琥珀色の戯言

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【読書感想】仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える ☆☆☆


Kindle版もあります。

孤独論 逃げよ、生きよ

孤独論 逃げよ、生きよ

内容紹介
働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。しかも近年「生きる意味が感じられない」と悩む人が増えている。結局、仕事で幸せになれる人は少数なのだ。では、私たちはどう生きればよいのか。ヒントは、心のおもむくままに日常を遊ぶことにあった――。独自の精神療法で数多くの患者を導いてきた精神科医が、仕事中心の人生から脱し、新しい生きがいを見つける道しるべを示した希望の一冊。


 タイトルをみたときには、ネットでみかける「自分の好きなことをやって生きていこうぜ! でも、俺へのお布施は忘れるなよ by プロブロガー」みたいな内容なのかと思っていたんですよ。

 私がかつて精神科医として扱うことが多かった問題は、例えば「愛情の飢え」と「劣等感」「人間不信」といった熱い情念が絡んだ悩み、いわば「温度の高い」悩みが中心でした。しかし最近では、「自分が何をしたいのかわからない」といった「存在意義」や「生きる意味」に関するテーマが持ち込まれることが多く、これを一人密かに苦悩しているような「温度の低い」悩みが主要なものになってきているのです。
 しかし、これまでの精神医学や心理学は、おもに「温度の高い」悩みや精神病を扱うことに力点を置いてきたせいか、この種の「温度の高い」問題に対しては、その本質を捉えることができていないように思われます。
 例えば、近年激増したいわゆる「新型うつ」に対して、一部の精神科医たちからなされている批判的発言などは、まさしくこのことを象徴している現象ではないかと思います。


実際は、現役精神科医である著者が、「生きづらい」「生きている意味への疑問にとらわれて、前に進めなくなっている」人々と長年接してきた経験と、歴史上さまざまな人物が語ってきた知見から、「働くことの意味について、もう一度考え直してみる」という内容でした。


 著者は、哲学者ハンナ・アーレントの文章を紹介しています。

 アレントは、1958年に発表した『人間の条件』という著作の中で、人間の活動全般を「活動的生活vita activa」と呼び、これを三つに分けて考えました。それは、「労働labor」と「仕事work」と「活動action」の三つです。

 この三つの活動力とそれに対する諸条件は、すべて人間存在の最も一般的な条件である生と死、出生と可死性に深く結びついている。労働は、個体の生存のみならず、種の生命をも保障する。仕事とその生産物である人間の工作物は、死すべき生命の空しさと人間的時間のはかない性格に一定の永続性と耐久性を与える。活動は、それが政治体を創設し維持することができる限りは、記憶の条件、つまり、歴史の条件を作り出す。


 つまり「労働」とは、人間が動物の一種として生命や生活の維持のために、必要に迫られて行うような作業を指しています。そこで生み出される産物は、消費される性質のもので、永続性を持たないのが特徴です。一方「仕事」とか、人間ならではの永続性のある何か、例えば道具や作品のようなものを生み出す行為を指し、「活動」とか、社会や歴史を形成するような政治的働きかけや芸術などの表現行為のことを言っています。
 しかしアレントは、ギリシヤ時代には、これらのどれよりも大切なこととして、本来は「観照生活vita contemplativa」というものが位置づけられていたと述べています。
 この「観照」とは、現代の言い方では内省や瞑想といった言葉が近いかもしれませんが、自然や宇宙の真理を感じ取るべく、静かにそれと向き合うことを指しています。ギリシヤ人によって、動的な「活動的生活」も思考することも、それらすべてはこの静的な「観照生活」に向かうべきもので、これこそが究極の人間らしい在り方とされていたのです。


 あらためて考えてみると、人類の歴史上、「汗水たらして単純労働に従事する」ということが、「正義」でも「善」でもなかった時代が、少なからずあったのです。
 高校の世界史の時間に、「アテネ直接民主制は、奴隷たちの労働によって成り立っていた」というのを知って、幻滅した人は、けっこういるのではないでしょうか。
 僕もそのひとりで、「奴隷たちを犠牲にして行われている民主主義なんて、価値があるとは思えなかった」のですよね。
 逆にいえば、「文化的・創造的な仕事だけやって生きていくことは難しい時代」を人類はずっと過ごしてきたわけです。
 働くことを称賛することは、既存の権力者や宗教家にとって、都合がよい、ということもあったのです。


 しかしながら、最近の状況を鑑みるに、人間の単純労働の多くは、機械やAIが代わりにやってくれるようになってきて、これからも「人間でなければできない単純労働」は、どんどん減っていくでしょう。
 技術的な面よりも、「機械より人間にやらせたほうが、コストが安い」という理由で「人間の仕事」になるケースは少なからずあるのだとしても。


 それでも、人間は機械を押しのけて、単純労働をするべきなのか?
現代の倫理観では、奴隷を使う、なんていうのは到底許されないことですが、ロボットやAIがアテネの奴隷の役割をしてくれるのであれば、それは人間にとって、悪いことでもなさそうなんですよね。


 ただ、人間の価値観というのはそう簡単には変わらないし、「働くことは尊い」と教えられてきた人々(そして、それを信じて、働き続けてきた人々)が、急に「転向」するのも難しいだろうとは思うのです。
 僕だって、「働けるのに、働かない人」をみると、「なんだかなあ」って考えてしまいます。
 それで、自分が直接迷惑をかけられているわけでもないのに。


 著者は、現代人の傾向について、こんなふうにおっしゃっています。

 問題なく働けて社会適応できている時には気付き難いことですが、私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。特に最近では、SNS等に写真付きで投稿できるような「何かをする」ことが重視される風潮も高まっていて、ひたすらゴロゴロして過ごした場合など、「何もしなかった」ことになって、後ろめたい気持ちにさいなまれたりします。何の「価値」も生み出さなかったのだから、ちっとも「有意義」でなかったことになってしまうわけです。
 また現代では特に「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜してしまっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっているのです。
 しかし、一方の「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまり、ひたすら主観的で庶民的な満足によって決まるのが「意味」なのです。


 これを、別の言い方で説明してみましょう。
「意義」とは、われわれの「頭」の損得勘定に関係しているものなのですが、他方の「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものであり、そこには「味わう」というニュアンスが込められています。


 著者は、現代人が「生きる意味」を問う際に、この「意義」と「意味」を混同し、「生きる意義」や「価値」にこだわってしまうことが、問題をややこしくしているのではないか、と考えているのです。


 「生きる意味」は自分の中に求めるものなのに、「生きる意義」は、他者がつくった価値観でしか測れない。
 でも、今の世の中で「自分じゃないとできないこと」って、そんなにあるものじゃないですよね。


 そんななかで、著者は「芸術」というものの重要性を説いているのです。

 このように、人が真に成熟していくこととは、すなわち芸術的な存在に向かって成熟していくことであり、これこそが、他の動物にはない人間ならではの豊かさです。
 したがって芸術というものは、多くの人が思い違いしているような、有っても無くてもよいような代物ではありません。人間の魂にとって、なくてはならないものなのです。いわんや、他人にひけらかすための「教養」でもないし、空虚な生活を飾り立てるための「アクセサリー」でもありません。つまり、芸術とは人間であるために「不可欠なもの」であって、決して「剰余として」身にまとうような贅沢品ではないのです。


 うーむ、このあたりに関しては、著者はアート好きなんだなあ、と思うのと同時に、「労働至上主義」と「アート至上主義」っていうのは、そんなに違わないのではないか、とも僕は考え込んでしまうのです。
 「絵とか小説なんて、めんどくさいし、わかんないよ」っていう人は少なからずいるし、そういう人たちが「仕事のあとの1杯の生ビールが生きがい」っていうのは、それはそれで観照生活ではなかろうか、とか、つい反発してしまうんですよね。


 ハンナ・アーレントだけではなく、エーリッヒ・フロムやヴィクトール・エミール・フランクルなど、さまざまな歴史上の「生きる意味を問い続けた人々の箴言」も紹介されていますし、なかなか読みごたえがある新書だと思います。
 「アートは人間にしかできない」というのは、いまのAIの進歩をみると、「過信」だという気もするのですが。

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