琥珀色の戯言

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【読書感想】ニッポンの奇祭 ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
カメラマン・小林紀晴が撮る、日本全国の奇祭。
長野御柱祭の地で生まれ育った著者は、土着的な要素を感じる「奇祭」に惹かれ、全国を旅する。
祭りの時にだけ顔を見せるかつての人の想い。カメラのファインダー越しに感じる古の神々。本来、撮れるはずのないものたち。
遠い過去の日本人を目撃する異色の写真紀行。


 日本には、まだまだいろんな「祭り」があるのだなあ。
 休日に車を運転していると、地元の小さな祭りに遭遇することがあります。神輿のまわりに子供たちがいて、なんとなく所在なさげにしている様子をみると、休日に駆り出されて、ちょっとかわいそうだなあ、なんて思うんですよね。
 父親の異動がけっこうあって、地元を持たない僕にとっては、小学生時代に暮らした土地の大きなお祭りで、地元の子供たちに、明らかに「よそ者」扱いされるのが、すごく嫌だったのです。
 祭りなんて、学校が休みになって、小遣いをもらえるのは良いけど、人がやたらと多いし、うるさいし……
 

 そんな僕も、この年齢になると、昔からの祭りというのも、地元の人たちが喜んでいるのなら、それはそれで良いものなのだろうな、と思うようになったのです。
 「同じ土地に住んでいる、よそ者」ではなくて、純粋な観光客として体験するのなら、そんなに悪いものでもない。
 

 著者は長野県諏訪市出身だそうです。

 私は再び目を開ける。中学一年生のときに目にしたものとほとんど変わらない光景が目の前に広がっている。すると生まれた年の春、小学校に入学した春、高校を卒業して上京する数日前の山出し……と、過去の御柱祭の記憶が結びつき、つながっていく。
 御柱祭は私にとって節目ごとにやってきた。だから過去の記憶を遡るとき、自然と御柱祭と御社祭を軸に考えることになる。さらには父の、祖父の、祖母の、祭りの記憶とも結びつき、見知らぬ遠い過去と、遠い未来を同時に見ているような不思議な気持ちに包まれる。


 こういう文章を読んでいると、僕の「祭り嫌い」は、羨ましさと表裏一体なのかな、とも思うのですが。
 地元の祭りというのは、年に一度、「自分を定点観測できる時間」なのかもしれません。


 著者は、洗練され、大規模になって多くの観光客を集める祭りよりも、土着の、地元の人々が細々と受けついできた祭りを多く取材しています。
 僕はこれをスマートフォンで読んでいたのですが、写真を愉しむためには、もう少し大きな画面で観るか、紙の本を手にとるべきだった、と感じました。
 

 こういう地元の人たちが受け継いでいた「奇祭」のなかにも、メディアやネットの発達で、あるいは、地域振興の一策として、知られるようになったものが出てきました。


 沖縄県宮古島パーントゥというお祭りを取材したときの話。

 宮古島在住だという私と同じ年くらいの方に「東京から来ました」と言うと、心底驚かれた。
「わざわざ、このために?」
「はい」
 数日前まで日程がわからず、苦労したことを私は話した。
「どうして、そんなに直前までわからないのですか?」
「そういうこともあるよ……」
 要領を得なかったが、しばらく話しているあいだに次第にわかってきた。パーントゥはここ数年、マスコミなどに紹介されて観光客が急に来るようになったという。数年前には大型バスで乗り付けた団体観光客がいたらしい。パーントゥは全身に草を編んだものを身につけ、そこに泥を塗りたくったなんとも奇怪な姿をしていて、目の前にいる者には誰彼かまわず、泥をつけていく。もちろん観光客にも容赦ない。それゆえに観光客トラブルが起きたという。服を汚された観光客が、どうしてくれるんだ!」と苦情を言う事態になったらしい。
 地元の人はそんなトラブルはもう懲り懲りだから、直前まで公表しなくなったのではないか、というのがその人の推測だった。その人は観光客がおしよせた時のことを「本来の姿を失ってしまった」と表現した。見せることがそもそもの目的ではない、と言いたかったはずだ。


 著者は泥だらけになることを想定して準備してきたそうなのですが、こういう、伝統を守りたい、「昔からの地元の祭り」に参加している人たちと、新しい観光資源を開拓したい旅行会社や他人が行かないところを求めている観光客の意識の違いによるトラブルは、各地で起こっているのではないかと思われます。
 地元だって、そっとしておいてほしい、という人もいれば、それで人が来て盛り上がったほうがいい、という人もいるでしょうし。
 これは、団体で来る人たちであれば、あらかじめ旅行業者がアナウンスしておくべきですよね。
 こういうトラブルがあれば、それでお金をもらっているわけでもない地元の参加者たちは、うんざりしてしまうのも当然です。
 その一方で、「後継者難」で、消えていく祭りも少なからずあることも、著者は紹介しています。
 地方で、子どもが参加する祭りは、とくに難しくなってきているみたいです。
 子どもたちは祭りに興味を示さないし、そもそも、少子化で子どもの数が減っているし。


 高知県仁淀川町の「椿山虫送り」という祭りの章より。

 祭りは毎年6月20日と決まっている。聞けば、過疎化により人口は減ってしまったが、祭りは毎年行われているという。出身者がたとえ住んでいなくとも、毎年この日には必ず帰って来て、顔をあわすのが楽しみ」という。そのことを知って私は少なからず複雑な気持ちになった。祭りとは本来そこに住む人々によって行われるものだからだ。一方で一年に一度、祭りの力によって人が集っているともいえるだろう。
 祭りはなかなか始まらなかった。まずは集落の関係者が氏仏堂でお酒を飲みつつ食事をとり始めた。氏仏堂は「将軍地蔵」と本尊としているという、私を含め、純粋に祭りを見に来た者たちの姿が次第に増え始めた。間違いなくここで暮らす人の数より多いはずだ。それらの人たちが、遠巻きに遠慮がちに氏仏堂を見ている。お堂の中と外を遮るものは一切ない。氏仏堂からは時折笑い声が上がる。お酒も入っている。楽しげなのが伝わってくる。庭には焚き火が燃えている。その煙が時折顔にかかって、目にしみる。
 私はふと、うれしくなる。観光のための祭りでないことに気がつくからだ。何度か見物人に料理のお裾分けが回ってきた。でも、誰もが遠慮して、なかなか手を伸ばさない。それでも勧められると一人の女性がやっと手を伸ばした。いなり寿司だった。


 お祭りというのは、地元の、あるいはそこに住んでいた人たちの「同窓会」のような役割を果たしていることもあるのですね。
 そういえば、僕が子供の頃、嫌っていた大きなお祭りも「お盆や正月には帰省しなくても、その祭りのときだけは何を置いても地元に帰る」という人が大勢いるのだと聞きました。
 祭りが人を呼び寄せるのではなく、人が集まるために、存在している祭りもあるのでしょうね。
 今の世の中では、そういう理由でもないと、なかなか人が集まるのも難しい。


 こういう「奇祭」に興味がある人にとっては、なかなか興味深い新書だと思います。
「奇祭」に出かけるときには、ぜひ予習を!


大人の探検 奇祭

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とんまつりJAPAN―日本全国とんまな祭りガイド (集英社文庫)

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アジアの奇祭 (写真叢書)

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