琥珀色の戯言

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【読書感想】他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

他者を学ぶこと、考えること、想うこと。
すべてはきみの自由のため。
ブレイディさんの熱い直球を受けとめろ!
――福岡伸一

差異を超克するすべを人類は持ち得たのか、
読み手の知性が試される一冊。
――中野信子

他者はあまりに遠い。“共感”だけではたどり着けない。
ジャンプするために、全力で「考える」知的興奮の書!
――東畑開人

文學界」連載時から反響続々!
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に次ぐ「大人の続編」本。

「わたしがわたし自身を生きる」ために――
エンパシー(=意見の異なる相手を理解する知的能力)
×アナキズムが融合した新しい思想的地平がここに。

・「敵vs友」の構図から自由に外れた“エンパシーの達人”金子文子
・「エンパシー・エコノミー」とコロナ禍が炙り出した「ケア階級」
・「鉄の女」サッチャーの“しばきボリティクス”を支えたものとは?
・「わたし」の帰属性を解放するアナーキーな「言葉の力」
・「赤ん坊からエンパシーを教わる」ユニークな教育プログラム…etc.

“負債道徳”、ジェンダーロール、自助の精神……現代社会の様々な思い込みを解き放つ!
〈多様性の時代〉のカオスを生き抜くための本。


 「当事者(被害者)の身になって考えてみろ」と言う人は多いですよね。
 僕自身も、マスメディアなどで、「自分にも起こる可能性がある他者の不幸について、他人事として『分析』する人」に対して、反感を抱くことが多いのです。

 「他者に共感する」というのは、人間の美点として語られることが多いのだけれど、必ずしも良い面だけではないのだ、と著者はさまざまな事例や思想をもとに紹介しています。

「エンパシー」という言葉を聞いて、わたしが思い出したのは「シンパシー」だった。正確には、「エンパシーとシンパシーの違い」である。
 わたしのように成人してから英国で語学学校に通って英語検定試験を受けた人はよく知っていると思うが、「エンパシーとシンパシーの意味の違い」は授業で必ず教えられることの一つだ。エンパシーとシンパシーは言葉の響き自体が似ているし、英国人でも意味の違いをちゃんと説明できる人は少ない(というか、みんな微妙に違うことを言ったりする)。だから、英語検定試験ではいわゆる「ひっかけ問題」の一つとして出題されることがあるのだ。
 とはいえ、わたしが語学学校に通ったのはもう二十数年前のことなので、すっかり忘れてしまった二つの言葉の意味の違いをもう一度、英英辞書で確認してみることにした。

 エンパシー(empathy)…他者の感情や経験などを理解する能力


 シンパシー(sympathy)…1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
             2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
             3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解
                 (Oxford Learner's Dictionaries』のサイト oxfordlearnersdictionaries.comより)


 英文は、日本語に訳したときに文法的な語順が反対になるので、エンパシーの意味の記述を英文で読んだときには、最初に来る言葉は「the ability(能力)」だ。
 他方、シンパシーの意味のほうでは「the feeling(感情)」「showing(示すこと)」「the act(行為)」「friendship(友情)」「understanding(理解)」といった名詞が英文の最初に来る。
 つまり、エンパシーのほうは能力だから身につけるものであり、シンパシーは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかといえば人から出て来るもの、または内側から湧いてくるものだということになる。
 さらにエンパシーとシンパシーの対象の定義を見ても両者の違いは明らかだ。エンパシーのほうには「他者」にかかる言葉、つまり制限や条件がない。しかし、シンパシーのほうは、かわいそうな人だったり、問題を抱える人だったり、考えや理念に支持や同意できる人とか、同じような意見や関心を持っている人とかいう制約がついている。つまり、シンパシーはかわいそうだと思う相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。


 著者がベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で書いた、この「エンパシー」の話には、著者にとっても予想外の大きな反響があったそうです。
 僕も「エンパシー」の話は印象に残ったのですが、それは、「シンパシーは知っていても、エンパシーという言葉を知らなかった」からなんですよね。
 日本では、「エンパシー」という言葉や概念はあまり一般的ではない、というか、みんなまとめて「シンパシー」「共感」とされているのです。
 ちなみに、エンパシーは「共感」という日本語で訳されるのですが、シンパシーも「共感」と訳されることが多いのです。
 シンパシーには「同情」や「思いやり」、エンパシーには「感情移入」「自己移入」と訳されることもあるそうです。


 まあでも、この「シンパシー」と「エンパシー」って、完全に切り離すことは難しそうではありますよね。

 著者は、「(「同情」できない相手でも、その立場を想像してみる)エンパシーがこれからの多様性の時代には大切だ」という世の中での持てはやされっぷりにも、警鐘を鳴らしています。
 「個人」に感情移入しすぎることは、「公共の福祉」に反する結論を導いてしまうこともあるのです。

 しかし、ポール・ブルームは、誰かの靴を履くことそれ自体も危険なことになり得ると主張する。なぜならそれは、スポットライトのごとくいまここにいる特定の人々に焦点を絞ることであり、たった1人の子どもが欠陥のあるワクチンで重病にかかって苦しむ姿を見てワクチン接種プログラムの中止を叫び、そのために数十人の任意の子どもたちを殺すようなことをさせてしまうからだという。彼はこう書いている。「この場合、あなたはそれらの子どもに共感を覚えることはないだろう。統計的な数値に共感することなどできないのだから」。まあ確かに、数字は靴に履いていないので、無い靴は履けない。さらに言えば、人間は顔が見える人(知っている人)の靴は履けても、顔が見えない人たちの靴はあまり履こうとしないものなのだ。
 他方、ジャーナリストのニコラス・クリストフのような人は、エンパシーこそがいま社会に必要なものだと精力的に主張してきた。彼が2015年1月24日にニューヨーク・タイムズ紙に執筆した「Where's the Empathy?」という記事はとりわけ有名になった。彼は、その記事の中で、米国には「エンパシー・ギャップ(他者の立場を想像することを困難にする認知的バイアス)」が存在していると書き、誰かを貧困にし陥れる複雑な状況を理解するよう読者に呼びかけている。つまり、貧困に陥る人の靴を履いてみれば、「貧困は自己責任だ」「社会には一定数の貧しい人たちがいるのはしょうがない」というのは自らの偏見や先入観による認識の歪みだったことがわかるし、その気づきがコンパッショネイトで思いやりのある行動につながるというわけだ。
 ニコラス・クリストフの考えによれば、エンパシーは各人が心に持つ認知的バイアスを外すことであり、それこそが多様性を共に認め合うことのできる社会に繋がる。しかし、ポール・ブルームの意見では、エンパシーという名の「気持ちの分かち合い」は特定の個人に焦点を当てすぎて、社会全体が良い方向に進む改革を実現するにあたっての障害にしかならない。


 この本、読んでみると、僕が予想していたよりもずっと「学術的」だと感じました。
 著者自身や家族の経験もまじえながら、第二次世界大戦後から現在までの、「エンパシー」に関して欧米で行われてきたさまざまな議論や最新の文献なども紹介されています。
 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ほど読みやすくはないけれど、イギリスという国の「多様性について、思索してきた歴史の深さ」を痛感させられますし、前述のワクチンの話にしても、「エンパシーは絶対的な正義ではない」ことを考えさせられます。
 「ワクチンで重篤な障害が残ってしまった個人」は想像しやすいけれど、「ワクチン接種のおかげで、感染せず、何も起こらなかった人たち」のことはイメージしにくい。
 だからといって、「あなたは運が悪かったと思って諦めるしかないよ」と言い切れる人ばかりの世界は、あまりにも冷たい。

「多様性」「他者の靴を履くこと」が錦の御旗のように語られることは多いけれど、こういう「すでに多くの人が『エンパシー』の難しさについてすでに議論をしてきた歴史」を踏まえている人はほとんどいないと思います。
 英国が通ってきた道を、いま、日本はなぞっているのです。
 紹介したいところが多すぎて困ってしまうので、興味を持たれた方は、ぜひ、読んでみてください。


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