
- 作者: 小川剛生
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/11/18
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
兼好は鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれた。六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後、出家して「徒然草」を著す―。この、現在広く知られる彼の出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものである。著者は同時代史料をつぶさに調べ、鎌倉、京都、伊勢に残る足跡を辿りながら、「徒然草」の再解釈を試みる。無位無官のまま、自らの才知で中世社会を渡り歩いた「都市の隠者」の正体を明らかにする。
兼好法師とは、何者だったのか?
上記の「内容」に書かれている「鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれた。六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後、出家して「徒然草」を著す」というのが兼好法師の大まかな「来歴」だと僕は思っていました。
いや、もともとそんなに詳しいわけじゃなくて、「そんなふうに聞いたことがある」くらいの感じなんですが。
この新書、兼好法師のあまり知られていない人生を辿りながら、『徒然草』の有名な段を紹介していく、というくらいの新書から思いきや、読み始めて、ちょっと面食らってしまいました。
著者は、古文書などの史料をもとに、「吉田兼好」と呼ばれてきた人物の実像を追いかけていくのです。
『徒然草』についても、少しずつ触れられているのですが、メインは、「兼好法師の人物像」であり、「いかにして、『吉田兼好』という虚像が生まれたのか、についてを学術的に検証している本なのです。
かなり専門的な内容になっていて、ちょっと受験勉強していた頃のことを思い出して、『徒然草』でも読んでみようかな、と手にとると、系図や古文書や短歌に圧倒されてしまいます。
『応仁の乱』の大ヒットは、新書でも「歴史好き」をターゲットにすれば、ちょっと複雑だったり専門的だったりするようなものでも、かなり広く受け入れられる(というか売れる)ことを証明したともいえます。
もともと、中公新書というのは、歴史に関する「1時間もあれば十分な、読みやすい、初心者向けの新書」とは一線を画したものが多かったのですが、この『兼好法師』も、その一冊なのです。
近代に入って実証史学が盛んになると、「太平記は史学に益なし」(久米邦武)との宣言の通り、まずは南北朝時代の史料が文献批判の洗礼を受けた。近世兼好伝は虚誕の産物として斥けられ、同時代人の手になる日記・文書など、信頼のできる一次史料に依拠して、実像を探索する試みが始まった。徒然草研究にとっても作者の伝記は依然重要なテーマであり、戦後、国文学の手によりその成果がいくつか刊行された。そこでは京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部(うらべ)氏に生まれた出自、村上源氏一門である堀川家の家司となり、朝廷の神事に奉仕する下級公家の身分、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇った経歴、鎌倉幕府・室町幕府の要人と交流した交際圏など、主要な輪郭が明らかにされ、徒然草の読者に共有されるところとなっている。
ところが、これも結果として造られた虚像であった。とくに出自や経歴はまったく信用できないものである。すなわち後世に捏造された偽系図・偽文書に依拠しており、信用できる史料までもこれに引き寄せられてしまった。研究者が兼好の生きた時代の制度・慣習に無関心であったため、実像とほど遠い、矛盾した人物像が世に行われ続けたと言える。
著者は、「兼好法師」について書かれた後世の文献よりも、鎌倉時代末期から、南北朝時代にかけての社会のシステムや、さまざまな史料で、登場人物のひとりとして名前が出てくる部分を拾い集めて、「兼好法師とは、ほんとうはどんな人物だったのか」を書いています。
斜に構えて世の中をみていた隠者のようなイメージがあった兼好法師は、貴族階級ではない身分から、学識や歌人としての能力を買われて登用され、世の中を渡っていった「したたかな人物」でもあったのです。
徒然草では法解釈めいた、理詰めで話を進める段がいくつかある。九十三段の「牛を売る者あり」、二百九段の訴訟に負けた者が係争地以外の田を腹いせに刈り取る話などがすぐに想起される。使庁に接し、法律の知識をもってさまざまな人間の行動を眺めていた間に知ったとしてよいであろう。
ただし使庁が洛中を支配する公家政権そのものであり、侍品の下級官人によって支えられていた事実がより重要である。兼好の官庁への関心を、通説のように公家社会の出自に求めるのはもはや無理であろう。徒然草は後醍醐天皇の治世に成立したと考えられるが、その宮廷への具体的言及は意外に多くない。後醍醐の腹心であった日野資朝の不穏な逸話(百五十二〜四段)は実に印象深いものの所詮はゴシップの類で、かえって実際の資朝が活動した公家社会からの距離を感じさせる。その外縁に接する侍品から出て、蔵人所、使庁、院庁あるいは摂関家などの組織にごく軽い身分で仕えた後、出家後は遁世者の立場を活かして内裏に自由に出入りしたり、洛中の人々を惹きつけてやまない宮廷文化への先導役を担ったりしていたと見ることができるからである。また洛中の人々が、使庁とともに意識せざるを得なかった六波羅探題府との関係を、兼好が依然保っていたとすれば、より興味深い。このような兼好が著した徒然草はやはり中世都市京都の生み出した文学であるといえる。「都市の文学」とは、多用されすぎてもはや手垢のついた概念であり、近代の都市と中世のそれとはおよそ異なるが、今後はこの視点によって、徒然草に息づいている洛中の人々の描写の秘密が解けることであろう。
著者は、兼好法師の経歴を捏造した人物として、兼好法師の後の時代を生きた神道家の吉田兼倶(1435-1511)の名前を挙げています。
実のところ神道家としての吉田流の歴史は決して華々しいものではなく、先祖の事績はほとんど知られていない。卜部氏では平野流が嫡流で、吉田流はどの後塵を拝していた。そこで兼倶は次々に文書記録を偽造し、各時代の著名人が吉田流の門弟であったと言い始めたのである。
鎌倉時代前期で被害者となったのは藤原定家ら新古今歌人である。定家は当時の吉田流の当主兼直の神道の弟子となり、歌道の奥義を得たとして、定家が兼直に提出した起請文が突如として出現、八雲親詠口決と名付けられ、兼倶はこれこそ和歌の秘伝であると吹聴した。
この人が、当時『徒然草』が再評価されていた兼好法師を、吉田家に箔をつけるために「一門」として吹聴していて、いつのまにか、それが事実として広まってしまったのだとか。
今のようにメディアが検証するわけでもなく、映像や証言がたくさん残っていたわけでもない時代のことですから。
なんだか、某教団の「霊言」みたいな話ですが、500年前から、人は同じようなことをやっていたんですね。
有名人になってしまったために、兼好法師は、その名前を「利用」されてしまったようなのです。
けっして簡単でも読みやすくもないのですが、兼好法師の「正体」だけでなく、歴史というのは、こういうふうに研究され、検証されているのだという「歴史研究の現在」の一端を知ることができる新書だと思います。

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