琥珀色の戯言

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【読書感想】ぐるぐる問答: 森見登美彦氏対談集 ☆☆☆

内容紹介
森見登美彦氏初の対談集!

10代、20代の読者に圧倒的な人気を誇る森見登美彦氏、初の対談集!
デビュー以降各雑誌に掲載された、いまやほとんど読むことの出来ない対談を一挙収録。
対談相手は劇団ひとり氏、本上まなみ氏、大江麻理子氏、萩尾望都氏、羽海野チカ氏、
うすた京介氏、綾辻行人氏、綿矢りさ氏、万城目学氏など14人。

十年前の森見登美彦氏と現在の森見登美彦氏が対談する小説「今昔対談」も特別収録。


 作家・森見登美彦さんの対談集。
 2006年からの10年間、14人との対談が収録されています。
 ひとりひとりの分量はそんなに多くないので、若干「食い足りない」感じはあるのですが、作家や漫画家など、創作をしている人との対談ばかりで(例外は大江麻理子さんくらいです)、お互いの創作論をあまり肩肘張らずに語っておられるのを興味深く読みました。
 森見さんは阿川佐和子さんのような「対談の名手」として、仕事として割りふられた相手から何かを引き出す、という感じではないし、それがこの対談集の「味」なのだと思います。
 もともと親交がある人、波長が合う人と、お茶でも飲みながら(お酒、じゃないんですよね森見さんの場合。綿矢りささんと飲みながらしみじみと「スランプ」について語りあって(愚痴りあって)いた、というような話を読むと、「それ聞いてみたい!」とか、考えてしまうのですが。


 脚本家・演出家の上田誠さんとの対談より。

森見登美彦小説は書いてて、すごく時間をかけて読んで欲しいところっていうのが出てくるんですよ。現実にはちょっとしか時間が流れていなくても、そこを掘り下げて、読んでる人の時間をコントロールしようとする。


上田誠なるほど。


森見:あと、小説って、沈黙とか空白が書けないんですよ。舞台の上で二人の人間が言葉に詰まって黙ってる。そのときの感じを小説で書こうとすると、間を何かで埋めなきゃいけないじゃないですか。
 そこで物理的に行間やページを空けたって、読んでる人がめくればそれで終わり。それに、空白はちょっと反則な感じがして、埋めていかなければいけないような気がするんですよ。そういうもどかしさは、小説固有のものだと思います。


上田:僕も芝居をやっていて面白く感じるのは、そういう時空間が作れるところですね。たとえば、人がめちゃくちゃに喧嘩しているシーンがあって、その流れで舞台である部屋の外に出ていって、一分ぐらい帰ってこない。すると、客席では部屋を見ているだけ、みたいな時間が劇場に流れるじゃないですか(笑)。


 本の読み方って、読む側がある程度好きに読めるじゃないですか。
 一気読みしたい人もいれば、少しずつ読みたい人もいる。
 途中で用事ができて、いいところなんだけどなあ、って言いながら、中団してしまうこともある。
 それは、本という媒体の気安さではあるのだけれど、送り手としては「時間をコントロールしにくい」という面もあるのですね。
 言われてみれば、そうだよなあ、と。


 羽海野チカさんは、「賞をとることもなく就職して、締切という責任がなかったら、こんなにがんばれなかったと思う」という森見さんに、こんな話をされています。

羽海野チカそうかなあ。もし就職して何十年書かないでいたとしても、きっとまた書いたと思うな。だって私がそうだったから。


森見:そうなんですか。


羽海野:うん。私、マンガ家になったのがとても遅かったのです。十七歳の時に一回投稿して、それからぴたっと描けなかったんです。会社に入ったら、会社が楽しくなって、がんばればがんばるほど責任も重くなってしまって。


森見:それって、でもいいことですよね。


羽海野:いいこと、なんですけどね。投稿した時に「絵はいいけど、お話がね」って言われて。若かったからショックで「自分みたいなつまらない人間にはお話なんて書けないんだ……」って。キャラクタ—グッズの会社に入って、もういい、ここで可愛いクマやウサギを精一杯描いていこうって、そう思っていたんですけど……その後、独立してフリーで仕事をしながら必死にがんばっていたのですが、ある日「でも……やっぱりマンガが描きたい!」って。なんか涙が止まらなくなっちゃったんです。普通に暮らしてはいるんですけど、このまま“あの時、挑戦しておけばよかったなあ”って思いながら年とって死ぬのかなあって思ったら、もう息ができないような気持ちになって。それで描いたのが『ハチクロハチミツとクローバー)』でした。


羽海野さんが「マンガ家」になるまでに、こんな逡巡があったというのを僕はこれを読んではじめて知りました。
 もちろんこれは「結果的にうまくいった人」の話ではあるのかもしれないけれど、「挑戦しなければ、人生は開けない」と読むべきなのか、「描くべき人は、まわりみちをすることになっても、結局描かずにはいられないのだ」と考えるべきなのか。
 ただ、そういう経験は、いまの羽海野さんの作品には、たしかに「活かされている」ように感じるのです。


 この対談本の巻末には、「十年前の森見登美彦」と「現在の森見登見彦」の架空対談が掲載されています。
 森見節全開、という内容なのですが、そのなかに、こんな一節があるのです。

<今> 一つだけ確実なことを教えると、君の大学院の研究は無理だよ。


<昔> いらんことを言わんでください。せっかく人がやる気になっているのに。


<今> 君は大学院で竹の研究をしているだろう。しかしいずれ気づくのだよ、君が好きなのは竹林に佇むことであって、生化学的に竹の謎を解き明かしたいわけではない。謎は謎のままであらしめよ、だ。君はまったく研究というものに向いてない。頭脳の緻密さというものがまるで足りない。それに実験が大嫌いだろ。生化学をやろうと言っている人間が実験嫌いでどうする。


 ああ、これがまさに「研究者に憧れていた僕が、実際は研究者にまったく向いていなかった理由」なんだよな……と嘆息しながら読みました。


 森見登見彦さんのファンなら、あるいは、創作というものに興味がある人なら、楽しめる対談集だと思いますよ。


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