Kindle版もあります。
森永卓郎が全日本人と息子康平に遺す激動の時代を生き抜く知恵と心のありかた。金、生き方で道を誤らないための最期の提言!
原発不明がんと闘いながらベストセラーを執筆し続ける森永卓郎と、現場感を重視した実践的な独自の経済学を展開する息子の康平が、いまの日本のさまざまな病巣についてガチンコで語り合った魂の一冊!!
政府への不信、エリートたちによる搾取、挑戦する気概を失わさせる絶望的階級社会……それでもいまこれからを生きるしかない私たちは、この現実とどう向き合い、乗り越えていくべきなのか――。
第一章 来たるべき大恐慌からいかに逃れるか 森永卓郎
第二章 分断が引き起こす内戦・世界大戦の危機 森永康平
第三章 「令和恐慌」をもたらすのは誰か 森永卓郎
第四章 「投資アレルギー」につける薬 森永康平
第五章 なぜ金融業界は詐欺師ばかりなのか 森永卓郎
第六章 マクロとミクロの混同が日本をダメにした 森永康平
第七章 「身分社会」に潰されないための生き方 森永卓郎
第八章 「自己責任おじさん」にどう対抗するか 森永康平
2025年1月28日に67歳で亡くなられた経済アナリストの森永卓郎さん。
2023年の12月に膵臓がんのステージ4であることを発表してからは、これまで以上に精力的で、鬼気迫る活動をされていました。
進行がんで、見た目もかなり痩せてこられているにもかかわらず、著書やメディアでの発言内容は、「日経平均は半分の価格まで暴落する」とか「財務省の陰謀論」とか、命が尽きようとしている人だからこその「遠慮ない指摘」なのか、妄想とか病気の影響の類なのか、見ている側としては半信半疑(というか、やや「疑い」寄り)だったのです。
僕は人生で日本のバブル経済とその崩壊、その後の長い停滞期からアベノミクス、コロナショックまでリアルタイムで体験してきたので(まあ、実際はバブル時代は地方の学生で、ジュリアナ東京では、なんかすごい格好で扇を持って踊っている人がいるみたいだ、というくらいの記憶しかないのですが)、コロナショック後からの右肩上がりの株式相場しか経験していなくて「経済は長期的には成長する」と「インデックス投資は無敵」と信じて疑わない「投資信仰ブロガー」には騙されないぞ、と思い続けています。
あの人たちは、「経済成長は絶対ではないし、人類の長期的な経済成長を盲信するには、ひとりの人間の寿命は短すぎる」と疑問を投げかけると「この人は複利を知らないのか」などと訳のわからない反論をしてくるのです。自分に都合の悪い意見は「その人が無知のせい」にしてしまえるのは、すごい才能だよ本当に。
僕は投資が悪いことだとは思わないし、自分でも余剰資金でやっていますが、「本当になくなったら困るお金は投資に回してはいけない」「お金を借りて投資はしない」ことだけはこれまで守ってきました。
この本、森永さんが亡くなられた2025年1月の前年の2024年にはすでに草稿ができあがっていたそうなのですが、森永卓郎さんと、その息子さんである森永康平さんが、「今後の日本・世界の経済」や「現在の社会問題とこれからの課題」について、対談ではなく、交互に章を設けて語っているものです。
(森永卓郎さんの章)
私自身、これまでにいろいろな投資をしてきている。テレビや出版を通じて、「今買うべき投資商品」をおすすめしたこともある。
だが、投資をおすすめできるのは、それが「割安な時」だけだ。株価が安いときは「株を買え」と言えるし、不動産が安いなら「マンションを買え」と言える。 だが、現在、日経平均はバブル期を超えて史上最高値を更新している。株が割安でないのは一目瞭然だ。
不動産はもっとひどい。
「不動産経済研究所」が発表した、2024年8月の東京23区新築マンション平均価格は、1億3948万円。半年ごとの統計でも、23区の新築マンション価格は2年連続で1億円を超えている。
これは異常な割高水準だ。
1億円のマンションなど、平均的なサラリーマンには買えない。住宅ローンで借りられる金額は年収の5〜7倍が目安と言われているが、国税庁が発表した「令和四年分民間給与実態統計調査」によると、2022年(令和四年)の平均年収は458万円に過ぎない。1億円のマンションは、平均年収の20倍以上であり、買うのは到底ムリということになる。
では1億円のマンションは、いったい誰が買っているのだろうか。
結論を言うと、「投資家」が「投資目的」で買っているのだ。自分が住むためではなく、キャピタルゲイン(資産価格が上昇したことで得られる利益)を取るのが目的だ。
(森永卓郎さんの章)
たとえば、「これからはEVの時代」と騒ぎたてた結果、EVメーカーであるテスラや、他のEVベンチャーの株価がガンガン上がったが、これもすぐ限界に達してしまった。
EVは比較的割高なうえ、航続距離に制約があり、寒冷地では性能が低下するなど、消費者のニーズを満たしていない点が多い。2023年の後半以降、世界的にEV販売が減少に転じていた。
結局、ハイブリッド車が一番手頃で信頼できるということがわかって、売れに売れている。トヨタの2023年度決算では営業収益が過去最高となり、営業利益が初の5兆円超えを果たしている。「EVバブル」はすでに崩壊したのだ。
(森永卓郎さんの章)
「大恐慌」が発生した場合に何が起こるか。
非常に長期に渡り、途轍もない値下がりが続く。それが「大恐慌」なのだ。
(中略)
ちなみに、日本のバブル崩壊も、大恐慌レベルの長期停滞をもたらした。日経平均株価は1989年の年末に史上最高値をつけた後、年明けから下落相場に入り、約18年かけて83パーセントも下落している。
つまり、「大恐慌」が起きると、株価は8割以上も下落し、約20年もの長期低迷期を迎えるということだ。
こんな大暴落が起きれば、投資家はたまったものではない。保有株が8割値下がりして、しかも20年も低迷するのだから。
これでも「長期投資なら安心」と言えるだろうか。
私が必死に訴えているのは、このことだ。
これから20年以上にもわたり、株価が現在の4分の1、5分の1に下落する時代がやってくる。だから早く逃げろと言っているわけだ。
森永卓郎さんは、ITバブルやAIバブル、環境バブルなど、さまざまなバブルで株価は上がってきたけれど、バブルのネタはもう尽きてしまった、と考えておられたようです。経済成長を追い求める資本主義には、もう限界が来ているのではないか、とも。
息子の森永康平さんは、「相場がどう動くかを予知することは不可能だが、大暴落が絶対に来ないというのも無理がある」と述べておられます。株主である富裕層にばかり有利な仕組みになっている現在の資本主義に、自分たちには分け前が回ってこない労働者たちが世界中で強い不満を持っていることも指摘しています。
(森永康平さんの賞より)
いつの時代も「資本主義はいずれ崩壊する」と予想する人はいる。1972年に有識者の集まりであるローマ・クラブが発表した「成長の限界」は、資本主義の衰退を予言したものとして有名だ。そもそもマルクスが『資本論』を発表し、資本主義に内包されている矛盾を指摘したのは1867年のことだ。決していまにはじまったことではない。
父の指摘も含め、マルクスに代表される資本主義批判には一定の真実が含まれていると考える。ただ、それらの指摘があっても、ずっと資本主義が続いていることもまた事実である。
そもそも、資本主義批判を展開している人が資本主義を批判する書籍をAmazonで売っていたり、持論を展開する動画をYouTubeにアップしているのは滑稽だ。なぜなら、それらのサービスは資本主義を活用して巨大化した企業が提供するものだからだ。現代に生きる多くの人々は、株主としてではなく消費者として資本主義の恩恵を間接的に受けてお理、資本主義ではない世界で生きていけるのかはなはだ疑問である。
資本主義から完全に自由になっていない人が資本主義を批判してはいけない、とは言わないが、資本主義が崩壊したあとの世界を同時に論じていないのであれば「資本主義はいずれ崩壊する」という主張を鵜呑みにはできない。
私自身としては、資本主義がただちに崩壊するとは考えていないが、かといってこれまで通り、右肩上がりの経済成長の下でこれまで通りの資本主義が続くと想定するのも危険だと思っている。
読んでいて、「親子なのに、こんなに意見が違うんだなあ」と最初は思っていたのですが、あらためて考えてみれば、僕だって自分の親や子どもたちとは考え方や世の中の見方が違うし、むしろそのほうが当然なんですよね。
亡くなられる前の森永卓郎さんの言説は、陰謀論っぽいというか、「これは炎上ビジネスなのか?」と疑うほどの「極論」が目立っていたのですが、本人の病状を思うと、誰もあえて苦言を呈することもできず……という印象でした。それに対して、息子さんだからこそ、「それは違うんじゃないか」と指摘されているところもたくさんあって、僕はなんだか安心したのと同時に、「自分の縮小コピー」をつくらなかった森永卓郎さんは良い親だったんだな、とも感じたのです。
息子さんとしたら、亡くなられる直前の「遺言モード」の父親の言動に対して、「俺も同じ考えだと思われたらたまらない」と、けっこうハラハラされていたのかもしれませんね。
卓郎さんは「極論」というか「強迫観念」みたいな主張が多いのですが、康平さんの主張は、穏健で常識的なものばかりだと感じました。
本としては、拓郎さんの「極論」があるからこそ、康平さんの「バランスが取れていて、真っ当ではあるけれど、面白みはない予測」も読み流さないで納得できる、という面もありました。
僕自身は、なんのかんの言っても、人類は、次のバブルの種を見つけてくる、その繰り返しになるのではないか、と考えています。
もちろん、人類もいつかは終わるときが来るし、大恐慌も来るのでしょうけど。
「長期投資」とはいうけれど、人類の歴史にとって20年間は瞬く間でも、ひとりの人間にとっては、5年や10年でさえ、短くて、長い、というのが僕の実感です。急にお金が必要になるときはあるし、そのときに、売るのが適切な株価になっているかはわからない。
大きな戦争とか感染症が大流行する時代になれば「お金」の価値そのものがリセットされる可能性だってあります。
コロナショックについては、ある意味、あのくらい大きな流行病があっても、人類は持ちこたえられるようになっているのだな、とも感じました。
結局のところ、未来のことは、誰にもわからないのだから、あまり極論に引きずられないのがいちばん安全策なのかな、と思います。
森永卓郎さんは賢い人だけれど、人というのは、自分の経験に引きずられやすいし、自分の寿命の終わりを意識すると「これまでの世界も終わる」と考えてしまう傾向は、誰にでもあるのかもしれませんね。
お二人は、さまざまな論点に対して、それぞれの立場で語っておられるのですが、とくに僕の印象に残ったのは、康平さんの「マクロとミクロの混同」についての話でした。
財政政策や金融政策を論じる際には、「できる限り多くの国民を救おう」とか、「社会的弱者に福祉を提供しよう」といった国全体を俯瞰した「マクロ」の視点が必要になってくる。
一方、「ミクロ」の議論はまた別だ。業績不振に苦しむ企業が社員をリストラしたり、不採算事業から撤退する、というのはミクロなら正しい。
国家における「マクロ」の政策論では弱者を救う方策を考えるべきだが、企業や個人といった「ミクロ」の世界では資金力や物量の制約の下で、無駄を削減したり、競争を肯定したりするほうがうまくいくわけだ。
日本ではマクロとミクロが混同されがちだ。「マクロ」を担う政治家や官僚たちほど「弱肉強食」を肯定する一方、本来「ミクロ」の企業経営者が、競争を避けぬるま湯の労働環境を維持している。
ミクロでは合理化を追求するが、マクロでは弱者にセーフティネットを提供する。
と、こうした社会ならみな安心して競争できるので、経済全体も順調に成長していくだろう。
ただ、なぜか日本の政治家はマクロとミクロを混同してしまう。いい例が、ビジネスにおいて成功した企業経営者たちを政府の有識者会議に呼び、マクロ経済政策を議論させていることだ。
もちろん、国全体の経済政策を議論する上で、経営者の知見やアイディアも傾聴すべきだが、彼らはあくまで「ミクロ」の世界における成功者だ。本来、マクロ政策を論じるには不適任だろう。時としてミクロの観点からは正解の行動が、マクロの観点からは不正解になるなど、逆転現象が起きることがある。これを「合成の誤謬」と呼ぶ。
確かに、日本ではマクロとミクロは混同されがちに思われます(と書いたあとに、第2次トランプ政権下のアメリカのイーロン・マスクさんのことを思い出しました。日本に限った話じゃないみたいです)。
僕はインターネット、SNSの普及が「視点だけが神や支配者層になってしまった人々」を大勢生み出していると感じています(僕もそのうちの一人なのでしょう)。
ネット以前も、居酒屋で政治談義をするオッサンたちはたくさんいたのですが、ネットでは、不特定多数の人の眼に触れる場所で、弱者を責めたり、他者の誤りを指摘したりしがちなのです。
セーフティネットに救われている人たち、公的機関や他者に救いを求めている人たちに、いつ「そちら側」になってしまってもおかしくない大多数の「ふつうの人たち」が厳しい態度をとるのは、「自分の正義に酔える」以外のメリットが思いつきません(それが快楽なのだ、ということなのだろうか)。
「国を守るためには徴兵制が必要だ!」と叫ぶのは簡単だけれど、自分が徴兵されて前線で死の恐怖や餓えにさらされるのを「覚悟」しているのか?
僕はネット社会だからこそ、「自分が今いる、その立場から見た世界」を大切にすべきだと考えているのです。
ある意味、「極論と常識が対峙しているだけの本」ではあるのですが、森永卓郎さんは晩年に何を考え、息子さんはそれをどう見ていたのか、親子って(とくに子供の側にとっては)大変だよなあ、などと嘆息してしまう、興味深い内容でした。










