琥珀色の戯言

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【読書感想】現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

去り際に、ドラマが宿る――。
レジェンド24人の最晩年をプレイバック!
完全燃焼した者、最後まで己の美学を貫いた者、ケガに泣かされ続けた者、海外に活路を見出した者……どんな名選手にもやがて終わりの時が訪れる。
長嶋、王、田淵、江川、掛布、バース、原、落合、秋山、古田、桑田、清原など、球界を華やかに彩った24人の「最後の1年」をプレイバック。全盛期の活躍に比べて、意外と知られていない最晩年の雄姿に迫る。有終の美を飾るか、それとも静かに去り行くか――。その去り際に、熱いドラマが宿る!


 名選手、引退前の「最後の1年」か……
 「戦力外通告された選手たちのドキュメンタリー」は、すっかり年末恒例になりましたが、僕が子どもの頃、1970年代から80年代に比べると、「引き際の美学」よりも、「現役にこだわりつづける」という選手が多くなっていると思うのです。

 王貞治さんは引退の年にも30本ホームランを打っていますし、僕が長年ファンである広島カープ山本浩二選手も、引退の年に40歳で28本のホームランを打っていました。
 まだやれるのに、もったいないなあ……日本シリーズも3連勝のあとの4連敗、西武の秋山選手にはバック宙でのホームインまで見せられて、ミスター赤ヘルの最後がこんな負け方なんて……と悔しかった記憶が残っています。
 最近では、成績的には、もう現役にこだわるよりも、指導者に転じるか、他の仕事に目を向けたほうが良いのでは……と思うような「レジェンド級の選手」たちが、晩年に現役を続けているケースが多くなりました。
 イチロー選手(すでに引退)や松坂大輔選手、鳥谷選手をみていると、「あれだけの実績を残したスター選手なのに、控えとかリハビリばかりの状態でも『現役』でいたいのだろうか?」という気はするんですよね。
 ある球団で「レジェンド」と呼ばれて、ファンにも愛されていて、そこで引退すれば、コーチから監督になっていくような選手が、晩年の1年、2年の「現役続行」のために自由契約になり、指導者にもなりづらいというのは、もったいない、と僕は思うのだけれど、最近は、本当に「燃え尽きるまで」プレーする選手が多くなりました。
 中には、カープ新井貴浩選手のように、もう引退間際、という状況から古巣で「復活」して、チームの25年ぶりのリーグ優勝に貢献し、MVPを獲るような選手もいるんですけどね。

 
 最近引退した人で、最後の年の成績も「まだ重要な戦力としてやれるのに」という引き際だったのは、カープ黒田博樹投手くらいではないでしょうか。その黒田さんも、身体は満身創痍で、前年に引退を考えていたそうですが。

 この本を読んでいると、どんな偉大な選手でも、すごい成績を残したまま引退するのは難しい、ということがわかります。
 まあ、すごい成績を残していたら、そもそも引退しないだろう、というのもあるんですけど。

 あの落合博満選手は、清原選手のFAでの加入の影響もあって、巨人を退団したあと、日本ハムに移籍しています。
 ああ、そういえばそうだったなあ、って。
 けっこうプロ野球をみてきた僕も、「日本ハム・落合」は、誕生の経緯は覚えているけれど、その後は、いつのまにかいなくなっていた、という感じなんですよ。

 前年、42歳の時点で、巨人で打率.301、21本塁打、86打点の成績を残していた落合は、まさに「鳴り物入り」で日本ハムに移籍したのです。年俸3億円の2年契約。

 移籍1年目の1997年は113試合、打率.262、3本塁打、43打点という寂しい成績で終わり、日本ハムも同率4位と低迷、戦力外通告を受けた選手が「落合さんが来てからおかしくなった」なんて捨て台詞を残して去るなど、入団前の優勝請負人扱いが嘘のような状況で、移籍初年度のシーズンを終えることになる。


 捲土重来を期した移籍2年目が、落合選手の現役ラストイヤーになるわけですが、開幕戦では大活躍したものの、その後は怪我もあって成績は低迷します。

 落合の現役最後の打席は98年10月7日、千葉マリンスタジアムの古巣ロッテ戦(ダブルヘッダーの2試合目)でのことだ。なお日本ハムは後半戦に急失速し、当日は西武の逆転優勝が秒読み段階(当時はもちろんCS制度はない)。すでにオールスター戦後の7月下旬の日刊スポーツに「落合FA、獲得名乗りなければ引退」という記事が出ていたが、FA宣言をして引退発表をせずに自らの立場をあやふやにしておくのも面倒だと腹を決める。10月にはメディアで「今季限りの引退」が報じられ、最終戦前には上田監督から指名打者での先発出場を打診されていた。このロッテ戦で有終の一発を打てば、12球団すべてから本塁打を放ったことになる記録がかかっていたが、落合はその申し出を断りベンチスタート。「引退試合や派手なセレモニーみたいなものはオレの性に合わない」という己のこだわりを最後まで貫いた。チームが1対4とリードされた5回表一死、「週刊ベースボール」98年10月26日号の写真を確認すると、代打で登場した背番号3は全盛期と同じように素手でバットを握り、”神主打法”と呼ばれた独特の構えで打席に立っている。
 最多勝のタイトルを狙う、20歳年下の相手エース黒木知宏は全休直球勝負で、満身創痍の打撃の職人は3球目の141キロのストレートを打って一塁ゴロに倒れる。ベンチに戻る際、静かに笑みを浮かべる背番号3。19年前に代打出場からスタートした25歳の無名のオールドルーキーは、三度の三冠王という前人未踏の金字塔を残し、45歳を目前にバットを置いた。通算2371安打、510本塁打、1564打点の大打者としては異例のセレモニーも涙もない静かなラストゲーム。「お疲れさん」といつもと同じようにロッカールームをあとにすると、落合は意外な行動に出る。球場出口で出待ちしていたファンがいる柵前まで歩み寄ったのだ。「ありがとう落合」という横断幕を掲げる男性もいる中、彼らと握手を交わして回り、稀代のスラッガー落合博満の「最後の1年」は終わりを告げた。


 ああ、なんだか落合さんらしいなあ、というエピソードなのですが、落合さんの最終年の成績は59試合出場で、打率.235、本塁打2、打点18でした。
 年俸3億円×2年を払った日本ハムとしては、高い買い物でしたし、期待していたファンもがっかりしたと思います。
 他球団ファンの僕からみても、「あの落合でも、こんな成績になってしまうことがあるのか……」と感じていましたし。
 これを「名選手が晩節を汚した」とみるのか、「実績を武器に、6億円も稼げた」と考えるべきか。
 まあ、日本ハムのファンからすれば、「期待外れ」ですよねそれは。こうして振り返ってみれば「感動の引退劇」でも、「最後の1年」当時は、落合自身に対しても、落合を高年俸で獲得した球団にも、「なんでだよ!」と思わずにはいられなかったはず。

 あのとき、落合が巨人に残っていたら、あるいは、日本ハム以外の球団に移籍していたら……清原選手の「その後」も変わっていたかもしれません。


 「マサカリ投法」の村田兆治投手が引退を決めたのは1990年、40歳のときでした。

 最後の1年は26試合で10勝8敗2S、防御率4.51。41年ぶりの40代二桁勝利を達成する一方で、シーズン最多暴投記録を更新する17個で自身12度目の暴投王に、最後まで己の投球を貫いた。しかし、誰がどう見てもまだ充分投げられたはずだが、なぜ村田はユニフォームを脱いだのだろうか?
 自著『哀愁のストレート』(青春出版社)の中で、「まだやれるのに、と多くの人にいわれたが、まだやれるの『やれる』のイメージがどこにあるかだ。そういうギリギリの線で引退を決意したのが40歳のときだった」と記しており、引退直後に出版された『剛球直言』(小学館)では、はっきりと「余力を残してマウンドを去ることがエースの美学だ」と本心を告白している。
「先発完投をしてこそ、プロフェッショナルと呼ばれ、エースと尊称されるのにふさわしい。だから、その期待に応えられなくなれば、いさぎよくユニフォームを脱がねばならないと考える。わずが、数イニングスの闘いだけで終えるリリーフ役に転じるのは、私の美意識にそぐわない。”マサカリ兆治”のイメージを崩さずに引退することが、私のダンディズムの極致なのである」
 オレは最後の最後まですごい投手という印象のまま消える。村田兆治は二番手や三番手として延命するのではなく、ロッテのエースのままプロ生活に別れを告げたのである。


 村田投手が引退したのは1990年ですから、平成2年、平成まで現役だったのか……と、読んでいて意外だったんですよ。僕のなかでは「昭和の大投手」であり、『ファミスタ』や『燃えろ!プロ野球』で起用していたイメージがあったので。

 リリーフ投手がより重視されるようになった、21世紀の野球観には合わないかもしれませんが、こういう「美学」を貫いた選手もいたのです。
 
 こうして、さまざまな「引退前のあれこれ」を検証したものを読むと、プロ野球の世界に限らず、「引き際」というのは本当に難しいし、自らが感じている「限界」と、他者の「もう辞めたほうが良いのでは……と言う状態」というのは、そう簡単には交わらないものなのだなあ、と考えずにはいられません。


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