- 作者: 斎藤美奈子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2017/01/21
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
基本はオマケ、だが人はしばしばオマケのためにモノを買う。夏目漱石、川端康成、太宰治から、松本清張、赤川次郎、渡辺淳一まで。名作とベストセラーの宝庫である文庫本。その巻末の「解説」は、読者を興奮と混乱と発見にいざなうワンダーランドだった!痛快極まりない「解説の解説」が幾多の文庫に新たな命を吹き込む。
大概の文庫本には「解説」がついています。
僕は、解説が誰それ、というのにあまり思い入れやこだわりはないのですが、たしかに、読んでいて面白い解説もあれば、著者と自分が仲良しであることをアピールしておしまい、みたいな解説もあるんですよね。
世の中には「解説ファン」というか、誰が解説しているかに注目している人というのも少なからずいますし、僕も杏さんの本の解説を村上春樹さんが書いた、ということに驚いたことがあります。
自分の作品の文庫には解説を入れない主義の村上春樹さんも、相手が若い女優さんなら「解説」してくれるのか!(……っていうのはあまりにも穿った見方ではありますが)
僕が文庫の「解説」でとくに印象に残っているのは、これでした。
この文庫版では、町山智浩さんの強烈な「解説」が、主人公・速水の独白に酔った読者に、冷水をぶっかけてくれます。
あらためて考えてみると、ここまで解説が「読後感」に影響を与えて良いのか、とも思うんですけどね。
かなり脱線してしまいましたが、いろんな歴史的な作品の「解説」を読み比べてみる、あるいは「もっとも親しみやすい批評としての文庫解説」を語るという試みは、なかなか思いつかない、あるいは、思いついたとしても、あまりにも労力が必要な仕事で、実行するのは困難……なはずなのですが、それをやってしまうのが斎藤美奈子さんなのです。
「あとがき」で斎藤さんは仰っています。
文庫本の巻末についている「解説」は誰のためにあるのだろう。
「何のために」は考えてみる必要があるかもしれないけれど、「誰のため」の答えは簡単だと思っていた。読者のために決まってる、と。
ところが、いざ、さまざまな文庫の解説を読んでみると、そうとばかりもいえないケースが少なからず存在するということに気がついた。「読者のため」ではないとすると誰のため? ひとつは「著者のため」、もうひとつは「自分のため」である。
具体的な事例は本文を読んでいただくとして、なぜこんなことになっちゃうのか?
この新書を読むと、「解説」をする人によって、作品はいろんな解釈をされているのだな、ということがよくわかります。
夏目漱石の『坊っちゃん』は痛快な喜劇、というイメージが僕にはあったのですが、必ずしもそう解釈している人ばかりではないのです。
もうひとつ、平岡(敏夫)解説の特徴は、坊っちゃんと山嵐に旧武士階級というだけではない「佐幕派」、すなわち戊辰戦争で負けた側の影を見いだしていることだ。
二人をはじめ善玉側の人間がなべて佐幕派に属する地域の出身であることを指摘しつつ、平岡は一種の憂いをこめて書く。<明治維新以後、薩長幕藩体制に冷遇され、時代の陰にあった佐幕派系の人たちの、国であれ地方であれ中学校であれ、ひとしく体制に対する反逆という文脈のなかで、『坊っちゃん』を読むことができ>るのだと。
いやはや、佐幕派とは! ガハハと笑って『坊っちゃん』を読んでなんかいたら、ドヤしつけられそう。四国辺で与太を飛ばしている痛快な野蛮人だったはずの坊っちゃんは、いまやすっかり歴史の悲哀を背負った悲劇なヒーローになってしまったのである。
個人的には、そこまで深読みしなくても良いのでは……と思うのですが、まあ、こういう解釈も不可能ではない、ですよね。
でも、中には作品の解説というより、解説の場を借りて、自分のイデオロギーをアピールしたがる人までいるわけです。
一例が講談社青い鳥文庫版『リトル プリンセス——小公女』(2007)である。不幸な境遇に落ちたセーラが想像力で希望をみいだす姿を讃えて、訳者いわく。
<今の日本人にいちばん欠けているのはそういう点かもしれません。国家にも社会にも家庭にも不備はあります。(略)しかし私たちが、うまくいかないことの理由を、自分以外の組織や人のせいにしても、ほとんど現実には救われないということもほんとうです>
また、周囲への優しさにあふれたセーラを評していわく。
<セーラはけっして利己主義ではありません。(略)この点でも最近の日本の子供たちや若者たちは、幼稚になったような気がします>
この説教臭い解説の主は、訳者の曾野綾子である。
植民地についてはいかにも曾野綾子がいいそうなことを、曾野綾子はいうのである。
<今まで日本では、植民地主義に関してすべてのことが悪だった。そして植民地で働いた白人たちはすべて悪い人だったような言い方をしますが、そうではないことを、私たちはこの物語の中の隠されていた部分にも発見するのです>
貧しさは自己責任論に還元され、植民地主義は半ば肯定され、物語の美質はなべて<今の日本人が失ってしまった実に多くのみごとな人の心>と解釈される。
『小公女』までダシにするのだもんな。困ったもんだな、曾野綾子。
ちなみに、『小公女』に関しては「階級差と植民地の問題」というのがあって、現在は評価が分かれているというか、「手放しで教訓にするのは難しい」みたいです。
そういう時代背景を補うのも解説の役割ではあるのですが、解説を頼まれる人が、必ずしも客観的な立場、というわけではなく、一昔前は、マルクス主義史観全開の解説なんていうのも少なくなかったようです。
それも、今となっては時代錯誤な印象になってしまうのですが、書かれた当時は「そういうのもアリ」だったんですよね。
「解説」というのは、著者や作品を褒めているもの、というイメージがあったのですが、斎藤さんは、作品に疑念を呈するような「解説」もあることを紹介しています。
松本清張さんの代表作『点と線』について。
アリバイ崩し系のミステリーだから、『点と線』の場合も、「怪しいのは安田だ」という予測はついている。しかし、もしトリックが杜撰だったら?
この点にイチャモンをつけたのが、新潮文庫版(1971)の解説だ。解説者は文芸評論家の平野謙。<心中というかたちに偽装した殺人という巧みな方法><その殺人の動機を汚職にからませた状況設定の新しさ>などを賞揚しつつ、平野は<見事な『点と線』ではあるが、やはりそこにはひとつのキズがある>と切り出す。
平野が疑義を挟むのはくだんの「四分間」の件である。
<真犯人は目撃者を何時何分に横須賀線へつれてくるだけでなく、おなじ時刻に被害者の男女をして東海道線フォームを歩かせねばならぬことを意味する>
そんなピンポイントの遭遇が本当に可能なのか。
文春文庫版でも、解説のミステリー作家・有栖川有栖さんが『点と線』のアリバイに対して、容赦なく批判しているそうです。
もっとも、「シニカルに、切なく旅を描いた小説」として評価している、というフォローも、いちおうしているみたいなのですけど。
まあ、こういうときに「やっぱりひとこと言わずにはいられない」のが、「ミステリマニア」なんだよなあ、なんて、ちょっと微笑ましくもありますね。
「この解説、なんか変じゃない?」そう思ったのは、僕が悪いわけじゃなかったんだ!
「解説」を茶化しているようで、読んでいるうちに、有名な作品に対する「さまざまな読み方」が身についてしまう、すごく面白い本でした。
- 作者: 杏
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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