琥珀色の戯言

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【読書感想】生きるとか死ぬとか父親とか ☆☆☆☆

生きるとか死ぬとか父親とか

生きるとか死ぬとか父親とか

内容(「BOOK」データベースより)
私が父について書こうと決めたのには、理由がある―。20年前に母を亡くし、気づけば父は80歳、娘は40代半ば。一時は絶縁寸前までいったけれど、いま父の人生を聞いておかなければ、一生後悔する。父と娘をやり直すのは、これが最後のチャンスかもしれない―。父への愛憎と家族の裏表を描く、普遍にして特別な物語。


 僕に娘はいないし、父親はもう亡くなっているので、親としても子どもとしても、こういうシチュエーションを味わうことはできないのだなあ、と思いながら読みました。
 味わいたいか、と言われると、それはそれで微妙な感じもするのですけど。

 我が家の元日は、墓参りと決まっている。
「我が家」と言っても、七十七歳の父と四十二歳のひとり娘だけの、限界集落ならぬ限界家族。元日の墓参りが決まりごとになったのは、母が十八年前に鬼籍に入ってからのことだ。
 待ち合わせにはいつも私が遅れてしまう。遅刻癖は父親譲りだが、年寄りは暇なのか、最近は待ち合わせ時間の十分以上前からそこにいることが多い。

 私が父について書こうと決めたのには理由がある。彼のことをなにも知らないからだ。
 一緒に過ごしてきたあいだのことはわかっている。しかし、それ以前のことはチカコ姉さんが誰かわからないように、はっきりとしない。一緒に過ごしてきたこの四十数年だって、私が目で見て感じてきたことでしかない。いままで生きてきて一番長く知っている人のはずなのに、私は父のことをなにも知らないも同然だ。
 母は、私が二十四歳の時に六十四歳で亡くなった。明るく聡明でユーモアにあふれる素敵な人だった。しかし、私の前ではずっと「母」だった。彼女には妻としての顔もあったろうし、女としての生き様もあったはずだ。
 私は母の「母」以外の横顔を知らない。いまからではどうにもならない。私は母の口から、彼女の人生について聞けなかったことをとても悔やんでいる。父については、同じ思いをしたくない。


 77歳という年齢を考えると、お父さんが考えてきたこと、頭の中にあることを聞くことができるリミットが近づいてきているのではないか、と著者は意識しているのです。
 僕はもう両親が亡くなっているのですが、自分が中年になり、親になってみると、親というものの大変さや、子どもの親であることと、職業人であること、あるいはひとりの大人であることと、どういうふうに折り合いをつけてきたのかな、なんて思うことがあるんですよね。
 母親が亡くなったあと、僕がまったく知らなかった友人・知人が少なからず弔問に来てくださったのですが、当時の僕はどちらかというと、母親に自分が知らない面があったことに、困惑していた記憶があります。
 僕自身も、こうしていま自分が考えていることの大部分は、自分が死んだらこの世界から消えてしまうんだなあ、なんて思うことがあるのです。いやまあ、この世界に残しておくほどたいしたことなんて僕の中にはありはしないのだけれど、結局、人が考えていることの大部分は、その人だけにしかわからないまま、誰も手の届かないところに消えていくのです。
 それは、けっして悪いことではないのかもしれないというか、むしろ、「救い」なのかもしれないけれど。


 この本では、著者とお父さんのぎこちない交流が描かれているのですが、このお父さん、やたらとモテる人だったみたいで、長い間、妻(著者にとっては母親)以外の女性の影があって、娘を困惑させていたのです。
 野心家で、事業を起こし、かなりの成功を収めたものの、のちに破綻してしまいます。
 こんな女ったらしのどこがいいんだ、だいたい世間の女性は、なんでこんな気の多い、チャラチャラしただらしないヤツに世話をやきたがり、地道に生きているわれわれ(まあ、僕の身近な人にはさまざまな見解があるかもしれませんが)には見向きもしてくれないのか。
 結局、男は見た目が10割、なのか?


 ……とか心の中で悪態をつきながら読んでいたのですが、僕もさすがにこの年齢になると、人と人との機微、みたいなものについて少し理解できたところもあるのです。

 父はコーヒーを飲まず、ロイヤルミルクティーを好む。ロイヤルホストのドリンクバーには当然、ロイヤルミルクティーなどない。温かいミルクもない。植物性のコーヒーフレッシュは嫌がるので、私はいつもコーヒーカップを両手にひとつずつ持ち、ラテ・マキアート(エスプレッソと少なめの泡立てたミルク)のボタンを押す。最初の数秒だけ温かいミルクが出てくるので、左手のカップにそれを注ぐ。ゴボゴボと音がしてきたら次はエスプレッソが出てくる。私はカップをさっと引き、右手のカップを差し出してエスプレッソを受け止める。温かいミルクだけが入った左手のカップにはアールグレイのティーカップを入れ、少しだけお湯を足す。これで簡易ロイヤルミルクティーの出来上がりだ。
 私はエスプレッソが入った右手のカップを再びマシンの下に置き、もう一度ラテ・マキアートのボタンを押す。苦み走りまくったダブルショットのラテ・マキアートが私の飲み物になる。
 父に我が儘を言われたわけではない。そもそも、私がこんな曲芸じみたことをしてロイヤルミルクティーを作っているのを父は知らない。
 なぜ周囲に訝しがられながらもこんなことをしているかと言えば、それは私が女だからなのかもしれない。血の繋がった娘の私でさえ、この男を無条件に甘やかしたくなるときがある。他人の女なだ尚更だ。
 女に「この男になにかしてあげたい」と思わせる能力が異常に発達しているのが私の父だ。私も気を引き締めていないと、残りの人生は延々と甘やかなミルクを父に与え続け、私は残りの苦み走った液体をすすることになる。


 世の中には、だらしないんだけど魅力的な人がたくさんいるし、女性(の一部)に、「この人のお世話をしてあげたい!」と思わせるような男って、いるんですよね、たしかに。
 同性としてみると「なんであんなヤツが!」ということも少なくない。
 そういうのって、才能なのか努力なのか、僕にはよくわからない。
 ただ、そういう人は「自分のために何かしてもらうこと」に対して、当然だと胸を張っているわけでもなく、かといって、いつも平身低頭してもおらず、自然にふるまっているように外側からはみえるんですよね。

 店を出たところで父が口を開いた。
「お前に迷惑をかけるのが申し訳ないから、もうあの家を出ようと思うんだ」
 冗談はよしてくれ。あの家は私が百万円以上資金援助して一年分の家賃を支払い、昨年契約したばかりではないか。もっと小さい家に住むと殊勝な面持ちで言うのだが、また引っ越す方が金がかかる。これだけ無計画なら、そりゃあモスグリーンの老紳士になどなれるわけがない。
 とにかく引っ越しはやめてくれ、できることはするからと懇願すると、父の話はいつの間にかマンションを買えという話にすり替わっていた。なんだ、殊勝な話はマクラか。
 家賃が勿体ないから引っ越すという流れから、不動産を買えまでの距離は驚くほど短かった。この男の習性なら知り尽くしたと高を括っていたが、見事に最後まで聞いてしまった。悔しい。もちろん、買えるわけがない。山手線の内側に俺の住むマンションだなんて、そんなもの買えるかよ。


 お父さん、どこまで狙ってやっているのだろうか、と苦笑しながら読んでいたのですが、天性のおねだり上手、みたいな人って、いるのだよなあ。
 その手に、なぜか嬉々として乗ってしまう人も。
 「貢ぎたい」性分の人って、たぶん、いるんですよね……
 著者は、自分に似ているところもあるからこそ、そう簡単には引っかからないわけですが。
 自分自身のことを振り返ってみても、親の嫌いなところばかり、似てしまったような気がしてなりません。

 父が私の皿にロースカツを一切れ寄越してきた。私も無言で父の皿にヒレを乗せる。ロースの脂はとても甘くて美味しかった。もっと食べるかと尋ねられたので、端の一切れを箸でつまもうとしたら、「豚に失礼だから、真ん中を食べなさい」と怒られた。「美味しいところをあげるよ」とは言えないらしい。


 ああ、でも、こういうところが、なんともいえない「愛嬌」なのかな、と読んでいて思うんですよね……

 父も母も、当時は心底愛し合っていたことに間違いはないだろう。しかし私が物心付いたころには、その面影はなかった。
 仲が悪かったわけではない。人として互いを必要としているのはよくわかる夫婦だった。長く連れ添った絆があるのも見えた。愛し合っていたかと尋ねられれば、愛し合っていたとはっきり答えられる。だが、男と女のそれだったかと言えば首を傾げてしまう。母がよく言っていたように、我が家は年の離れた兄と私、そして母の三人家族のようだったから。
 父は空っぽになった場所を外で満たしたが、母は持て余す心をどうなだめたのか。年月とともに変容していく関係を、二人はどう受け止めたのか。夫婦なんてそんなもんだと言われればそれまでだが、そんなもんになるまでの諦めや傷心や後悔は、どこに押し流されていくのか。
 母がまだ存命だったころ、家に遊びにきた私の友人が、母に結婚とは何かを尋ねた。母は答えた。
「その人のことが死ぬほど好きだったという記憶と、お金があれば結婚は続くのよ」
 私が友人からこの話を聞いたのは、母が亡くなってからずっとあとのことだ。私には、そんな大切なことは教えてくれなかったのに。


 こういうのって、親としては、子どもには話したくないし、子どもにとっても、自分の親からは聞きたくない話じゃないかと思うのです。
 たとえそれが、真実だったとしても。
 家族って、どうしてこんなにかみ合わないものなのだろうか。
 でも、僕はこれを読んで、少し安心したのです。
 どこも、いろいろあるよね、そういうものだよね。って。


今夜もカネで解決だ

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