琥珀色の戯言

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【映画感想】ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング ☆☆☆☆

トム・クルーズの代表作で、1996年の第1作から約30年にわたり人気を博してきた大ヒットスパイアクション「ミッション:インポッシブル」シリーズの第8作。

前作「ミッション:インポッシブル デッドレコニング」とあわせて2部作として製作され、「デッドレコニング」から続く物語が展開。前作のラストで世界の命運を握る鍵を手にしたイーサン・ハントと、その鍵によって導かれていくイーサンの運命が描かれる。また、これまでほとんど語られてこなかったイーサンの過去などが明かされる。シリーズおなじみとなったトム・クルーズ本人によるスタントシーンも健在で、今作では飛び回る小型プロペラ機にしがみつく空中スタントなどが見どころとなる。


missionimpossible.jp


2025年映画館での鑑賞8作目。公開日からほぼ1週間後の平日のレイトショーで観ました。字幕版。観客は50人くらいでした。
割引料金の平日のレイトショーとはいえ、けっこうお客さんいるなあ、と思いました。
上映時間も2時間半を超えるし、久しぶりに洋画の大作アクションを映画館で観た気がします。


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前作『デッド・レコニング』は、それなりにはヒットしたものの、制作側が想定していた成績には及ばず、当初公開予定だった「後編」を再構築しての『ファイナル・レコニング』。
ポスターでトム・クルーズの「俺を信じてくれ/最後のお願いだ」という言葉を観るたびに「今度は面白いから映画館で観てね、ほんと頼むから、今度も(興行的に)コケたらやばいから」と、僕は心の中でトム・クルーズの心情を類推せずにはいられませんでした。

前作『デッド・レコニング』が2年くらい前だったので、Netflixで前作を1.5倍速で確認し(それでも2時間近くかかるのです)、当日は3時間近い長尺に備えて水分を極力摂らないようにしていました。

結局のところ、映画を観ながら、いまどのくらい経ったのかなあ、と気になったのは1回だけで、次から次へと繰り広げられるアクションシーンの連続に、息をのみながら観ていたのです。

個人的には、潜水艦の内部のシーンが好きで、「おお、スーパーファミコンの『セプテントリオン』みたいだ!」と、ワクワクしてしまいました。わかりやすい「敵」とのバトルではなくて、「状況」や「環境」が障害となり、静かな闘いが繰り広げられていく緊迫感!
いやまあ、あんなにタイミングよくピンチになるものなのだろうか、と思うところはたくさんあるんですけどね。

この『ミッション:インポッシブル』の『デッド・レコニング』『ファイナル・レコニング』の2部作に関しては、世界的な観光地巡りとアクションシーンの豪華さは白眉だと思います。

その一方で、敵が、いまさらながらの「暴走したAI」というのは、「古さ」を感じました(それこそ『ターミネーター』の第1作から、もっと言えば『2001年宇宙の旅』から、「それ」は仮想的として扱われてきたので)。
うーむ、これは『バットマン』のあの名作っぽい展開だな、とか、こんな世界の危機に、みんなあまりにもイーサン・ハントに任せすぎだろ、「プランB」を平行して動かすくらいのことはやるだろ普通、とか、『ミッション:インポッシブル』って、こんなに説教くさい大作スーパーヒーロー映画じゃなくて、気軽にみられるスパイ映画だったのになあ、とか、いろいろ言いたいことはありました。

『デッド・レコニング』では、「底知れない力がありそうなイケメン敵役」にみえたガブリエルが、『ファイナル』では、いきなりスケールが1/12くらいの小悪党っぽくなっていてがっかりしたり、最大の敵も「それだけの力があるのに、何まだるっこしいことやっているんだよ、イーサン・ハント活躍のお膳立てしすぎじゃないのか?」とツッコミどころも満載です。


ただ、映画を観終えて、エンドロールを眺めながら、僕はこの「あまりにご都合主義で、古くさいアクション映画をものすごくお金をかけ、トム・クルーズの体を張った演技で強引に押し切ってしまった作品」が、なんだかすごく愛おしく感じられてきたのです。

僕はもう50歳を超えた男で、これまでもたくさんの映画を観てきました。
最近のヒーロー映画は、ポリティカル・コレクトネスとか、ITとか、個人の自由意思とか、「正義や他人のためなんて建前は嘘くさい」という風潮とかで、「超人的な力は持っているけれど、他人のことは気にせず、共同体や正しさに引きずられない『クールな』ヒーローが増えてきたのです。
それはそれで現代的ではあるし、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の後、アンチテーゼ的に『デッドプール』がヒットしたり、やたらと「マルチバースもの」が乱立したりしてきました。

古典的な「みんなのため、正義のため」じゃないアンチヒーローが、いまの時代の「ヒーロー」として描かれることが多くなっていたのですが、僕は「なんかついていけない」とも感じていたのです。


最近公開された『サンダーボルツ』では、「自らのトラウマと戦うヒーロー像」が打ち出されて、ヒットしています。

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若者たちは、『デッドプール』をナチュラルに受け入れられるのかもしれないけれど、僕は「みんなのために闘うヒーロー」「痛みが伝わってくるヒーロー」が、なんだかすごく懐かしい。
『ファイナル・レコニング』は最新の撮影技術やトム・クルーズの渾身のアクションで、あえて「ものすごく豪華で、古典的なスパイ映画」をあえて2025年によみがえらせたのではないか、と思うのです。

観ていて感じたのは、「説教くさい」のと同時に、ものすごく「生きる」とか「希望を持つ」ことに振り切っていることです。
顔がアップになるたびに、トム・クルーズも年取ったよなあ、と感じるのですが、それでもトムは走り続けるし、危険なアクションシーンにも自分の身体を張っています。
これはさすがにスタントマンだろう、と思ったシーンの多くが、トム・クルーズ自身によって演じられていたことを鑑賞後に知って驚きました。

どうせCGだろう、スタントマン頑張った!という「すごいシーンを冷めた目でみてしまう習慣」を覆されまくりです。

その「トム・クルーズ本人が危険なシーンをやっているからすごい!」というのが、映画そのものの「面白さ」につながっているのか?と問われると、別にこれは『SASUKE』じゃないしなあ、トム・クルーズが生きていることそのものがネタバレでもあるし、とか、言いたくはなるんですけどね。
「これもトム・クルーズがやっているんですよ!」と作品外でアピールしなければ、観客が注目したり驚いたりしないシーンに「この作品としての必然性」がどのくらいあるのだろうか。

ただ、中学生のとき『トップガン』(1986年)を観て「アメリカってカッコいいな」と憧れ、同級生の女子が「トム・クルーズかっこいいよね~」とキャーキャー言っている(死語)のに反発していた僕も、これだけ長くその存在を見続けていると、トム・クルーズが現在の年齢(1962年7月生まれ)でここまで頑張っている、ということを心強く感じてしまうし、「僕もまだもう少し生きられるかな」と、文字通り「勇気と元気をもらえる」ようになりました。

ミッション:インポッシブル』がこれで最後になるのか、なんらかの形で続くのかはわかりませんが、きれいごとでも「みんなのために尽くせ、生きろ!」という、あまりにも古くさくて泥臭くて「クール」と対極にある(そして、現在は語りづらくなっている)メッセージは、今の僕には自分で思っている以上に刺さりました。

結局、「スター」っていうのは、ストーリーの整合性が、とか、こんな設定見飽きた、とか言われながらも、その人が存在し、頑張っているのを確認するだけで満足してしまう、「ただ、そこにいるだけでいい」存在なのかもしれませんね。

すごく新しい!とか、面白い!って映画ではないのだけれど、こういう映画を、映画館でたくさんの人に観てほしい!

僕を信じてくれ。最後のお願いだ。
(でも、きっとトム・クルーズも最後じゃないよね。『トップガン』の新作もあるみたいだし)


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