Kindle版もあります。
ちばてつや
「あきおがいなくなって、わたしのその後の人生は本当に寂しくなった。
(中略)
父・正彌をはじめ千葉家の人間は皆、個性的だ。だから、なおさら、あきおが欠けたあとは「1色足りない虹」のように思えてならない」(本書より)ひたむきで明朗な少年たちを主人公に、「魔球」中心だった野球漫画に新たな境地を開いた『キャプテン』『プレイボール』で知られる漫画家ちばあきお。
長兄・徹彌(ちばてつや)を筆頭として、
次男・研作(ちばてつやプロダクションマネージャー)、
三男・亜喜生(ちばあきお)、
四男・樹之(原作家・七三太朗)と、
千葉家の四人の兄弟はみな漫画に関わり、日本の漫画史に燦然と輝く実績を残した一家である。
あきおは1984年に惜しくも亡くなったが、代表作の『キャプテン』の続編『キャプテン2』(コージィ城倉・作)が描き継がれ大ヒットしている。なぜ連載開始から50年経った今も、多くの読者に愛されるのだろうか。
そしてあきおは、どんな思いを込めて、それらの作品を描いていたのだろうか。ちばあきおの長男である著者が、漫画原作者の武論尊、漫画家の里中満智子、江口寿史、高橋広、コージィ城倉、担当編集者、
そしてちばてつやを始めとする千葉家の人々など、関係者へのインタビューを通して、在りし日の父、そして日本の漫画史をも描き出すノンフィクション。
『キャプテン』、僕が子どもの頃(もう40年くらい前)に、大好きだった記憶があります。
40年前の僕は、「こんなに努力だけでうまくいくものなのだろうか?」「墨谷二中でそんなに練習して上手くなれるんだったら、青葉学院にいるときに、もっと頑張っていればよかったのに」なんて、ちょっと斜に構えて読んでいたはずなのに、いつのまにか、引き込まれてしまっていたのです。
主人公・谷口タカオは「努力の人」ではあるけれど、そのきっかけは、野球の名門校からの転校生ということで、みんなから予想外に期待されてしまって、「その期待にこたえるため」なんですよね。「僕は青葉台ではまったくダメな選手だったんだから、期待しないでくれ!」と言えずに、努力で期待と現実のギャップを埋めようとしてしまう。
そういう「見栄」みたいなもので自分を縛ってしまう感覚は、なんだかとても共感できたのです。
僕自身が、谷口キャプテンみたいに努力することはなかったとしても。
その『キャプテン』を描いたちばあきおさんが亡くなられたニュースを見たときには、驚きました。
あんなに「がんばる主人公たちのマンガ」を描いてきた人が、自分で自分の人生を投了してしまうなんて……
お兄さんのちばてつやさんはその後も活躍を続けていたのですが、週刊少年ジャンプ的な「努力・友情・勝利」というマンガが流行らなくなってきて、ちばあきおさんも「時代についていけなくなった」のかな、とも思ったのです。
でも、なぜか『キャプテン』は、ときおり読み返していて、「やっぱり僕も、もう少しがんばらなくちゃな……」みたいな気分にはなるんですよね。
『キャプテン』には魔球は出てこないし、秘打もない。
歴代キャプテンには圧倒的なカリスマがあるわけではないし、負ける試合もけっこうあります。
それでも、墨谷二中の野球部は続いていく。
ちばあきおさんは、1984年9月に亡くなられています。
この本は、ちばあきおさんの長男である千葉一郎さんが、当時の関係者に話を聞き、家族の一員としての自身の記憶もあわせて、漫画家・ちばあきおの足跡を記録したものです。
一郎さんは、「家族としてのちばあきお」だけではなく、ちばあきおの作品の魅力や特徴についてもあらためて深堀りしています。
長年ちばあきおさんのアシスタントをつとめていた漫画家・高橋広さんの話の中から。
高橋が、父のアシスタントに加わったのは1975年で、すでに『キャプテン』『プレイボール』の連載が始まっていた。アシスタントになる以前、高橋は父の作品をどのように見ていたのだろうか。
「あきお先生の作品は当然、読んでいた。特に面接の前日には『キャプテン』や『プレイボール』を読み返してね。なにか感想を求められたら答えられるようにしていった。
ぼくが好きなのか……。そう、たとえば谷口が夜中にひとりで、神社の境内で特訓するシーンがあるよね。そういう場面で、先生は絵では誰もいない夜の神社を描きながら、描かれている場所の向こうからかすかに聞こえてくる、ボールが壁に当たる音だとかバットが風を切る音だけで『孤独な夜の特訓』を表現するんだよね。
考えてみれば、谷口がこういう特訓をしていることは、ほかの部員は知らないわけだから。こういう描き方のほうがリアル。こういった、敢えてその情景を見せないことでリアリティを際立たせる演出は、本当に素晴らしいと思う。そして、先生の作品すべてを貫く哲学のようなものが感じられる。
あとね、『キャプテン』の登場人物で僕が好きなのは、なんといっても近藤。あのキャラクターが好きというか、『近藤みたいに生きられたら、人生楽しいだろうな』と思う。でも、実際にはぼくは東北の生まれで、近藤の関西人丸出しのキャラは真似しようと思っても無理。だからこそ憧れるんだよね」
アシスタントとして父と働きながら、漫画について、高橋はどんな教えを受けたのだろうか。
「『迷ったら描くな』ということを、よくいわれた。たとえば外野フライを捕球するシーンなら、背景にスタンドの観客がいたりする。それをどこまで描くかというのは結構、難しい判断なんだ。そして、最後に原稿を仕上げる段階でぼくが悩んでいると、先生は『迷ったら描くな』と。さらに『もっと白くしろ』といわれたこともある。独立して自分の作品を描くようになって、先生のいっていたことの真意が少しずつ、わかるようになった。やっぱり、簡単に見える絵ほど難しい。そして、先生は「そこから逃げるなよ」といっていたんだ」
ちばあきおさんは落語が好きで、「日常」を淡々と描いていくことに長けていた、だからこそ、読者はダラダラと読み続けてしまうのではないか、と著者は述べています。
また、作品には女性キャラクターが少なく、漫画のなかで登場人物の「肉体」を描くことが得意ではなかったのではないか、とも。
絶筆となった『チャンプ』では、「人気を獲りに行った」面があって、そこで、「人間の肉体」を描くことやドラマチックなストーリーに挑戦することのプレッシャーは大きかったのかもしれません。
ボクシングを題材にした漫画であれば「身体」を描くことは避けられなかったでしょうし。
几帳面な性格だったのだと思う。幼い頃から機械いじりが好きで、家のラジオが壊れたときも兄弟たちが叩いたりしているのを制して分解し、きちんと直したという。機械を分解すれば、もとに戻すには正しい手順を踏まなければならない。それが苦にならない性格だった。
あきおの几帳面さを物語るエピソードを谷口(忠男:『キャプテン』の担当編集者)が教えてくれた。
「あきおさんとは、よく飲みに行ったけど、たまに、その店のマスターやママから色紙を頼まれることもある。有名な漫画家だかあら当然といえば当然だが、そんなときも、あきおさんは鉛筆で下書きをしてからカラーマジックで色紙を描くんだ。ぼくも漫画誌の編集者だから、多くの漫画家とつきあいがあったけど、色紙を頼まれて下描きをする漫画家は、あきおさんだけだったね」
谷口は、あきおの人柄について「とても、やさしい人だった」と何度も繰り返したこの「やさしい人」というのは、今回の取材で多くの人から共通して聞かれた、ちばあきお評でもある。具体的には、どんな風にやさしかったのか。母・文江に訊いた。
「そうね。たとえば、新しくアシスタントになった人がいたとして、仕事ぶりは真面目でも、漫画家のアシスタントというのは『いつかは独立して、自分の作品を描きたい』という夢を持っている人たちだから、もし、お父さんの目から見て『この人にはそれだけの才能はない』という場合には、はっきりとそのことを本人に伝えていた。アシスタントとしては真面目で有能ならば、お父さんとしては本当は働いてもらったほうが助かるはずなのに、その人の将来を考えたのだと思う。本人には厳しいいい方に聞こえたかもしれないけど『べつの道に進んだほうがいい』と告げて、辞めてもらったことが何度かあったわ」
漫画家になること、そして漫画家として作品を発表し続けることの苦しさを、あきおは誰よりも知っていたのだろう。あきおのやさしさは、その苦闘と表裏一体だったはずだ。
著者は、几帳面な漫画家・ちばあきおが漫画家として連載作品を描き続けていくことのプレッシャーもあり、アルコールに依存していく様子も書いています。
亡くなられてから、もう40年近くになる、という時間の流れが、それを可能にさせた、という面はあるとしても。
1984年には、あんな「がんばるしかない!」ってマンガを描いていた人が、なんでそんな死に方をするんだ……と少し憤りすら感じていた僕も、いま、この本を読むと、「創作の世界で生きていくことのプレッシャー」と「若くして亡くなってしまったけれど、当時の子供たちを感動させ、その後もずっと読み継がれる作品を遺したことの凄さ」に、「そんなに悪い人生じゃなかったよね……」と、感じました。残された御家族には、複雑な感情はあると思いますが。
2019年からはコージィ城倉さんによる『キャプテン2』の連載が現在も続いており、『プレイボール2』も2021年に全12巻まで描かれ、完結しています。
『キャプテン』って、スポーツ苦手人間(観るのは嫌いじゃないけど)の僕にとっても、ずっと「こんなスポ根、好きじゃないはずなのに、なぜか忘れられないマンガ」なんですよ。
それは、僕だけじゃなかったみたいです。