
- 作者: 国谷裕子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2017/01/21
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。

- 作者: 国谷裕子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2017/04/20
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内容紹介
今という時代を映す鏡でありたい──.従来のニュース番組とは一線を画し,日本のジャーナリズムに新しい風を吹き込んだ〈クローズアップ現代〉.番組スタッフたちの熱き思いとともに,真摯に,そして果敢に,自分の言葉で世に問いかけ続けてきたキャスターが,23年にわたる挑戦の日々を語る。
1993年4月から、2016年3月まで、23年間にわたって、NHK『クローズアップ現代』のキャスターをつとめた国谷裕子さんが、キャスター生活の思い出とともに「キャスターとは、ジャーナリズムとは」について書かれた新書です。
僕は、颯爽と司会をしている国谷さんの姿しか記憶にないのですが、国谷さんはもともと報道やアナウンサーを志向していた人ではなくて、「帰国子女で、英語が堪能である」という理由で、まだ試運転段階だった衛星放送のキャスターとして起用されます。
そこで苦闘したことによって「このままでは終われない」と、「テレビにおけるジャーナリズム」に興味を持ち、経験と勉強を重ねて、日本を代表するキャスターとなっていったのです。
国谷さんが、もともと局アナでも記者でもなかった、というのは、この本を読んで初めて知りました。
そういう人しか、キャスターにはなれない(ならない)ものだと思っていたので。
だからこそ、この本で語られている国谷さんの姿勢は「テレビマン」の、ある種悟ったような「視聴率至上主義」「わかりやすさこそ正義」という常識とは違うものなのかもしれません。
<クローズアップ現代>のキャスターを23年間続けてきて、私はテレビの報道番組で伝えることの難しさを日々実感してきた。その難しさを語るには、これま私が様々な局面で感じてきた、テレビ番組の持つ危うさというものを語る必要がある。
その「危うさ」を整理してみると、次の三つになる。
(1)「事実の豊かさを、そぎ落としてしまう」という危うさ
(2)「視聴者に感情の共有化、一体化を促してしまう」という危うさ
(3)「視聴者の情緒人々の風向きに、テレビの側が寄り添ってしまう」という危うさ」
キャスターとして視聴者にいかに伝えるかは、この三つの危うさからどう逃れうるかにかかっている。
一つめの「事実の豊かさを、そぎ落としてしまう」という危うさをどう免れうるか。これが一番難しいことだった。テレビ番組は、その番組内容のすべてが視聴者に伝わるよう、わかるように作られるが、一歩間違えれば、「わかりやすいだけの番組づくり」になってしまう危険性がある。メッセージがシンプルな番組のほうが視聴率を取りやすいなどと言われる傾向があるなかで、「わかりやすく」することでかえって、事象や事実の、深さ、複雑さ、多面性、つまり事実の豊かさを、そぎ落としてしまう危険性があるのだ。とりわけ報道番組では、このことは致命的な危うさになる。
テレビ番組というのは「わかりやすい」ほうが好まれがちではあるのですが、「わかりやすくする」ためには、物事の一部だけを切り取ったり、一面からしか見なかったり、わかりやすい「悪者」を設定したり、ということになりがちなのです。
現実というのは、往々にして、多面的で、みんな自分が正しいと思って行動していて、わかりにくものなんですよね。
この「三つの危うさ」のこと、国谷さんがずっと意識してきた「ジャーナリズムとはどうあるべきか」について、ぜひ多くの人に読んでみていただきたいと思うのです。
ああ、こんな良心的なキャスターが日本にもいたんだなあ、と、ときどきしか『クローズアップ現代』を観ていなかったことを残念に感じたんですよね。
そして、国谷さんの「言葉」に対する意識の高さや思索というのは、言葉を仕事で使わなければならない人(多くの人がそうだと思います)にとって、参考になると思うのです。
数年前、「ねじれ国会」という言葉がメディアで頻繁に使われていた。衆参両院で多数派を形成する政党が、それぞれ別の政党となっている状態をさす。その衆参の「ねじれ」によって、法案の成立に時間がかかったり、成立が滞る事態が生じていた。しかし、この「ねじれ」の事態も選挙の結果の民意であることに変わりはない。問題なのは、「ねじれ」という言葉が、やはりある文脈のなかに置かれれば、この事態がなにか正常ではない事態、是正すべき事態を意味する言葉として流通してしまうということなのだ。そしてその「ねじれ」状態のなかで行われた参議院選挙も、「ねじれ」状態を解消することが正常化すること、つまり衆議院と同じ政党が多数派になることが「正常」であるとの見方を流通させることにつながったとは言えないのだろうか。これはある意味、投票誘導行為にもなりかねない。
言葉の持つ力は絶大だ。いったん流通し始めてしまえば、誰にも止められない。メディアは、そして私たちは、そのことにどこまで自覚的だったのか。一言でわかりやすくするための、いわば造語や言い換え言葉の持つ危うさが、「ねじれ国会」という言葉には象徴的に現れていると思えた。これは穿ちすぎだろうか。
言われてみれば、確かにその通り、なんですよね。
「ねじれ国会」という言葉を繰り返し耳にすることで、「ねじれているというのは異常なことなのだ」と無意識のうちに考えるようになってくるのです。
そもそも、「衆議院と参議院の多数派が別の政党である」というのをネガティブにとらえてている人だからこそ、「ねじれ」という、あまりポジティブには使われない言葉を選んだのでしょうし。
2011年6月23日放送の「子どもたちが綴った大震災」。作家の重松清さんをお迎えし、東日本大震災で被災した子どもたちが書いた作文を取り上げた番組だ。作文とそれを書いた子どもたちを紹介したリポートのあと、スタジオで重松さんが最初に語ったのは、作文を書けなかった大勢の子どもたちがいたことについてだった。
「過酷な体験をし、辛いものを見てしまった子どもたちです。作文を書くのはその辛い体験とも一回向き合うことです。子どもたちの心がまた傷ついてしまうこともある。それが心配です」。そして「いまの作文にとっても感動したんだけれど、まだ書けなくともいいんです、まだ向き合えなくてもいい。その上で、書いてくれた子どもたちによく頑張ったね、と言ってあげたい、ありがとうと思いました」と続けた。
映像で見えないことをスタジオで伝えることの大切さ、映像にないことに対する想像力の大切さ。まさに<クローズアップ現代>の狙いそのものを重松さんは言葉にしてくれたのだった。
「映像」で伝えることの力と問題点を意識しながら、言葉を大切にし、「映像にできない」「言葉にならない」ことへの想像力をはたらかせる……
こうしてまとめてみると、わかったような気になってしまうのですが、これを実践するのはすごく難しいことだと思います。
そして、これを実践したからといって、視聴率の高さや視聴者からの評価につながるとは限らない。
「わかりにくい」「ゲストに失礼な質問をするな」などと批判されることもある。
「ジャーナリズムの問題」は、「それを観て、評価する側の問題」であることも考えずにはいられませんでした。
「真摯な本」ですし、「なぜ、僕はもっとちゃんと『クローズアップ現代』を観て、応援していなかったのか」と後悔してもいます。
いないのは「千里の馬」ではなく、「伯楽」のほうではなかったのか。
「日本のマスコミはおかしい」と考えている人には、ぜひ、読んでみていただきたいのです。