- 作者: ツチヤタカユキ
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2017/02/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容(「BOOK」データベースより)
人間の価値は人間からはみ出した回数で決まる。僕が人間であることをはみ出したのは、それが初めてだった。僕が人間をはみ出した瞬間、笑いのカイブツが生まれた時―他を圧倒する質と量、そして“人間関係不得意”で知られる伝説のハガキ職人・ツチヤタカユキ、27歳、童貞、無職。その熱狂的な道行きが、いま紐解かれる。「ケータイ大喜利」でレジェンドの称号を獲得。「オールナイトニッポン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」「バカサイ」「ファミ通」「週刊少年ジャンプ」など数々の雑誌やラジオで、圧倒的な採用回数を誇るようになるが―。伝説のハガキ職人による青春私小説。
「伝説のハガキ職人」ツチヤタカユキさんが自らの半生を振り返った小説。
これは小説なのか、独白なのか。
読んでいて、すごくヒリヒリするというか、圧倒されてしまいました。
世の中には、こんなに「笑い」に取り憑かれた人がいる。
人生の他のすべてに優先して、「ネタ」を作り出そうとしている。
ある暑い夏の日、給料を受け取るとそのままバイトを辞めた。
僕は実家にいながら無職になった。
母の冷たい視線をまるっきり無視し、起きている時間を大喜利に費やせる状況になった僕は、一日に出すボケ数のノルマを1000個から2000個に増やした。
朝から晩までクーラーのない部屋で、裸で机にかじりついて、自分でお題を考えて自分で答え続けていた。ノート一冊を一日で使い切るくらい大喜利をした。
とにかく、もっともっと加速したかった。誰よりも速く、濃く、生きたい。光の速さで生きて、一瞬で消えていきたかった。
だけど、そんな気持ちとは裏腹に、いつもボケが1500個を超えたあたりで、誰かに殴られているみたいに、頭がガンガンして、死にたい気分になった。加速したい気持ちに、脳と身体が全然ついてこれていなかった。
それでも毎日、ノルマの2000個に到達するまで、僕は絶対に、全力疾走をやめなかった。
(NHKの『ケータイ大喜利』で)三段に昇格した頃、大喜利のスピードはさらに加速していき、その頃には5秒に1回ペースで、ボケが出せるようになっていた。一つのお題につき、少なくても30個。多い時は300個ボケを送った。
ツチヤさんは、本当に、一日中ボケを考え続けていたのです。
お笑いとは、ここまでストイックなものなのか……
ツチヤさんは極端な例なのかもしれませんが、以前、有名なコピーライターの本でも「とにかくたくさんのアイディアを出してみるトレーニングが必要」と書いてあるのを読みました。
お笑いとかコピーライティングには「センス」がモノを言うのだと思われがちだけれど、どんな天才でも、最初に「最適解」を見つけ出せるわけではなくて、試行錯誤を繰り返しているのです。
もちろん、数さえこなせば良い、というものではないのだろうけれど、少なくとも「千本ノック」みたいなのが大事な時期はあるのしょう。
ハガキ職人を続けるためには、最低限の金がいる。
僕はすぐに、松屋でアルバイトを始めた。深夜の店の清掃が、主な仕事だった。
時間が過ぎるのが、恐ろしいくらいに遅い。
今、僕の心臓は、ちゃんと動いているんだろうか? バイトの途中、自分の心臓が止まっているような感覚を覚えた。
この時間があれば、もっとたくさんの笑いを生み出せる。そう考えると、居ても立っても居られなくなってくる。今すぐに帰って、ボケを出したい。
自分が存在していなかったら、生まれなかった笑い。それをたくさん作って、この世に残したい。どうにか笑いだけを作らせてくれませんか? 神様。
家に帰り、ラジオを聴いた後、採用された分だけ、壁に貼られた紙の分の数字を増やした。その紙には雑誌やラジオなどで、今まで採用された数字が並んでいる。
もうすぐ300を超えそうなのが、2つもある。
ラジオや雑誌にネタが採用される。
その喜びの感情は、打ち上げ花火のように、一瞬で終わる。
採用を確認した、次の瞬間から、来週分の投稿のタイムリミットがスタートを切る。
来週もまた、その瞬間を手に入れるたびに、ペンを握る。
ツチヤさんの生きざまを読んでいると、ツチヤさんにとっての「笑い」とは何なのだろう、と考えずにはいられないのです。
ツチヤさんは、めんどくさい人間関係が苦手で、実力が劣っていても、要領の良さで「うまく生きている人たち」を憎んでいる。
つまらない俗物が、つまらない「お笑い」を放っているのを嫌悪している。
でも、ボケやネタでツチヤさんが「笑わせている」対象には、まちがいなく、そういう「俗物」が含まれているはずです。僕もその俗物のなかに含まれている。
ツチヤさんは、自分が憎んでいるもの、嫌っているものを喜ばせるボケを、ひたすら生み出そうとしている。
それは、もしかしたら、「俗物の仲間に自分も入りたい」「愛されたい」という気持ちが遠回りしているだけではないのか。
いや、そんな安易な解釈をするのは、あまりにもツチヤさんに失礼ではないのか。
でも、「誰かを笑わせる」ためではない、「芸術のための芸術」のような「お笑い」は成立するのだろうか。
ポケットのケータイが震えた。
我に返り、こめかみを抑える。
ケータイを開くと、新作漫才の執筆依頼が来ていた。
上京していたときに僕が得た唯一の命綱だ。それが今では、お笑いの世界と最後の繋がりとなっている。
「皮肉な話やな」とカイブツの声がする。
「お前を死にたくて、たまらない気分にさせるのは、いつだって世間やのに、皮肉にも、おまえが人生を捧げた笑いは、その世間を楽しませるために、存在しとる」
僕がずっと夢見てきたのは、自分の力で、笑いの世界に激震を起こすことだった。けれど現実は、激震どころか仕事がほとんどない状態だった。
それでも扱ったことがない漫才を見るたびに、カイブツがわめき散らすのだった。
ツチヤさん自身も「わかっている」んですよね。
でも、自分でも、どうしようもない。
ツチヤさんはあまりにも極端なのかもしれないけれど、こういう「カイブツに取り憑かれた人」が生んだもので、「普通の人」たちが人生を楽しんでいる。
ラジオ局では、ただ居るだけという、中途半端な状態が、何ヶ月も続いた。
見兼ねた他の構成作家から「仕事をもらうためには、ディレクターの懐に入れ」とアドバイスされた。
「とにかく全員に媚びて、気持ち良くさせれば仕事がもらえる」と言われた。
その時、脳裏に浮かんだのは、吉本の劇場で、舞台監督の肩を揉む、構成作家見習いの奴だ。それが浮かんだ瞬間、心底吐き気がした。
奴になりたいか? 思い出しただけで、心底吐き気がした。
だけど、あれが正しい構成作家の戦い方だったのだ。いの一番に舞台監督の懐に入った奴が正しくて、劇場で人間関係を度外視して、毎日ネタばかり作っていた僕は間違っていたんだ。
この世界で生きて行くということは、奴になるということでしかないのだ。
でも、よくよく見渡してみれば、業界全体が、そんな人間を是としていた。
いや、世界全体が汚くて醜くて不純な人間を是としていた。
僕の中の“正しさ”は、この世界とズレまくっている。
「お笑いをやめる」と初めて口にしたのは、その頃だった。
ツチヤさんに、藤子・F・不二雄先生にとってのA先生のような「外部への折衝役」をつとめてくれるような相方や、マネージャーのような存在がいれば……とも思うんですよね。
この本に書かれているネタは、僕のようなお笑いにあまり詳しくない人間が読んでも「面白いなこれ」って感じるものだったし。
でも、アルバイト先の同僚としては、「こういう人と一緒には、働きづらいだろうな」というのもよくわかります。
世の中には、その職種に必要とされている技能だけでなく、うまく自分をアピールする力、とか、周りとうまくやっていく才能、みたいなのが必要な仕事って、多いんですよね。
海外移籍したサッカー選手でも、どんなにサッカーが上手くても、「外国の環境や生活習慣に適応すること」や「周囲の選手や首脳陣とうまくやっていくコミュニケーション能力」がないと、活躍することはできないのです。
「笑いに取り憑かれた男」の触ると火傷しそうな半生記。
すごく面白かった、というか、面白い、と言っていいのかわからないけれど。
ただ、これを読むと、ツチヤさんが作った、と聞いたら、そのネタで笑う前に、この本のことを思い出して、身構えてしまうかもしれません。
「笑いを語る」って、本当に難しい。
- 作者: 若林正恭
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2015/12/25
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