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【読書感想】硫黄島-国策に翻弄された130年 ☆☆☆☆

硫黄島-国策に翻弄された130年 (中公新書)

硫黄島-国策に翻弄された130年 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
小笠原群島の南方に位置する硫黄島。日本帝国が膨張するなか、無人島だったこの地も一九世紀末に領有され、入植・開発が進み、三〇年ほどで千人規模の人口を有するようになった。だが、一九四五年に日米両軍の凄惨な戦いの場となり、その後は米軍、続いて海上自衛隊の管理下に置かれた。冷戦終結後の今なお島民たちは、帰島できずにいる。時の国策のしわ寄せを受けた島をアジア太平洋の近現代史に位置づけ、描きだす。


 「硫黄島」といえば、やはり、太平洋戦争での激戦地のイメージが強いのです。
 クリント・イーストウッド監督が2006年に『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』で、硫黄島での戦闘を日米双方の視点で映画化し、同時期には日本で硫黄島防衛の指揮をとった栗林忠道中将に関する本がベストセラーになりました。
 『硫黄島からの手紙』で、渡辺謙さんが「まだここは日本かーっ!」と叫んでいたのは、すごく耳に残っています。

 ただ、僕が「硫黄島」について知っているのは、あの激戦のことだけ、というのも事実なのです(あの映画以前は、それさえも年表のなかの一行でしかなかったのだけれど)。

 硫黄島北硫黄島は19世紀末から1944年の強制疎開までの約半世紀間にわたって入植地として発展しており、両島合わせた人口は最大時に約1200人を数えた。そこに社会があったのである。


 この新書のなかで、著者は、硫黄島の発見から入植、太平洋戦争前の住民たちの生活ぶり、そして、軍事的な要衝にあったことから、基地として重要視され、日米の激戦のなかに、住民たちが巻き込まれていく様子を、当時の住民たちの証言をもとに描いていきます。

 本書は硫黄列島という小さな島々の社会史的経験を描いている。一方で、硫黄列島のたどった、一見するとミクロな歴史的経験からは、日本本土側にとって一方的に都合のよい歴史像、たとえば「立派に耐えた玉砕の島」といった地上戦イメージや、「焦土から復興へ」というお馴染みの戦後イメージを揺るがす、新たな20世紀像が浮かび上がってくる。
 したがって本書は、二つの目的をもって書かれている。一つは、硫黄列島の歴史を従来の「地上戦」一辺倒の言説から解放し、島民とその社会を軸とする近現代史として描き直すことである。もう一つは、日本帝国の典型的な「南洋」植民地として発達し、日米の総力戦の最前線として利用され、冷戦下で米国の軍事利用に差し出された硫黄列島の経験を、現在の日本の国境内部にとどまらないアジア太平洋の近現代史に、きちんと位置づけることである。

 激戦地として描かれる硫黄島には、両軍の兵士たちの姿はあっても、住民たちはほとんど出てこないのですが(映画『硫黄島からの手紙』のなかには、住民たちの様子が描かれたシーンが1カットあるそうです)、この島には住民がいて、多くの人は本土に「疎開」を余儀なくされ、軍に徴用された人たちの大部分は兵士たちとともに犠牲となりました。

 著者は、沖縄戦を「太平洋戦争で唯一の地上戦」と言及する人が多かったが、それは誤解であること、その後「住民を巻き込んだ唯一の地上戦である」と言い換えられることが多くなったけれども、それもまた、この硫黄島や太平洋の島々での戦闘の内実を無視している、と述べています。

 島民たちのなかには、日本軍からの命令ではなく、企業が私的に行った「偽徴用」の被害も受けた者もいました。

硫黄島産業株式会社被害者擁護連盟が作成したパンフレットより)


 1944年7月、強制疎開の便船が硫黄島を次々と出発するなか、計22人の島民が硫黄島村の村長や村役場の兵事係から、軍の命令で徴用の対象になったと告げられた。22人のうち5人は、硫黄島の女性と結婚していた沖縄出身者であった。
 しかし、彼に徴用令状(いわゆる白紙(しらがみ))は交付されず、徴用時に必要な身体検査もおこなわれなかった。彼らは硫黄島産業株式会社に呼び出され、S常務取締役の監督のもとで、コカの葉の刈取りや乾燥、コカの粉末の荷造り・運搬など、会社のための業務に従事させられた。他方で彼らは、軍から監督や直接の指示を受けることはなかった。
 そしてSは、乾燥させたコカの粉末を本土に移出する段取りを終えると、軍用機に便乗して本土に退避してしまった。その後、軍用船がやってきた。22人は「今度こそ引揚げられると、わずかな身の廻り品をとりまとめて皆なで波止場に集まった」。ところが、Sが引揚げた後に硫黄島産業株式会社の島内責任者となっていたAは、22人のうち自分の身の回りの世話をさせていた新井俊一さんら数人だけを乗船させた。須藤章さんや原光一さんを含む残りの16人については、乗船が手配されていなかった。


 私企業が「徴用」を装って島民を疎開させずに残留させ、さらに、戦場になるであろう島に、置き去りにしてしまったのです。
 あの戦争のなかでも、「国のため」を装って、私腹を肥やそうとしていた者たちがいた。
 そして、この残された人たちの多くは、のちに軍に正式に徴用され、硫黄島での激戦で亡くなったのです。

 地上戦開始まで硫黄島に残留させられた島民被徴用者は103人であったが、米軍の捕虜となり地上戦後まで生き残った島民は、須藤さんを含むわずか10人であった。


 硫黄島に住んでいた人たちは、戦後、小笠原諸島硫黄島が日本に返還された後も、「住むのに適した土地ではないし、仕事もないから」という理由で、インフラが整備されることもなく、島に定住することができない状態が続いているのです。

 日本帝国の膨張過程で外地や満州に開拓農民などとして移住し、帝国の敗戦・崩壊過程で引揚者として事実上「難民」化した後、本土で開拓難民になっていった。多数の人びとが存在した。だが、彼ら(再)開拓農民の多くは、営農基盤のない弱い環境しか得られず、早期に離農を余儀なくされ、再び「難民」化していった。そして、硫黄列島から強制疎開させられた人びとのなかにも、本土で開拓農民を目指しながら、再び「難民」化した人たちがいた。
 多くの日本国民(帝国時代の本土住民)には、敗戦直後の一時期を除けば、「戦前」よりも「戦後」が相対的に「豊かな」生活だったという自意識がある。たとえば、小作人の境遇に置かれていた過半の農民にとって、敗戦後の第二次農地改革は、貧困や屈辱から脱していく一大転換点を意味していた。
 これに対して、硫黄列島民の自己認識においては、「戦前」よりも「戦後」が苦難の経験として回想されがちだ。筆者は、硫黄列島民の生活史の語りを聴いているとき、強制疎開前の生活経験を、やや「美化」しているのではないかと感じることがあった。しかしながら、硫黄列島民にとっての「戦後」の生活経験が、長い故郷喪失のなかでの苦闘であった事実をふまえるとき、彼らの語りを単なる過去の「美化」として片づけることは、決してできないのである。

 北方領土は、ソ連、そしてロシアが占領している状態が続いているので、そこに元の日本人の住民が戻るのは難しいのだとしても、硫黄島に関しては、コストに見合った経済効果がない、とか、軍事的な要衝だということもあって、日本政府が自主的に「住めない島」にしている、とも言えます。
 
 ただ、この島に縁がない僕は、この島に何十人、あるいは何百人かが健康で文化的に住めるようになるための費用というのは莫大なものになるでしょうし、今からインフラをあえて整備するのも割に合わないよなあ、とも感じるのです。
 
「それでも、故郷に帰りたい」という人たちの気持ちは理解できるのだけれども、そのためのコストを負担することに政府がためらうのもわかります。


 沖縄の米軍基地についても、ずっと沖縄にあり続けるのは「不公平」だとは思う。
 とはいえ、その不公平を解消するために、どこかに移転するとなると、どこが受け入れるのか、というのは大きな問題です。
 基地であれば、究極的には「無くしてしまう」ということもありえると思うのですが、ゴミ処理場ならどうか。
 結局、「現状維持」が、いちばん無難なのではないか、ということになってしまうのですよね、外部の人間にとっては。

 そうこうしているうちに、硫黄島に実際に住んでいた人たちは、ほとんど亡くなってしまっているわけですし。
 こういうのは「正しくない」とは思うのだけれど、自分が不利益被るような(あるいは、利益を得られないような)「正しさ」には関わらないほうがいい、それが、「処世術」でもあるのだよなあ。


散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

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栗林忠道 硫黄島からの手紙 (文春文庫)

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