琥珀色の戯言

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【読書感想】始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

秦が中華統一を成し遂げた要因は、始皇帝(嬴政)の人間力、そして有能な臣下たちとの“関係性”にあった!
統一戦争を支えた李信、王齮、桓齮、蒙武ら将軍たちは、戦時でどう動き、何を成し遂げたのか。

映画「キングダム」の中国史監修も務めた始皇帝研究の第一人者が、「史記」や近年出土の古代文献をもとに、統一戦争の実像を解説。
李牧・龐煖(ほうけん)ら、秦に立ちはだかった英傑たちの史実にも迫る。


 漫画、そして実写映画も大ヒットしている『キングダム』が、秦による中華統一の時代を描いていることで、新たな中国史ファン、春秋・戦国時代好きになった人が増えてきました。


fujipon.hatenadiary.com


 僕が子供の頃に、NHKの『人形劇・三国志』を観て、孔明カッコいい!声が頭良さそう!(のちに、孔明の声をあてていた森本レオさんの性的スキャンダルが話題になった際には「俺の孔明のイメージが……」と落胆したものです)とすっかりハマってしまい、三国志関係の本を読み漁るようになったんですよね。
 専門的な本を読めば読むほど、諸葛孔明は内政において名宰相ではあったが、軍務はそんなに得意ではなく、『三国志演義)』では悪役として描かれがちな曹操が、人材登用や政治の改革において、先進的な人物だということがわかってきました。のちに三国を統一したのは、魏を司馬仲達の子孫が継承した晋だったわけですし。
 
 『三国志』からはじまって、その前後の時代、とくに司馬遷の『史記』で描かれていた春秋・戦国時代の覇者や外交家たちの駆け引きや、戦国時代の後半から商鞅の改革などで急激に国力を増した秦の天下統一、それに抗う韓・魏・趙・楚・燕・斉の六国の戦いと、その後の楚漢戦争(項羽と劉邦の戦い)にも興味を持って、歴史の本や小説を読んでいました。

 『刺客列伝』での荊軻始皇帝暗殺未遂とか、秦の攻勢を一身で支えた名将・李牧の悲運など、心惹かれる場面が多かったのです。

 司馬遼太郎さんの『項羽と劉邦』で、個人としては圧倒的な能力を持っていた項羽が、負けて、逃げてばかりだった粗野な劉邦の粘り強い戦いに敗れたのを読んで、「人望」というものの不思議さを思い知らされました。戦争における補給や食糧の重要性も。

 正直、『キングダム』以前は、僕も秦の始皇帝に対して、「焚書坑儒」とか「庶民に重い税金や労働を課した独裁者」というネガティブなイメージを持っていました。
 始皇帝が冷徹で臣下を使い捨てにするような人物だったから、その没後に各地の反乱が激化し、内部抗争もあって、あれだけの大帝国がわずかな期間で瓦解してしまったのだろう、と思っていたのです。


 この本の著者は、『キングダム』の中国史監修を務めている方です。
 『キングダム』は、これまでさまざまな歴史の本で秦の天下統一を読んできた僕にとっては「李信?王騎って……誰?」とツッコミを入れたくなるくらい、秦の天下統一という大きな歴史の流れや有名将軍の名前を除けば、「創作の部分がかなり大きい」のです。
 中国の春秋・戦国時代そのものが今から2200年以上も前で、信頼できる史料も、そんなに多くはありません。
 「監修」って言ってもなあ、という感じだったのですが、読んでみると、『キングダム』は「史実に完全に沿っている」わけではないが、「『こういうことだった可能性はある』というくらいには史料を精査し、尊重している」のだなあ、と感じました。

 そして、「独裁者」のイメージが強かった始皇帝(秦王嬴政)は、少なくとも、その生涯の大部分において、他者の意見にきちんと耳を傾けることができる明君であったのではないか、と思えてきたのです。
 あの時代、六国が存在するのが当たり前で、それぞれの国に王がいるのが当たり前でした。
「覇者」として他の国を号令する立場になった君主はいても、「天下をすべて自分の国にする」ことを構想し、実行した人は、始皇帝だけだったのです。

 始皇帝は、中国において「天下統一」という概念をはじめてつくった人でした。
 この本のなかで、始皇帝の行列をみた、のちの高祖劉邦が「男子たるもの、こんなふうになりたいものだなあ」と感嘆した、というエピソードが紹介されているのですが、当時の人たちにとっての始皇帝というのは、奇跡みたいな存在だったのかもしれません。
 ちなみに、項羽は、始皇帝をみて「俺が取って代わってやる!」と宣言した、という話が伝わっています。劉邦にしても「それを実際に聞いていたのは誰なんだ?」という疑問もありますし、その後の歴史を踏まえての誰かの創作が「歴史」として伝わっている話の可能性はありそうですが。

 秦王嬴政を支えた人材には、秦の本拠地・関中出身の「秦人」だけでなく、外国人である「非秦人」も多く含まれていた。非秦人とは、韓・魏・趙・楚・燕・斉から来た東方六国人を指し、彼らに活躍の場を与えたことも、秦王嬴政の強みであった。
 きっかけとなったのは、前237年の出来事にあった。秦王嬴政が秦王室の宗族の要請を受けて客(外国人)を追放する命令(逐客令)を下そうとしたときに、みずから対象となる楚出身の李斯が反対する上書をすると、李斯の意見を聞き入れてすぐに取り下げたのである。以後、秦は外国人を積極的に登用することになる。
 こうして秦王嬴政は、嬴姓一族の宗族から距離を置き、多様な人材を登用していった。それをなせたのは、嬴政が9歳まで趙の都の邯鄲で育ち、母国を知らなかったことが大きい。


 始皇帝自身も「よそ者」として幼少期を過ごしてきたからこそ、外国人に対しても寛容になれた、という面もあるのです。
 2024年の日本でさえ、SNSなどでみていると、「外国人」というだけで差別・排斥する人は少なからずいるのですから、「能力があれば出身国を問わない」というのは、戦国時代の中国では、画期的なことだったと思われます。それまでの六国でも、外国人の「食客」を丁重に扱い、必要時にはその力を借りる、ことは行われていたのですが、始皇帝の秦では、丞相・李斯をはじめとして、他国出身者をより積極的に登用していきました。自分の判断が誤っていたと感じたら、すぐに撤回するというのは、トップの立場であれば、けっして簡単にできることではありません。
 秦王嬴政は、家柄や出身国が重視される当時では珍しい、「仕える側にとっても、成果を挙げれば報いてもらえる、魅力的な君主」だったのではないかと思います。
 
 そうだよね、ただ「秦王」というだけで、秦が強国だった、というだけで、天下統一が成し遂げられるわけがないのだよなあ。


 著者は、史料に基づいて、秦の時代の「数学的レベル」を紹介しています。

 岳麓秦簡(がくろくしんかん)の『算数書』(現代は『数』から、戦争における計算の例を挙げてみよう。始皇帝の時代、秦の官吏は戦争に関わる計算を行なっていた。


「卒百人、戟十、弩五、負三、問うに各幾可を得んや」


 この設問の意味は、一般兵士100人に戟兵と弩兵と負養兵(軍糧運搬の補給兵)を10、5、3の割合で動員するとしたら、それぞれの人数はいくつになるかというものである。
 その解答は、次の通り記されている。

「得て曰く、戟五十五人十(八)分人の十、弩廿七人十八分人の十四、負は十六人十八分人の十二」

 答えは、戟兵が55人と18分の10人、弩兵が27人と18分の14人、負養兵が16人と18分の12人となる。正確な比例計算をするために端数まで出している。
 しかし単なる計算以上に、戟兵と弩兵の割合を2対1に配分することや、100人の兵士の軍糧を運搬するための兵士を一定の比率で配していることに関心がいってしまう。始皇帝兵馬俑坑には戟兵、弩兵と騎兵、戦車兵が見られる。弩兵と弓兵は最前列に並び、後方には戟兵が密集してならぶ。効率的な割合は、算数の計算で出していたのである。


 始皇帝の時代、今から2000年以上前に、戦争の数学は、ここまで進化していたのか、と驚きました。
 実際に、計算通りの配備や運用ができていたかはわかりませんが、「昔の戦争なんて、どんぶり勘定でやっていたのだろう」と僕は思い込んでいたのです。
 度量衡という計算に用いる単位の統一は、始皇帝の業績として挙げられることが多いのですが、こうした「数学の発展と実用化」が、それを必要としたのでしょう。
 この本のなかでは(少し『キングダム』のネタバレになりますが)、のちに李信が南の大国・楚を攻めたとき、秦の名将・王翦と必要な兵力の見立てで対立したことも書かれています。


 この本を読むと、遺された史料の少なさと、それをあれほどの物語にしてしまう作家の想像力に驚かされもするのです。

楊端和(生没不詳)──趙を滅ぼした若き将軍

史記』では秦始皇本紀に3回だけ登場する秦の武将である。
 始皇九(前238)年の記事は、「楊端和衍氏を攻む」。このときに楊端和は、単独で魏の衍氏を攻めた。


 残り2回、十一(前236)年、十八(前229)年の記事も、短い一文で他の武将と共に他国の都市を攻めたことが書かれているだけです。
 ここから、あの長澤まさみさんが演じている楊端和というキャラクターをつくりあげているのです。
 史実に沿っている、とは言い難いけれど、決して「完全オリジナルキャラクター」でもない。

 秦の始皇帝の天下統一の過程がどこまでわかっているか、そして、作家の想像力がどれほどすごいものなのかが伝わってくる、そんな新書だと思います。
 

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