- 作者: エドワードルトワック,Edward N. Luttwak,奥山真司
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2017/04/20
- メディア: 単行本
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Kindle版もあります。
- 作者: エドワード・ルトワック
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2017/04/21
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
国連やNGOや他国による中途半端な「人道介入」が、戦争を終わらせるのではなく、戦争を長引かせる。無理に停戦させても、紛争の原因たる「火種」を凍結するだけだ。本当の平和は、徹底的に戦った後でなければ訪れない。
正直、このタイトルを見たときには、けっこう面喰らってしまいました。
戦争にチャンスを与えるって……戦争しよう、ってことだよね……
何なんだこれは、釣りタイトルか?
そんなことを考えつつ、半ば釣られる覚悟で読み始めたのですが、まあなんというか人間社会の「不都合な真実」みたいなものを、アメリカの大手シンクタンク「米戦略国際問題研究所(CSIS)の上級顧問、エドワード・ルトワックさんが語っているものです。
ルトワックさんは、こう述べています。
論文「戦争にチャンスを与えよ」(1999年発表、本書2章)は、私がこれまで書いたなかで最も多く引用された論文だ。今日でもまだ議論されている。
旧ユーゴスラビアで起こった一連の出来事を目撃したことが、そもそもの執筆のきっかけだ。ご存知のように、ユーゴスラビアでは、1990年代に激しい内戦が起きたが、これが私に論文を書かせるきっかけとなった。
さて、この論文が明らかにしているのは、「戦争の目的は平和をもたらすことにある」ということだ。戦争は、人々にその過程で疲弊をもたらすために行われるのである。
人は戦争に赴く時、力に溢れ、夢や希望に満ち、野望に心躍らせているものだ。しかし、いったん戦争が始まると、今度は、さまざまな資源や資産を消耗させるプロセスが始まる。この過程で、人々の夢や希望は、次々に幻滅に変わっていく。そして戦争が終わるのは、そのような資源や資産がつき、人材が枯渇し、国家が空になった時なのだ。
そこで初めて平和が訪れる。平和が訪れると、人々は、家や工場を建て直し、仕事を再開し、再び畑を耕す。
これを読んで、やっぱり、資源や資産が底をつき、たくさんの人が犠牲になるまで戦争をするのは間違っているのではないか……と思ったのですが、著者は「大国や国際社会の介入によって、戦争が中途半端な状態のままになり、終わらなくなってしまうこと」の弊害を丁寧に説明しています。
著者は、ルワンダでのツチ族とフツ族の紛争について、こう述べています。
最初にツチ族がフツ族を虐殺し、フツ族は、国境を越えて東コンゴに逃げ込んだ。その直後、国連の介入より悪いことが起こった。NGOが介入してきたのである。これは「悪夢」と言ってよい。
このNGOは、まったく無責任な存在だった。右も左も分からないまま、「フツ族がかわいそうだ」というだけで、ルワンダから越境してきたフツ族をかくまう難民キャンプを設置し、彼らに食事を提供した。ところが、昼間に配給された食糧で腹を満たしたフツ族は、夜中には国境を越えて、ツチ族を殺しに行ったのである。難民キャンプは、国境からわずか三キロの地点にあったからだ。
NGOの行動は、あまりに無責任なものだった。活動資金を得るために、メディアの注目を集めたい彼らは、当事国の事情をろくに調べもせずに、ひたすら「困った人を助ける」という目的で、難民キャンプを設置する、という大失態を犯したのである。
この時、真実を唯一語っていたのは、フランスの「国境なき医師団」である。彼らだけは、このような行為は犯罪的である、と主張し、その無責任ぶりを非難した。フツ族を国境近くに留め置くことで、紛争を長引かせていたからだ。
この紛争は、ルワンダが東コンゴに侵攻するまで終わらなかった。ルワンダは、コンゴと5年にもわたり戦争を続けることになってしまったのである。
こうした事情を背景にして、私は論文「戦争にチャンスを与えよ」と書いたのである。そこで主張したのは、「戦争には目的がある。その目的は平和をもたらすことだ。人間は人間であるがゆえに、平和をもたらすには、戦争による喪失や疲弊が必要になる」ということだ。外部の介入によって、この自然なプロセスを途中で止めてしまえば、平和は決して訪れなくなってしまう。
こういうのは、自分が最前線で戦ったり、家が戦火で焼かれたりする危険を感じていない人の意見なのではないか、とも思うんですよ。
ただ、ルトワックさんには従軍経験もあり、けっして「机上の空論」をこねまわして悦に入っているだけでもないのです。
歴史家とか「国家の戦略を担当する人」というのは、このくらい、「俯瞰」して、物事を判断するべき、というのも、一面の真実なのでしょう。
サンデル教授が講義のなかで、「暴走している列車が、このまままっすぐ進めば5人が轢死してしまう。だが、線路のポイントを切り替えて列車の進む方向を変えれば、1人が亡くなるだけで済む。では、このポイントを切り替えるべきなのだろうか?」という問いを投げかけていました。
「広島と長崎に原爆を落とした効果で日本が早く降伏し、結果的に多くの人の命が救われた」という理屈もあるわけです。
それが本当かどうかは、検証しようがないのですが、国が本気で戦争をしているときには「まず勝利すること」が「人道的であること」よりも優先されるであろうことも想像できるのです。
「何が正しいか」というのは、歴史が決める。でも、歴史を書くのは、勝者の特権でもあります。
ルトワックさんは、こう仰っています。
太平洋戦争で、日本が完膚なきまでに叩きのめされずに停戦になっていたら、いまの日本は別の国になっていたかもしれない。
中途半端な状態で停戦となっている実例が朝鮮半島で、結果的に、「戦争が凍結された状態」が続き、平和が訪れていないではないか、と。
坂口安吾ではないですが、「堕ちるところまで堕ちきらないと、人や社会は変わらない」というのは、わかるような気がするのです。
なんというか、とても苦い話だと思うんですよ。
でも、僕はこの考え方を全否定する勇気がありません。
それは、自分が戦争に直接参加する、ということにリアリティを感じていないから、なのかもしれないけれど。
ひどい目にあわされて、難民キャンプが敵のすぐ近くにあれば「復讐」しに行くよねそれは……圧倒的な戦力差があって、手も足も出ない、というのでなければ……
ここでの教訓は何か。「紛争に介入してはいけない」ということだ。
介入しても良いのは、和平合意と難民移住などに関する責任をすべて引き受ける覚悟がある場合だけである。みずからの外交力によって和平合意を実現できないようなら、紛争に介入してはならない。
今日では、あまりにも多くの戦争が「終わることのない紛争」となってしまった。その理由は、外部からの介入によって、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」という二つの終戦要因が阻止されるからだ。
ここでの問題は、古代から戦争につきまとってきた問題とは異なる。
「無関心な介入」によって生みだされるのは、今日の新たな不正行為の害悪であり、この害悪は排除すべきなのだ。政策担当のエリートは、他国の戦争に介入したい、という感情的な衝動を積極的に拒否すべきなのである。他人の苦しみに無関心であれ、ということではない。むしろ真に関心を寄せるべきであり、そうした介入の拒否は、平和が生みだされる条件を整えるために必要なのだ。
アメリカは、他国による国際介入をリードするのではなく、逆に、不介入を説いて思いとどまらせるべきである。
国連の難民救済活動においては、紛争勃発直後に発生した難民に対し、本国への送還、現地での定住、もしくは他国への移住を迅速に実現させ、半永久的な難民キャンプの設立を禁止するような、新たなルールづくりが必要だ。
介入主義的なNGOの活動を制限するのは不可能だろう。しかし各国政府は、少なくとも公式には、彼らを支持したり、財政的に支援したりすべきではない。
ルトワックさんが「戦争にチャンスを与えよ」という論文を発表したのは、1999年でした。
それ以降も、アメリカは結果的に他国の紛争に対して、介入してきたのです。
その積極性にはグラデーションがあるのだとしても。
トランプ大統領の「アメリカは世界の警察をやめる」という政策は、ルトワックさんにとっては「我が意を得たり」かもしれません。
ようやく、アメリカも気づいたのか、と。
「そんな無責任な!」って言いたくなるのだけれど、中途半端に介入するほうが無責任なのだ、という考え方にも、合理性はあるのです。
正直、「何か言い返したいのだけれど、あまり有効な反論ができそうもない」というのが読み終えての僕の気持ちなんですよね。
家が中途半端に焼けてしまうよりは、全焼したほうが、新しい建物はつくりやすい。
だからといって、いま、目の前で燃え盛っている火を放置するのが正しいのか?
とりあえず、こういう考え方もある、ということは、知っておいて損はないと思います。