。
2時間40分あまりと、かなり長い映画で、アカデミー賞で不振だったのも「冗長すぎるのが嫌われた」と言われていたのですが、観ていると、そんなに長さを感じない、緊張の糸がずっと張りつめている、そんな映画でした。
ずっと誰かが拷問されていて、いつ神父が「転ぶ」のか(あるいは、最後まで棄教しないのか)を観客は、ただ見守らなければならないのです。
あらためてその状況を想像してみると、言葉が通じる人がほとんどいない、文化も食習慣も違う異国で「布教」とするというのは、本当に大変なことですよね。
この映画では、 神父たちは「踏み絵を踏んでもいい」と信徒たちに言い、役人たちも、「形だけのことだから」と棄教をすすめ、「あなたたちの国では正しい教えなのかもしれないが、日本の風土にはそぐわない」と、けっこう物わかりがよさそうに「説得」してくるのです。
宗教者たちの意識とは別に、国として、宗教を征服のために利用しようという勢力は当時のキリスト教圏にも存在していました。
個々の信徒に対する拷問は少なくとも現代人の感覚からすれば見るに耐えないものではあるけれど、キリスト教を禁じたという当時の為政者の政策は、間違っていたとは言いがたいのです。
キリスト教が急速に広まっていたら、日本は別の国に(あるいは、どこかの植民地に)なっていたかもしれません。
「こんな水責めとか火あぶりとか『穴吊りの刑』とかを昔の本でやっていたことを映像化したら、外国で日本が嫌われるのではないか、と思ったのですが、キリスト教、とくに初期は弾圧と殉教の歴史でもあります。
死ねば天国に行けると信じて、責め苦の末に殉教した人々と(それはイエズス会の正統な教義と同じではなさそうなのですが)、死ぬこと、死なせることをためらって、棄教してしまう人たちの両方をみていると、どちらが幸せなのだろうな、とも感じました。
前者の死に方は、悲惨なものに僕にはみえるけれど、本人たちは、その死が救いだと信じていた。
後者は、生きていても帰る場所がなく、棄教者と罵られ、身の置き場もない。
そういう選択をさせる環境に問題があるのだ、というのはまさに「正義」なのだけれど、圧倒的な暴力が支配する場では、そんな正論では何も変えることはできないのです。
僕はこの映画を観ながら、ユダヤ人精神分析学者、ヴィクトール・E・フランクルさんが自らの強制収容所体験を書いた『夜と霧』を思い出していました。
収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。
神は、「沈黙」している、しつづけている。
神を信じる者たちが、どんなに酷い目にあわされていても、救いを求めていても。
奇跡は、起こらない。
「何も目に見える変化が起こらない」からこそ、「信仰」というのは成り立つのかもしれません。
見返りを求めて神を信じるというのは、原理原則的には間違っているのだし、神は試されるために存在しているわけではない。
でも、目の前で信仰を理由に苦しめられている人がいれば、「なぜ、神は何もしてくれないのか」と言いたくなるよね。
僕は原作を読んだときから、「自分は口では偉そうなことを言いながらも、土壇場で『転ぶ』人間ではないか」と思っていました。
まさに、フェレイラ神父のように。
ただ、人類が宗教を信じられなくなっても、人間は相変わらず死んでしまうわけで、「人は死んだらコンピュータの電源が切れたあとみたいに『無』になるんですよ」(コンピュータは電源が入っていなくても、ROMに記録されているでしょう、とか言われそうではありますが)、という「科学的な態度」を死に直面しても平然ととりつづけられるのだろうか?
物質的な豊かさや、身体的・精神的な「自由」も、1600年代に比べれば、はるかにマシになっているはずです。
とはいえ、人間は(平均寿命は長くなったけれど)死ぬし、いまの時代なりの悩みもある。
マルクスは「宗教はアヘンだ」と言ったと伝えられていますが、彼がメイドに手を出して妊娠させ、エンゲルスにその件の後始末を頼んだ、というようなエピソードを知ると、「性欲だってアヘンだよね」とか言いたくなります。
こういう「殉教物語」が語り継がれることによって、また信仰というものの尊さが強調されていく、という面もあるわけですが、この映画のように映像化されたものをみると、「そんな甘美なものじゃない」ことが現代人にもわかるような気がします。
現代の敬虔なキリスト教徒は、この映画をどう観るのだろうか。
殉教者の物語なのか、裏切り者の物語なのか、こういう人間の弱さを許せるのか?
窪塚洋介さんが演じていた「キチジロー」をあなたは許せますか?
正直、僕は最後まで許せなかった。
ああいうのが「人間的」なのかもしれないけれど、やっぱり、受け容れがたかった。
(こんなふうに感情をかき乱してくれるくらい、窪塚さんは「好演」していると思います)
安全なところから、「神を信じているなら殉教すべきだ」なんて、他者に強要する資格がある人なんて、いるのだろうか?
でも、そういう「建前」がないと、信仰を広めることはできないのです。
最近話題の『サピエンス全史』という本では、人間というのは、実在しない想像の産物を大勢の人が「共有」できるからこそ、ここまでの進化を成し遂げることができたのだ、という分析がされています。
宗教というのは、ある意味「もっとも人間的なもの」であり、「人間と動物を分かつもの」だった。
しかしながら、それが、「非人道的な行為」の大きな要因ともなってきた。
なんだかやたらと話が大きくなってしまってすみません。
でも、これは本当に「いろんなことを考えさせられる、圧倒的な映画」だと思います。
楽しくないけど、面白くないけど。あの時代に英語をしゃべれる日本人があんなに大勢いたとも思えないけど。
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