Kindle版もあります。
「バッグが当たってんだよ!」
誰もが日常的に経験する電車での移動。ただ、その車内という空間は、見知らぬ他者たちと、閉ざされた中で一定の時間を過ごすという特異な空間でもある。
本来リスクやストレスをもたらすはずの空間を穏やかものとする「車内マナー」はどのように発展してきたのか?正確かつ緻密な「定時運行」を運用するために国や鉄道会社が行った「啓蒙」や「満員電車」が人々に与えた影響、テクノロジーとマナーの関わりなど、移動の社会学の観点から丹念にたどり、鉄道大国・日本の姿を明らかにする一冊。
世界は昔に比べて不穏になっている、日本の治安は悪くなっている、そもそも今の若者たちは……と、年齢を重ねていくと、つい口にしてしまいがちなのですが、本当にそうなのか?
僕はそれを検証した本を何冊か読んできたのですが、中長期的にみれば、日本も、世界も、全体的にみれば、治安が良くなり、経済的にも豊かになっているのです。
fujipon.hatenadiary.com
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この本では「電車内での人々のふるまい、車内マナーの時代による変遷」と、それがどのようにメディアで報じられてきたか、が丁寧に紹介されています。
最近の電車内では、スマートフォンを操作している人の割合が多く、みんな本当におとなしくしているなあ、と僕は感じます。
地方都市暮らしなので、電車に乗る頻度はそんなに多くはないし、ラッシュアワーの混雑を体験することもほとんどないから、なのかもしれないけれど。
30年くらい前に、「日本では地下鉄で居眠りをしている人がいて、(その治安の良さに)驚いた」という外国人の話を読んだのを思い出しました。
現在の電車内でも、痴漢や酔っ払い、騒ぐ人、スマートフォンで会話する人はいますし、混んでいる車内にベビーカーで入ってくるなんて!という新聞の読者投稿で賛否が分かれることもあります。
電車内でみんながスマホばかりいじっている、と批判されることも多いのですが、スマートフォンのおかげで、移動中の手持ち無沙汰や、そこからくる苛立ちから解放されて、みんながおとなしくしていられる、というのは、良い面もありますよね。
(太平洋戦争の)戦前期の鉄道の規範のゆるさについては、大倉幸宏の『「昔は良かった」と言うけれど』(新評論、2013年)に詳しい。新聞、投書、書籍、論考などを資料に挙げられた「迷惑行為」の一部を簡単にまとめると以下のような状況であった。
・改札や電車に殺到するあまり怪我をしたり、衣服が裂けたりする
・窓から乗り込んで荷物を投げこむ
・席を奪い合う・占領する
・食物の空箱、包装紙、竹皮、果物の皮、飲料の瓶、新聞、紙屑、吸殻などのゴミ放置
・窓からゴミや吸殻を投げ、痰を吐く
・高齢者、子供、女性、病人、傷痍軍人に席をゆずらない
・車内における肌脱ぎや化粧
・不正乗車の多さ
こうした車内の環境や人びとのふるまいは、いまからみるとかなり乱暴で荒々しい。逆に、現在の鉄道規範において、喫煙、不正乗車、大量のゴミ、モノを投げる、痰を吐く、肌脱ぎなどに関するものは、あまり表現されなくなっている。したがって、いまはみることがすくなくなったふるまいといえる。その意味で、戦前期の車内の秩序は悪く、現在は良くなっていると考えるのが妥当だろう。
さらに1952年、サンフランシスコ講和条約に寄って連合軍が撤退するにあたって、極東軍司令部運輸局ミラー大佐から国鉄総裁宛に長文の書簡が送られた。ミラー大佐は国内の鉄道旅行で体験したことをもとにして、旅客列車の惨状を報告し、国鉄側へ改善を要請している。同書簡によれば、客車はゴミだらけで、水の出ないところもある便所、洗面所はきわめて不潔である。旅客は下着を整えるためにズボンを脱ぎ、男女問わず飲酒や宴会などの大騒ぎであり、寝台車には芸者や女性を連れ込んでおり、乱れきっている。こうした状況を改善するためには、鉄道員による清掃や新聞ポスターなどを通じた車内、洗面所、便所を清潔にする運動をおこない、車掌が飲酒や騒擾を抑制するための秩序維持の責任を持ち、警察などの力を借りることなどが提案されている。
太平洋戦争前後の日本の「鉄道マナー」は、現代人からみると、ひどいものだったようです。
僕が子どもだった、40年前、1980年代くらいのことを思い出しても、電車や新幹線で宴会をして大騒ぎをしている大人がいましたし、乗り物酔いしやすかった僕はタバコの煙でさらに気分が悪くなっていました。車内禁煙になったのは、そんなに昔の話ではないのです。
上記の記事によると、「1976(昭和51)年8月、新幹線こだまの16号車・自由席の1両に禁煙車が導入された」そうで、在来線には1981年にテストケースとして「禁煙車」が設けられたとのことです。
半世紀で喫煙者の割合は激減し、「禁煙車」から「喫煙車」となり、現在では、車内原則禁煙となっています。
敗戦後の鉄道における極度の混乱と凶悪事件の発生、高度成長期の犯罪件数の急増と爆破事件・暴動事件の連続と比較すると、1970年代後半以降、鉄道治安は大きく改善したといえるだろう。すくなくとも取締りをする鉄道公安職員側においては「平和」になったという理解があった。しかし、その一方で、前節で述べたように新聞などでは、鉄道の規範は劣化しているといわれ続けてきた。そして、乗客たちは依然、イライラ、ムシャクシャしているようにみえる。では、この鉄道会社と鉄道利用者のあいだの認識の矛盾──鉄道治安は良化/悪化した──をどのように理解すればいいだろうか。
1980年代以降に鉄道の車内で起こった事件といえば、最初に思い出す人も多いであろう、1995年(平成7年)3月20日の「地下鉄サリン事件」があるのですが(あの事件を「鉄道マナー」で語るべきではないのかもしれませんけど)、総じて、電車の車両内は、清潔で静かで穏やかになってきているにもかかわらず、「乗車マナー」の悪化と改善が訴えられ続けているのです。
著者は、20世紀の終わりから、携帯電話(スマートフォン)の普及にによって、車内の「迷惑行為」が、車内での携帯電話での通話から「歩きスマホ」などの「ながら操作」に移っていったことを紹介しています。
当初は「医療機器の誤作動の危険がある」と、車内での携帯電話の使用を控えるようアナウンスされていたのですが、その後の研究や機能の改善によって、最近の機種では医療機器への影響はほとんどない、と考えられています。
しかしながら、「公共の場所」である電車内で「私事で誰かと通話する」のは忌避されています。
周りの人も迷惑というか、気になりますよね。聞きたくなくても聞こえてしまうし、わざわざ耳を塞ぐのも大袈裟だし。
電車内で通話する人は、最近はほとんど見かけなくなりました。
携帯電話が普及し始めた時期には、けっこういたのですが。
歩きスマホや車内での化粧については、「匂いなどの刺激や危険性と共に、自分がその人から配慮されていない、存在を重んじられていない」という不快感もあるのだと思います。
話しかけられたりするのは「迷惑」だけれど、「誰もいないようにふるまわれると不快」だし、車内が静かに、穏やかになっていくにしたがって、より気になる閾値が下がってしまう、という面もありそうです。
誰かの荷物が自分にぶつかる、なんていうのは、戦前・戦後の乗客の傍若無人なふるまいよりずっと穏健ですし、当事者の悪意がない場合はほとんどです。
でも、「昔に比べたら、このくらいたいしたことない」とは、なかなか思えない。
環境や行儀は良くなるのに、人びとの不機嫌や不安感は高まっていく──このような秩序のパラドクスとして興味深いのは、車内におけるゴミの扱いである。現在、自分の足元、近くの座席、網棚の上などに、誰のものかよくわからないモノが置き去りにされているところをみると、どのように感じられるダロウか。なんとなく落ち着かず、不快で、不安な気持ちにならないだろうか。たとえば、2023年11月、東海道新幹線で不審物が発見されて、運転が見合わされた。しかし、結局、それは食べ終わった弁当箱、つまりゴミだったという。
鉄道という公共空間に残された所有権があいまいなモノの扱いは難しい。住宅などの私有地であれば、その所有者・管理者に帰属するものと判断しやすい。しかし、「みんなの空間」である公共空間にとり残されたモノは帰属先があいまいなため、とたんにその扱いが難しくなる。
昔だったら、「誰かが置き去りにしたゴミだろう」と心配もしなかったようなものが、マナーの全体的な改善によリ「何か危険なものではないか」と思われてしまう時代ではあるのです。
あの地下鉄サリン事件の影響は、30年経っても続いているのかもしれません。
この本を読みながら、「インターネット社会とそのマナーの変遷」というのは、この「鉄道マナー」と、よく似ているなあ、と思っていました。
創生期よりもずっと、全体的なマナーも使用者の成熟度も向上しているはずなのに、だからこそ、「求められるハードル」が上がり続け、昔は気にならなかったことに、不安や不満を感じてしまうのです。