琥珀色の戯言

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【読書感想】四国遍路 - 八八ヶ所巡礼の歴史と文化 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
八八の寺院を巡るあり方を決定づけた僧侶の案内記、貧困・病気・差別に苦しめられた巡礼者たちの記録、新聞記者による遍路道中記、バスや鉄道の登場がもたらした遍路道の変貌―。本書は、近世以降の史料を掘り起こし、伝説と史実がないまぜになった四国遍路の実態を明らかにする。千数百キロの行程を歩く巡礼者と、彼らと相対し、お接待文化を育んだ地域住民。歩くだけでは見えてこない歴史の真実を浮かび上がらせる。


 四国の弘法大師ゆかりの88の寺を巡る「お遍路さん」は広く知られています。
 白装束に杖を持って、地元の人々の「お接待」と呼ばれる食べ物や宿の提供を受けながら、ひたすら歩いて、自分を見つめなおす……
 本来の宗教的行事というよりは、「自分さがし」や「失敗をしてしまった人が悔い改める手段として」の性格が強いようにも思われます。
 この新書では、その「お遍路さん」の歴史的な変遷が、史料にもとづいて述べられています。
 読んでみると、「歩いて巡る」のがスタンダードだと思いきや、公共交通機関を利用して「効率的にまわる」ことが流行した時代があったり、白い装束や杖などのスタイルが定着したのは、そんなに昔ではなかったり、といった、「歴史があるようで、今のお遍路の形になったのは、けっこう最近のことである」ことがわかります。

 しかし、いつ四国遍路が開創されたのか実はよく分かっていない。開創も弘法大師空海によるものとされているが、これも諸説入り交じる。たとえば江戸時代に四国遍路のガイドブック『四国遍礼霊場記』を書いた僧侶の寂本は、空海の高弟の真済が大師の遺蹟を遍歴したのが始まりだと記している。いつ、誰が、何のために始めたのか、そしてなぜ八八の寺院を廻るのか、依然として不明なのである。
 憶測と伝説に彩られた巡礼。意外に思われるかもしれないが、残された資料によって、四国遍路の記録を学術的に遡れるのは、江戸時代中期までである.案内書や宿の過去帖、巡礼者の日記や朱印状が残っているのが、ほとんどそれ以降だからである。それらの資料をひもとくと。次の二つのことが明らかになる。まずは江戸時代以前の「四国遍路」が私たちの知るそれとは大きく異なること、むしろ、巡礼の形式が体系的に整うのは、ようやく20世紀に入ってからである。


 また、著者は、このような歴史的な事実を紹介しています。

「お接待」の風習があるからといって、地域住民がいつでも誰にでも優しく接してきたわけでは決してない。貧しい巡礼者は治安を乱す厄介者と見なされ、厳しく取り締まられたことがあった、そして、ときには差別の対象でもあったのである。


 さらに興味深いことに、1970年代半ばに香川県高松市の中心部で育った著者は、「四国遍路を地域文化と思ったことはほとんどなかったし、巡礼者を目にしたこともなく、差別や宗教と結びついた過去の文化と考えていた」そうです。
 それが、1990年代末の「四国遍路ブーム」によって、巡礼者が急激に増えたのです。
 現在、四国遍路を「世界文化遺産」に登録しようという運動も行われているそうなのですが、この新書を読んでいると、それもなかなか難しいのではないか、と思えてくるんですよね。
 もちろん、著者は、四国遍路を「無意味だ」と批判しているわけではなく、歴史的な事実を資料をもとに明らかにしようとしているだけなのだけれど。


 著者は、四国遍路がその他の多くの宗教的な巡礼に比べて、「ゆるい」ことを指摘しています。

 こうしてみると、四国遍路は実に「ゆるい」巡礼であることが分かってくる。誰でも、誰とでも、いつでも、始められる巡礼。また、分類にはあらわれないが、四国遍路の特徴の一つに、どこから、どの番号の札所から始めてもよい点がある。これも「ゆるい」巡礼の大事な要素である。もちろん、それらが四国遍路人気の一因であることは否定できないだろう。
 ところで、この「ゆるさ」ゆえ、四国遍路の実態はなかなかつかみにくい。年間の巡礼者数の把握も、遍路をどの札所から始め、またどこで中断してもかまわないため難しい。地元の伊予鉄道が発行している情報誌「へんろ」(2009年)によれば、男性5万、女性7万人余、あませて12万2000人とあるが、これは2004年度の58番仙遊寺納札から割り出したものである。


 2011年に約500人に対して実施された調査による、巡礼の動機としては「定年後の60歳代と70歳代では死者の供養、50歳代では自分の生き方を見直す、40歳代は信仰、10〜30歳代までは観光、祈願、挑戦が最も多い動機であった」そうです。
 同じ「お遍路さん」でも、その目的は人それぞれ、なんですね。

 江戸の世が終わり、日本が近代に突入すると、四国遍路を描いた資料は格段に増える。遍路の道や、巡礼者を札所へと導く道標なども整えられていく。
 現在確認できる最古の道標は、中務茂兵衛(1845〜1922)が設置したものである。彼は、江戸時代末期から大正期にかけて、280回徒歩で巡礼を行ったとされている。山口県の出身で、もとは中司亀吉といった。22歳のとき結婚に反対されたのをきっかけにぐれてしまい、勘当され、四国遍路に出ることになった。明治10年(1877)には76番、香川県善通寺市にある金倉寺の住職より読経や真言の教えを受け、16年に『四国霊場略縁起 道中記大成』という巡礼案内機も出版。この年に中務茂兵衛と新氏名を名乗り、最後の巡礼は齢78、大正11年(1922)のときであった。その彼がはじめて10基の道標を建立したのは、88度目の巡礼を終えた明治19年1886年)のことである。


 最初に道標がつくられたのは、明治維新後で、いまから130年前だそうです。
 そんなに昔の話ではないんですね。
 それにしても、88回も巡礼するというのは、そのエネルギーを何か他のことに使っていたほうが……と、信仰を持たない僕としては考えてしまいます。
 いまでも、「何度もお遍路を繰り返す人」というのは少なからずいるそうで、「定住しない人生が認められる、数少ない手段のうちのひとつ」なのかもしれません。

 かつて愛媛県伊予鉄道株式会社で順拝バスツアーの添乗員をしていた人物の話では、職業遍路と呼ばれる巡礼者たちが1960年代半ば頃まで見られた。職業遍路とは、行乞をしながら旅を続けた巡礼者のことである。60年代に何があったのか。それが高度経済成長による経済発展と福祉政策の充実だった。
 1950年代半ばから始まった高度経済成長は、昭和35年(1960)12月に閣議決定された所得倍増計画を後押しする。この計画は翌年からの10年間で実質国民所得(国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げた。これにともなう国土開発、公共事業の増加によって港湾労働者や建設作業員などの需要は増し、新しく物乞いの旅に出かける巡礼者数を減らした。
 国家による福祉政策の充実は、昭和25年(1950)施行の生活保護法や、38年の老人福祉法施行に現れる。後者によって、貧しさに苦しむ高齢者の保護を目指し「特別養護老人ホーム」や「養護老人ホーム」などが創設された。こうして徐々に職業遍路の数は減じていったのである。


 戦後の高度成長期、お遍路さんが流行らなくなったのは、こうした「職業遍路」が減ったからでもあるのです。

 なお「歩き遍路」という言葉は古いものではない。もちろん、歩くほかに巡礼する手段がなかった時代には、わざわざ「歩き」という語をつける必要はなかったのであり、徒歩以外の移動手段が登場し、多くの巡礼者がそれを使う時代になったからこそ、あえて「歩き」という語が付け足されるようになったのである。
 かつて徒歩の巡礼は、行乞しながら旅を続けるために必要な手段だった。しかし、1990年代の歩き遍路はこうした「伝統」と完全に断絶している。歩き遍路は自分探しや癒やしのために歩くもの。つまり、1990年代に登場した「新しい」巡礼スタイルなのである。
 2000年代になると、「癒やし」効果だけでなく、歩き遍路の運動性が注目されるようになった。アウトドア雑誌が特集を組むなどして遍路は中高年のトレッキングブームと結びついた。こうした新しい目的意識が現在の四国遍路を支えている。


 宗教的な巡礼から、健康のためのトレッキングへ。
 あまりうるさく言われないからこそ、毎年12万人もの人が、「お遍路さん」になっているのでしょうね。

 長い歴史があると思い込んでいたものが、案外新しい習慣だったというのは、けっして珍しいことではないのです。
 「巡礼」というイメージに流されず、「いま、わかっていることを、わかっているだけ」書いてあるこの新書は、なかなか興味深いものでした。


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