琥珀色の戯言

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【読書感想】されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
41歳で脳梗塞に倒れたものの、懸命なリハビリの末に現場復帰したルポライター。その闘病生活を支えた「お妻様」、実は「大人の発達障害さん」なのでした。「家事力ゼロだったお妻様」と、高次脳機能障害となった夫が、悪戦苦闘しつつ「超動けるお妻様」と「妻を理解できる夫」になるまでの、笑いあり涙ありの18年間を辿ります。


 2015年の初夏、41歳の若さで脳梗塞を発症したこの本の著者、鈴木大介さん。
 闘病のなかで、鈴木さんは、取材してきた「あたりまえのことがうまくできない人々」と、脳梗塞後の「高次脳障害」の共通しているところを見出しておられます。


fujipon.hatenadiary.com


 この『脳が壊れた」という新書のなかで、奥様のことに触れられていて、なれそめや向き合い方が、とても印象的だったんですよね。

 確かに妻は家事が得意なタイプの女性ではない。なにをするにしても手際が悪いのはお義母さんからの遺伝で、お義母さんは食卓に盛りつけた揚げ物を出してから「あらお味噌汁がないわ」とか「ご飯がちょっと足りないから少し炊き足すわね」と言っては台所でバタバタやり出すタイプ(とはいえ圧倒的活動量があるので家事は結構完璧)。
 要するに物事に優先順位を付けるのが苦手で、妻の場合はこれに病的な注意欠陥が加わり、何か作業をしている間に他に目につく物があると、そちらに関心が移ってしまい、いつまでたっても当初の作業が完遂しない。
 たとえば食事ひとつ取っても、テレビで面白い番組があれば、その番組が終わってからようやく本格的に箸が動き出す。面倒を見ている庭の猫が来訪すれば、食事を放り出して餌やりに出てしまう。
 そんなこんなで、ヘタをすると一食に一時間以上、僕はと言えば、妻が食事を食べ終わらなければいつまでたっても食卓が片付かないし、次の食事を何時に作ればいいのかも決まらず、あああ、書いているだけで血圧が上がってきた。


 この本は、その奥様(著者は「お妻様」と呼んでいるので、以後はそれに従います)の「大人の発達障害」、そして、5年生存率が10%以下と宣告されたお妻様の脳腫瘍や著者自身の脳梗塞、それらのなかで、「世間の平均からは、ちょっと外れているふたり」が、どんなふうに生きてきたのかが飾り気少なく描かれています。

 テレビを見ながら食事などしているのを観察すれば、まず第一に視線はテレビで箸の先を見ていない。一度箸にとった物を口に運ぶ途中で手が止まり、途中で力が抜けて食べ物を落とす。そんな繰り返しで、1時間以上かけて「おかず一品のみ」ということもある。一品のみなのは、他の皿の存在に「気づかない」からで、ご馳走様してから「あ、まだ一品あった」なんてことはざらだ。別にうちの食卓は貴族のテーブルみたいに端っこから端っこまで何メートルもあるわけじゃないけど、お妻様はその机の上の物を目前にしながら見失い、見落とす。
 逆にスイッチが入って何かに集中すると、時間の感覚を喪失するようで、1000ピースもある糞面倒くさそうなジグソーパズルを半日で仕上げたりもする。このスイッチがだいたい夜中に入るものだから、寝るのはたいがい夜明け間近ということに……。
 自発的に行う家事と言えば、猫の世話のみ。入れてやらなければ風呂にも入らない(体臭がほとんどゼロなのでそれでもスッキリした顔をしているのがまた腹立つ)、食べさせないと野菜絶対食べない。こちらが無視していてもひたすらなにか(猫とかクモとかカマキリとか金魚とか窓にひっついたヤモリとか)と話しているし、連れ出さなければ一歩も自宅を出ないし、率先して家事はやらないくせに10年来ほぼ無職の無収入で、平然と「働いたら負けでごじゃる」とか言いやがる。


 正直、僕は「お妻様」の生きざまを読みながら、思わずニヤニヤしてしまいました。すごいなこの人、まるでマンガの主人公みたいだ……なんだか見ていて飽きない感じもするし……

 しかしながら、あらためて考えてみると、音楽の才能を持たない『のだめ』(漫画『のだめカンタービレ』の主人公)みたいな人と20年近く一緒に生活をするというのは、とてつもないことですよね。

 著者もそこで「自分は彼女を温かく見守り、支え続けた」なんて綺麗ごとは書いていないのです。
 「そういう人」だとはわかっていても、イライラすることはあるし、なんで自分が外での仕事も家事もしなければならないのか、と腹を立てることもある。
 というか、この本を読んでいると、著者もまた「物事を効率化することに生きがいを感じるめんどくさがりや」なところがあって、お互いの足りないところを補完できた、というのもあったのだろうなあ。
 できないことをサポートしあうためには、どちらかができるというのが大前提なわけで。
 これを読んでいると、もしかしたら、自分たちは、やらなくてもいいこと、誰も求めていないことを自分で「やらなくてはならない」と信じ込んで、自分を追い詰め、周囲に苛立ちをぶつけているのかな、と気づかされます。

 物好きが高じて古いバイクでの参戦だから、アパートの階段から居間や台所の隅っこまで、最大時で7本のストックエンジンが置かれ、それでも足りずに近所のコンテナ倉庫を借りて予備フレームやら練習用車両など突っ込む始末だった。
 お妻様も「あんたが趣味に生きるならあたしも自由にする」とばかりに、人形の服作りに加えて熱帯魚飼育という新趣味を追加。たった1年で居間の壁際に13本の水槽が並ぶ水族館状態を作り上げてしまうのだった。


 病気の話も出てきますし、現実はもっと殺伐としていたのかもしれませんが、読んでいると、けっこう楽しそうでもあるんですよね、このふたり。なんのかんの言っても、一緒に行動していることが多いし。
 そういう「ものすごく切実なんだけれど、思わず笑ってしまうような場面」も書かれているおかげで、すごく読みやすくなっているのです。


 脳梗塞のあと、高次脳障害で、著者は「日常にうまく適応できなくなってしまった自分」に直面することになります。
 そんなときに、お妻様は、文字通り「寄り添ってくれた」のです。

「お妻様、さっきレジでね。超意味わからんくなった。俺、小銭数えらんない。ヤバい」
「札で出せたんだらいいじゃん。あたしも焦るとよくやるよ?」
 そうか、だから貴様に財布を渡すとやたらめったら小銭で分厚くなって返ってくるのか。
「まあそうなんだけど。でも俺、これ知ってるんだよ。俺が取材してきた人たちって、結構鬱とかパニックとかのメンヘラさん多かったでしょ。発達障害の人多かったでしょ。レジでパニック起こして俺の前で泣き出しちゃった人とかいたし、コンビニで店員さん怒鳴りつけたりする人いた。小銭が数えられなくなった自分に絶望したって話、今まで何度も聞いてきたよ?」(興奮気味)
「大ちゃん、ゆっくり」
「ゆっくりしてたらレジの人待たせちゃうじゃん」
「じゃなくて、ゆっくり話せ」
 情緒の抑制が利かず、呂律回らないくせに早口で噛み噛みにどもりながら話す僕を制御するお妻様。だがこのほとばしる感情と言葉もまた、既視感のあるものだ。
「お妻様、言葉が止まらないよ。考えたこと全部口に出て、窒息しそうになる。上手く話せないのに、止まらなくて、めちゃ苦しいけど。でもこういう話し方する人たちも、取材でいっぱい見てきたよ。大体空気読めないってハブられてた。いるじゃん、オタとかバンギャちゃんとかで自分話止まんなくなって浮きまくってる子。いま俺、スゲーそんな感じ。お妻様も昔のアニメの話とかするとそういうキモい感じになるときあるよね」
「はいはいわかったから、キモい言うな馬鹿」
 訳のわからない興奮状態にある僕をなだめると、お妻様はこう言ったのだった。
「ようやくあたし(ら)の気持ちがわかったか」


 これをきっかけに、著者は、「原因が脳梗塞であれ脳外傷であれ、鬱病であれその他の精神疾患であれ、発達障害であれ、脳の問題を起因とする障害を持つ者ができないことや不自由さ、苦しみを感じるところには共通点があるのではないか」と考えるようになったそうです。


 著者は、自らの病気を契機に、発想の転換をはかります。
 「できないことをがんばってやらせようとする」のではなく、「できること、得意なことをやってもらう」「一度に多くのことを頼むのではなく、シンプルなお願いをひとつひとつ積み重ねるようにする」「集中しやすいような環境を整えておく」
 お妻様は、元気なときの著者が音を上げてしまうような単純作業をずっと集中して続けられるのだそうです。
 料理でも、一種類のおかずを作る、というような、切って、測って、煮て、焼いて、などの手順があるものは得意ではないけれど、著者が料理をしながら、食材を冷蔵庫から出してきて、皮をむき、解凍して……と、ひとつひとつ指示を出すと、その通りに動いてくれるのだとか。それによって、他の食材や器に触るために手を洗ったり、移動したり、というのが省けるだけで、家事はかなり楽になった、と著者は仰っています。
 お妻様も、家事をやるのが嫌なわけではなくて、うまくできないのと、それで責められるのがつらいだけだったのです。

 もちろん我が家の形がベストだとは思わない。けれど、2年以上をかけて家庭の環境や夫婦の役割を改革してきた中で、改めてたどり着いた視座がある。
 それが、「不自由を障害にするのは環境」だということだ。


(中略)


 それにしても「脳が不自由」というのは、周囲から見てその不自由がわかりづらい。
「なんで早歩きしないの? 足がないとか怪我しているならまだしも、あなた両足ついてて普通に歩けてるじゃない。不自由には見えないよ?」
 見えない不自由を抱えた人たちに、やろうとしてもできないことを強いる。そんな周囲の無理解が、一層当事者の不自由を苦しみ=障害にしてしまうのは、あまりに残酷なことだ。
 環境が不自由を障害にする。これは様々な障害支援の現場では普遍的に言及されている考え方だが、僕は自身が当事者になって、ようやく心底その意味を理解することができた。
 我が家の場合は、僕自身が不自由を抱えることで、僕がかつてお妻様がやりたくてもできなかったことを叱責し続け、お妻様の抱えた不自由を障害にしてしまっていた過去にようやく気づいた。そして「不自由の先輩」であるお妻様は、僕が抱えた不自由によって大きくつまづく前に支え、障害よりは受容の境地にソフトランディングさせてくれたのだ。


 この本を読む前は、「とはいえ、特殊なカップルの例なんだろうけどさ」と思っていたんですよ。
 でも、読んでいるうちに、むしろ、「普通のはずなのに、うまくいかない人々」にこそ、この本は読まれるべきなのではないか、と感じたのです。
 この本には、人と人が支えあっていくための「糸口」みたいなものが詰まっている。
 「できるはずなのに、なぜやらないのか、できないのか」というプレッシャーをかけあって生きている人は、本当に大勢いるから。
 他人事のように書きましたが、僕もそうなのです。


 これを読んでいて、先日の第158回芥川賞の選評で、川上弘美さんが書いておられた文章を思い出しました。

 普遍的、という言葉の意味を広辞苑で調べると、「ある範囲におけるすべてのものにあてはまるさま」とあります。芥川賞の候補を読んでいて、「この作者は、すべてにあてはまるさまを表現しようとしているな」と感じることは、めったにありません。その逆、「孤である存在にあてはまる非常に独特なさま」を描こうとしている作者がほとんどであるような気がします。ところが、そんなにも、いわば「何にも誰にも当てはまらなさそうなこと」を描いているにもかかわらず、いったいどうしてなのだろう、その小説の中に「普遍」というものがあらわれてしまうことがあって、そんな作品が出現した時には、たいがい芥川賞を受賞するような気がします。


 まさに、「特殊な状況を描いているはずなのに、『普遍』があらわれてしまった」のが、この本であり、鈴木さん夫妻なのではないかと僕は思います。
 「家族」という言葉を口にするときに、一瞬ためらってしまう、そんな人たちに、ぜひ読んでみていただきたい。


ギャングース(1) (モーニングコミックス)

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