琥珀色の戯言

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【読書感想】友だち幻想 ――人と人の〈つながり〉を考える ☆☆☆☆

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)


Kindle版もあります。

内容紹介
友だちは何よりも大切。でも、なぜこんなに友だちとの関係で傷つき、悩むのだろう。人と人との距離感覚をみがいて、上手に“つながり”を築けるようになるための本。「みんな仲良く」という理念、「私を丸ごと受け入れてくれる人がきっといる」という幻想の中に真の親しさは得られない。人間関係を根本から見直す、実用的社会学の本。


 この新書、2008年に「人間関係で初めてつまずきを感じる多感な年頃の中・高校生に向けて書いたもの」なのだそうです。
 書かれてから10年経つのですが、2017年6月に朝日新聞で紹介されたり、2018年4月に又吉直樹さんが『世界一受けたい授業』で採り上げたりしたことにより、いま、ものすごく売れているみたいなんですよ。
 10年前も今も「人間関係」の悩みは尽きない、ということなのでしょう。
 1980年代も、子供だった僕は「他人とうまくやっていけない」ということで悩んでいたし。
 薄くて字も大きくて読みやすいし、今、悩んでいる子供たちは、一度は手にとってみてほしい。
 それと同時に、「あの頃」のことを忘れてしまいがちな大人たちも、一度読んでみると良いのではないかと思います。

 人と人との<つながり>の問題を考える最初の出発点として、人は本当に一人では生きられないのか、それとも、まあそれなりに生きていけるのかといった問いを立ててみましょう。
 かつての日本には「ムラ社会」という言葉でよく表現されるような地域共同体が存在していました。「ご近所の人の顔と名前はぜんぶわかる」といった集落がそれですね。これは、何も地方の農村や漁村だけに限ったことでなく、東京のような都会にだってあったのです。『ALWAYS 三丁目の夕日』――映画ですから描き方にはフィクションの要素も多分に入っているとはいえ――のように、近所に住む住人同士の関係が非常に濃密な「ご町内」が、昭和40年くらいまでの日本には確かにありました。
 そんな「ムラ社会」が確固として存在した昔であれば、これは明らかに「一人では生きていけない」ということは厳然とした事実でした。
 なにより、食料や衣類をはじめ、生活に必要な物質を調達するためにも、仕事に就くにしても、いろいろな人たちの手を借りなければいけなかったからです。こうした、物理的に一人では生活できない時代は長く続きました。だから村の交際から締め出されてしまう「村八分」というペナルティは、わりと最近まで死活問題だったわけです。
 ところが近代社会になってきて、貨幣(=お金)というものが、より生活を媒介する手段として浸透していくと、極端な話お金さえあれば、生きるために必要なサービスはだいたい享受できるようになりました。
 とりわけ、今はコンビニなど二十四時間営業の店も増え、思い立った時にいつでも生活必需品は手に入れられるし、ネットショッピングと宅配を使えば、部屋から一歩も出ずにあらゆるサービスを受けることも可能になっています。働くにしても、仕事の種類によってはメールとファックスで全部済んでしまう場合だってあります。
 このように、一人で生きていても昔のように困ることはありません。生き方としては、「誰にも付き合わず、一人で生きる」ことも選択可能なのです。
 ある意味で、「人は一人では生きていけない」というこれまでの前提がもはや成立しない状況は現実には生じているといえるのです。


 この本を読んでいると、著者の思い切りのよさというか、理想は理想として、それを追い求めすぎるべきではない、という考え方に、もう大人になってしまった僕も安心するのです。
 ネットを利用して「ゆるいつながりで生きる」というのは、まさに、この本に書かれているようなことなのでしょう。


 人は「物理的には」、お金があれば、一人でも生きていける時代になった、という現実認識にもとづいて、この本は書かれているのです。
 それでもやっぱり、一人じゃさびしい、と多くの人が思うんですよね。
 まあ、それも、これまでの人間の習性の名残みたいなものかもしれませんが。


 著者は、いまの時代の人と人の距離感をあらためて見つめなおし、気の合わない人とでも一緒にいる作法をきちんと考えたほうがよいと思う、と述べています。
 「仲良くする」ではなく「一緒にいる作法」というのが、ポイントなんですよ。

 学校というのは、とにかく「みんな仲良く」で、「いつも心が触れ合って、みんなで一つだ」という、まさにここで私は「幻想」という言葉を使ってみたいのですが、「一年生になったら」という歌に象徴されるような「友だち幻想」というものが強調される場所のような気がします。けれど私たちはそろそろ、そうした発想から解放されなければならないと思っているのです。
 私が言いたいことは、「子どもたちが誰でも友だちになれて、誰でも仲良くなれる」ということを前提としたクラス運営・学校経営は、やはり考え直したほうがいいのではないでしょうかということです。
 私は教育大学に勤めていますので、仕事柄、小中学校の校長先生や先生方とお話しをする機会も多いのですが、非常に人格がすぐれていたり、リーダーシップもある先生、教育現場で力を発揮していると定評のある先生ですら、というよりもだからこそかもしれませんが、やはり「子どもたちというのはみんな良い子たちだから、教師がサポートさえすれば、みんな一緒に仲良くできるはず」という前提で頑張っているようなのです。
 どの学校でも、やはり「いじめゼロ」を目指しています。そのためのプランを伺うと、「それにはみんなで一つになって」とか、「人格教育に力を入れて、心豊かな子どもたちを育てたい」「みんなで心を通い合わせるような、そんな豊かなクラスを作っていきたいと思っているんです」と熱く語られます。でも、私はちょっとひねくれた人間ですから、「それは理想だろうし、努力目標として高く掲げるのはまあいいのかもしれないけれども、そういうスローガンだけでは、逆に子供たちを追い詰めることにならないかな」と、どうしても思ってしまうのです。


 あまりにも現実とは異なる高い理想があって、それを実現しなければならない、となると、現場には、ウソの報告や表面をとりつくろって、うまくいっているように見せる行為が蔓延してくるのです。太平洋戦争の「大本営発表」のように。
 「いじめゼロ」は目標としては当たり前なのだけれど、「ゼロでなければならない」ということになると、先生たちは自分の立場を守るために、起こっていることを「あれは、いじめじゃありません」と言い張ったり、隠してしまうようになります。
 大人だって、いじめをやっているし、気の合わない人がいる。
 だとしたら、それが存在することを前提として、気が合わない人たちが、お互いに衝突しないようにうまく棲み分けていくべきではないのか、と著者は考えているのです。
 言われてみれば、本当に「当たり前のこと」なんですよね。
 でも、それを言ってはいけない雰囲気が、教育の現場には、ずっとあるのです。

 さて、この点をもう一度確認しておきましょう。「自分のことを百パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいて、いつかきっと出会えるはずだ」という考えは、はっきり言って幻想です。
「自分というものをすべて受け入れてくれる友だち」というのは幻想なんだという、どこか醒めた意識は必要です。でもそれは他者に対して不信感を持つことと決してイコールではないということは、ここまで読んでくれた皆さんになら、きっと理解していただけるはずですね。
 価値観が百パーセント共有できるのだとしたら、それはもはや他者ではありません。自分そのものか、自分の<分身>か何かです。思っていることや感じていることが百パーセントぴったり一致していると思って向き合っているのは、相手ではなく自分の作った幻想にすぎないのかもしれません。つまり相手の個別的な人格をまったく見ていないことになるのかもしれないのです。
 きちんと向き合えていない以上、関係もある程度以上には深まっていかないし、「付き合っていても、何かさびしい」と感じるのも無理もないことです。
 過剰な期待を持つのはやめて、人はどんなに親しくなっても他者なんだということを意識した上での信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです。


 率直に言うと、今まさに人間関係が世界のすべてのような状況にさらされている中高生には、「そんなこと言われても、とにかく今、自分はつらいんだ、このつらさをなんとかしてくれ」という内容かもしれません。おぼれている人に「泳ぎ方の入門書」を投げても役には立たない。
 でも、子供を見守る立場の親や先生が、自分の昔のことを忘れて、理想主義を押し付けてしまうのを予防するためには、すごく有用な本だと思います。


かがみの孤城

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