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【読書感想】ギリシア人の物語III 新しき力 ☆☆☆☆☆

ギリシア人の物語III 新しき力

ギリシア人の物語III 新しき力


Kindle版もあります(が、発売は2018年4月です)

ギリシア人の物語III 新しき力

ギリシア人の物語III 新しき力

内容(「BOOK」データベースより)
夢見るように、炎のように―永遠の青春を駆け抜けたアレクサンダー大王。32年の短くも烈しい生涯に肉薄した、塩野七生最後の歴史長編。


fujipon.hatenadiary.com
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 『I』ではペルシア戦争、『II』では、ペリクレス時代が主に描かれていた『ギリシア人の物語』。いずれも読みごたえ抜群だったのですが、この『III』で完結します。
 この『ギリシア人の物語III』が、塩野七生さんの最後の歴史長編となるそうです。
 その主役がアレクサンダー大王だというのは、最初から決めていたのか、結果的にそうなったのか。
 読んでみると、むしろ、塩野さんがこの人類史上最高の「英雄」について、これまで書いていなかったというのが意外にも感じられます。

 そして、考えてほしい。
 なぜ、彼だけが後の人々から、「大王」と呼ばれるようになったのか。


 他にもいるのでは……カメハメハ大王とか。
 すみません、揚げ足とって。
 あらためて考えてみると、アレキサンダーのあとにつくのは「大王」で、アレキサンダー「王」と呼ばれることはないですよね。
 それは、いったいなぜなのか?
 この本を読んで、その理由の一端がわかったような気がしたのです。
 アレキサンダー大王は、ギリシア後進国とされていたマケドニアから、ギリシア、そしてペルシア、エジプトを制服してインドにまで至り、広大な地域を支配したのですが、その業績とともに、その人柄もきわめて「英雄的」な人物だったのです。 
 もちろん、道義的に良いことばかりをしたわけではなくて、裏切った都市国家の人々をすべて奴隷にしてしまい、街を破壊し尽くして更地にしてしまった、という事例もありますし、その民族融和政策(ギリシア人の兵士とペルシアの女性たち1万人の合同結婚式を行うなど)も、必ずしもうまくいったものばかりではありません。
 アレクサンダー大王は、その失敗も含めて、とにかく「先を見据えて行動し、失敗することがあっても、そこで立ち止まらずに善処していった人」だったのです。
 会戦では誰よりも先に愛馬ブケファロスを駆って敵陣に切り込んでいく勇気とともに、兵士たちを休ませることと飢えさせないことにも心をくだいていました。
 そして、軍勢は数ではなく、指揮系統がうまく機能し、士気を保つことが大事であると知っていたのです。
 父王フィリッポス2世(ということであれば、その息子はアレクサンドロス大王とすべきではないか、とも思うのですが、僕にとっては「アレキサンダー」のほうが耳慣れているので、ここでは「アレキサンダー」で通します。塩野さんは「アレクサンドロス」と書いておられるのですが、本のオビには大きく「アレキサンダー大王」とあって、このあたりの名前の表記というのは難しいところがありますね)が暗殺された後を受けて即位したアレキサンダー大王なのですが、この親子はともに優れたリーダーであり、お互いの能力を認め合いつつも、顔を合わせると衝突する、という関係だったようです。

 フィリッポス二世の死だが、46歳で世を去ったのには同情しても、なぜか、残念という想いにはならない。
 この時期に退場したのが、息子にとって良かっただけでなく、父親にとっても良かったと思うのだ。
 これ以上生きていたとしても、この父と息子はいずれ、正面から激突していただろう。
 それが避けられたのは、父と子にとって幸いだっただけでなく、ギリシア全体にとっても幸いだったと思う。
 有力者の間でのバトンタッチは、両人ともの能力が高ければ高いほど、実にむずかしいバトンタッチになる。


 たしかに、塩野さんの筆でアレクサンダー大王の事績をたどっていくと、もしフィリッポス二世がずっと健在であったなら、いずれは両者が争い、お互いに無傷ではいられなかったでしょう。
 アレキサンダー大王は、王の後継者という立場に、ずっとおさまっていられる器ではなかった。
 そして、20歳で即位し、32歳で亡くなったからこそ、アレクサンダー大王の人生は、後世の人にとっての瑞々しさを失わなかったのです。
 どんな偉大な王や権力者でも、年齢とともに保守的になったり、猜疑心が強くなったり、後継者に頭を悩ませたりしてしまうものだから。
 

 アレクサンダー大王は、けっして「戦争に強い」だけの人ではなかったことを塩野さんは繰り返し述べています。
 その戦功があまりにも大きいために、軍事的才能がクローズアップされることが多いのですが、他の面でも、好奇心旺盛で、先進的な考えを持った人でした。
 それが、周囲の人には「この人にはついていけない」と思わせるところはあったとしても。

 そのうえ、この21歳は、遠征に連れて行く軍事要員以外の人々の人選でも、当時の常識を超えていたのである。彼らは、次のようなグループに分けられていた。
 第一グループ——これって映画撮影時のスクリプターですね、と言うしかない記録者たちで成る一団。彼らの任務は、アレクサンドロスの後に従って行って何であろうが記録に残すこと。
 第二グループ——通訳要員の一団。
 ペルシア語が堪能なギリシア人で成るグループだが、この男たちの役割はペルシア側との交渉時の通訳だけでなく、捕虜の尋問にも欠かせなかった。
 アレクサンドロスは、先のテミストクレス、後のローマ人のカエサルに似て、捕えた捕虜の尋問を自分で行うことが多かった。わかる人間が問いただしてこそ真に役立つ情報を引き出すことができる、と思っていたのかもしれない。
 第三グループ——技師たちの集団。
 アレクサンドロスは、新しい技術の導入にも熱心であったリーダーである。運搬時には分解でき、組み立てれば戦場での移動も可能な各種の攻城器を開発している。これらはすべて、ローマ時代になって改良され、ヨーロッパでは中世になっても活用されたものの原型になった。
 第四グループ——医師たちの集団。
 これらの医師たちは、王のための侍医だけではなく、まるで野戦病院そのものを同行するぐらいの規模になる。連れていける兵力は三万五千にすぎないのだから、人道的立場からというよりその活用のために、兵士たちへの”メンテナンス”は絶対に必要であった。


 アレクサンドロスの東征には、地理や歴史や動植物を始めとする多くの分野の専門家たちも同行している。あらゆる事象に関心を向けていた、師のアリストテレスの影響かと思う。


 アレキサンダー大王は、歴史のなかでの自分とギリシアを意識して生きていた人だったように覆われます。
 僕は基本的に、人間の能力にそこまでの差異はない、と考えているのですが、アレキサンダー大王は「超人」だとしか思えません。ただし、これは才能だけではなく、父王による厳しい修練の効果でもあるのですが。

 

 ハンニバルスキピオカエサルも、しばしば自軍の最前線にまで出て指揮を執っている。カエサルに至っては、彼だけが風になびく紅の大マントをつけるという、味方にもわかるが敵にもわかるというリスクを冒して指揮するのが常だった。
 それでもなお、彼ら自らが「ダイヤの切っ先」(騎馬軍団が菱形の陣形で突撃していく際の先頭)になったことは一度としてなかったし、この戦術を試みたこともなかったのである。
 とは言っても、ときには敗北を経験したことのあるこの三人に比べて、アレクサンドロスだけは最後まで、連戦連勝で行くのだ。
 それは、「カイロネイア」「グラニコス」「イッソス」、そしてこの「ガウガメラ」と、会戦方式の戦闘では常に、アレクサンドロスが「ダイヤの切っ先」になってきたからであった。
 つまり、最大のリスクは、彼自身が負ってきたことになる。その事実に、彼の下で闘う司令官や指揮官たちが無関心でいられたはずはない。
 実際、年長者は渋い顔で、同世代は熱をこめて、年下の者は涙まで流しながら、それでも全員で、これ以上は「ダイヤの切っ先」だけはやめてくれ、あなたの安全は、われわれ全員の安全でもあるのだから、と言って懇願したのである。
 これにはアレクサンドロスも心を動かされたのか、懇願する部下の一人一人を常以上の親愛の情をこめて抱擁したが、それでも彼の考えははっきりと言った。
「きみたちはわたしにとって、誰よりも忠実で誰よりも献身的な部下であるだけでなく、誰よりも信頼の置ける友人たちである。そのきみたちへのわたしの感謝の想いは、言葉につくせないほどに大きい。
 それも、単に暖かい同情の念だけでなく、この戦争が始まって以来、きみたちはわたしへの愛情を、明確な実績によっても示してくれたのだ。
 告白するが、そういうきみたちに囲まれてここまできたわたしは、かつてこれほど自らの人生を愛したことはなかったと思うほどである。
 しかし、これほどもわたしを幸せにしてくれるきみたちの熱い想いも、わたしが示してきた勇気があったからこそ、生れた感情であることも事実だろう」
 ローマ時代になってアレクサンドロス伝を書いたクルティウス・ルフスは、この言葉が、重だった人々を前にして言われた、としか書いていない。兵士たちに向って言われた、とは書いていない。
 しかし、アレクサンドロスほど、将と兵を差別しなかったトップもいなかった。これもあって、彼ほど、兵士たちから愛された最高司令官もいなかったのである。
 それは彼が、戦場では常に戦闘に立ち、他の誰よりも大きなリスクに身をさらしながら闘ったからである。
 そして、アレクサンドロスの象徴のようになっていた兜の上で風になびく白い羽根飾りを見ながら、将だけでなく一介の兵士までが、その王につづこう、という一心で闘ったからである。

 
 アレクサンドロスの考えるリーダーとは、部下たちの模範にならねばならない存在であり、率先してリスクを冒している様を見せることで、彼らが自分たちのモデルと納得する存在でなければならなかったのだ。
 だからこそ、司令官や指揮官たちに向って、「それほどもきみたちがわたしを愛してくれるのも、わたしがこれまでに示してきた勇気があったからではないか」と言えたのである。
 要するに、今後も「ダイヤの切っ先」をやりつづけるのは変えない、という意志は明らかにしたのであった。


 アレキサンダー大王には、幸運もありました。
 この巻には、ギリシアのポリスの中で一時期覇権を握ったテーベのことも書かれているのですが、テーベの名将・エパミノンダスは会戦に勝利しながらも、流れ槍にあたって絶命し、以後、テーベは凋落していったのです。
 アレキサンダー大王自身にも、会戦のなかで突出しすぎて孤立し、生命の危機にさらされる場面が出てきます。
 もし、そのとき命を落としていたら、歴史は大きく変わっていたはずです。
 あるいは、会戦のたびに、大軍を擁しながらすぐに逃げ出してしまうペルシア王ダリウスが、もう少し我慢強ければ……塩野さんは、ダリウスが戦場で踏ん張っても、時間はかかったかもしれないが、結果は同じだっただろう、と仰っていますが。

 
 この話を読むと、アレクサンダー大王は単に勇気があっただけではなくて、「人を動かすには、まず自分が見本にならなければならない」と意識してふるまっていたことがわかります。
 もし兵士たちの言葉にアレクサンダーが従っていたら、いずれ、「大王は安全な場所にいながら、兵士たちを危険にさらしている」という批判も出てくるでしょう。
 人の心は「客観的にみて、正しい戦略・戦術」だけでは動かない。
 人は、人についてくる。
 それを、アレクサンダー大王は知っていたのです。


 人類史上最強のリーダーだった、アレクサンダー大王
 読みながら、僕は20歳から32歳までのあいだ、何をやっていたんだろうな、なんて考えてしまいました。
 

 このシリーズを読むと、『ローマ人の物語』を最初から読みなおしてみたくなりますね。
 塩野さんの歴史長編はこれで最後とのことですが、これまでの著作をこうして繰り返して読めば、この先、読むものに困らないな、とか、まだ未読のものを読まなくては、と思っています。


ギリシア人の物語II 民主政の成熟と崩壊

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