Kindle版もあります。
大人気ゲーム「ぷよぷよ」を失ったプログラマー、野茂をメジャーに流出させた300勝投手、箱根往路のゴール目前で倒れた大学生、石器発掘の〈神の手〉に騙された研究者――。人生には「まさか」がついて回るが、ニュースになるほどの不運や失敗に見舞われた人々は、その渦中にあって何を思い、その後も続く長い人生をどう生き抜いてきたのか。知られざる軌跡と人間ドラマを描く人気連載、待望の新書化!
読売新聞で連載されている、かつて日本中が注目したニュースの「あの人」は、いまどうしているのか。「その後」を取材した記事をまとめた新書の第二弾です。
こういう記事の常として、インパクトが強いものから採りあげられ、前回の新書と比べると、次第にパワーダウンしていっている、というか、「これは聞いたことがある」という有名な「その後」の話が多いとは感じました。
テレビゲーム『ぷよぷよ』をつくった会社の「その後」などは、「知ってはいるはずなのだけれど、記事を読むと、「ぷよぷよランド」の建設とか、『ぷよぷよ』が大ヒットしていた時代だって、すごい大風呂敷広げてるな、と感じた記憶がよみがえってきたのです。
でも、シリーズ最初のゲームが発売され、ヒットしていた段階では、『マリオ』や『ポケモン』だって、ここまで大きなコンテンツになり、映像化されて世界中で大成功する、なんて予想もしていませんでした。
「ぷよぷよ」シリーズは、会社の売上高を右肩上がりに伸ばした。すると、「売上1000億円」という新たな「野望」が生まれる。その柱が「ぷよぷよランド」の建設だった。
「ゲームの世界観に没入できるテーマパークを作りたい」
東京ディズニーランドをライバルに見立て、ドーム型の建物内にジェットコースターを走らせる計画を立てた。500億~1000億と見積もった事業費は、株式上場で捻出するつもりだった。1997年3月期からの1年間に130人を新たに雇い、社員を420人に増やした。
人件費の増加は、資金繰りの急速な悪化を招く、1997年12月、ボーナスの支払いが滞った。「何とか運転資金を貸してほしい」。有力な取引先だったセガの首脳に電話で泣きつくと、「仲間なので支えます」と伝えられた。
その後、セガからは「ぷよぷよの権利と引き換えなら10億円出します。権利は買い戻せます」との条件が出される。「急場をしのげればいい」と深く考えず、1998年2月、知的財産権の譲渡を決めた。手にした資金の大半は、社員へのボーナス支払いで消えた。
2億円の手形の決済期限が目前に迫っていた。前年に山一證券が経営破綻するなど日本は未曾有の金融危機にあり、新たな借金は難しかった。
「先行投資を急ぎすぎてしまった」。1か月後、広島市で記者会見に臨み、声を振り絞った。会社は約75億円の負債を抱えて倒産し、再建に向けて裁判所に和議を申請した。
『ぷよぷよ』は大ヒットし、キャラクターの饅頭『ぷよまん』も話題になりました。
とはいえ、ここまで杜撰な経営だったとは……社員を100名以上も増やした年に、すでにボーナスを出すお金もない、という状況だったのですから。
ここで大ヒット作を連発できれば、今頃は大手ゲームメーカーの一角を占めていたのかもしれませんが。
ただ、当時のゲーム業界というのは、どこもギリギリのところで新作ゲームを開発し、「かいしんのいちげき」を狙っていたのも事実です。
『ストリートファイター』『バイオハザード』『モンスターハンター』などで知られるカプコンが、ファミコン版の『魔界村』を発売するときに、より多くのカセットを作るお金が手元になくて、資金調達のために、高利の闇金融のようなところから資金を調達した、という話を聞いたことがあります。ゲームの出来に自信があったのでしょうけど、黎明期のテレビゲーム産業には「のるかそるか」みたいなところがあったのも事実です。
『ぷよぷよ』を開発した『コンパイル』の社長、仁井谷正充さんは、プログラマーとしては『ぷよぷよ』を開発したけれど、経営者としては、あまりにも地に足がついていなかった。
会社を再建することもできず、2002年に会社は解散してしまいます。その後、仁井谷さんは工事現場で警備員をしたり、専門学校でコンピューター関係の講師をしたりして生計を立てていたそうです。
しばらくゲーム開発の現場からは離れていたのだけれど、勤務先とのトラブルで専門学校の講師をやめてから、再びゲーム開発の世界に戻り、2016年には任天堂の携帯ゲーム機用に新作を発売、『ぷよぷよ』で遊んだ人たちや、その子どもたちからの、応援のメッセージも受け取りました。
現在は、家賃5万円のアパートで、オンライン囲碁や趣味のギターを嗜みながら、次回作の構想を練っている、と書かれていました。
コンパイル創業期から一緒に仕事をしていたゲームクリエイターの藤島聡さんは過去に一度関係を断った。支払いの遅延や不払いが頻発したためだが、倒産後に修復した。「いいかげんだが、本気では憎めない。この人ならまた面白いことをしでかすんじゃないかと思わせてくれる」と期待する。
今のテレビゲーム業界とゲームの進化を考えると、仁井谷さんがまた『ぷよぷよ』級の大ヒットを生み出すのは難しいだろうな、と思うのです。『スイカゲーム』のヒットをみると、まだまだ少数の人間のアイディアで勝負できる可能性はあるジャンルなのだとしても。
ただ、仁井谷さんの栄光と転落、そして、その後の「なんか憎めない」「面白いことをやってくれるかもしれないと期待させる」人生というのは、なんだか羨ましくも感じるのです。
一度きりの人生ならば、積み立てNISAを続けるために生きているよりは、『ぷよぷよランド』とかをぶち上げて大失敗するほうが面白いのではなかろうか。
「積み立てNISA側」の僕は、そんなことも考えてしまうのです。
1986年、「男子のシンクロ」を文化祭で行った埼玉県立川越高校の水泳部のエピソードも印象的でした。高校生活最後の文化祭で爪痕を残したい、目立って女子にアピールしたい、という動機ではじまった「男子のシンクロナイズドスイミング」は、部の伝統・学校の名物となり、のちに映画『ウォーターボーイズ』(2001年公開)につながっていったのです。
1999年に川越高校の水泳部部長だった畠山一朗さんは、大学受験直前に『ウォーターボーイズ』の製作会社から出演者のシンクロの演技指導を依頼され「二度とない貴重な経験だから」と引き受けます。
映画は、厳しいトレーニングによる出演者との軋轢などがありつつも、大成功をおさめました。
川越高校では、2002年の文化祭の来場者が3万人を超えたそうです。プロ野球の試合かドームの人気アーティストのコンサートか、という集客力!
畠山さんは映画公開時、2浪目に入っていた。憧れていた医者になろうと、医学部を志望。予備校に通っていたが、成績は一向に上がらない。
「映画製作に携われたのも何かの縁。業界で生きていくチャンスなんじゃないか」。受験から逃げ出したい気持ちもあって、そんな考えが頭をよぎっていた。
打ち上げで矢口史靖監督に打ち明けると、言われた。「1本だけ映画に関わる人間なんて山ほどいる。君は医者を目指すべきだ」。覚悟が決まった。
畠山さんは、その後、歯科医となり、自分の得意な領域に特化したクリニックを開業し、成功されているそうです。
矢口監督が、まわりくどい、あるいは期待を持たせる言い方ではなく、ストレートに畠山さんを諭したことに、僕は、「こういうのが本当の『やさしさ』なのかもしれないな」と感じました。
また、1986年に「男子のシンクロ」をはじめたときの3年生のひとり、北川𠮷隆さんは、小学館に就職し、幼児や小学生向けの『図鑑NEO』シリーズを生み出しました。「新しいことをやりたい」という意欲は、社会人になってからの仕事でも活かされたのです。うちにも『図鑑NEO』が何冊かあるので、「これを男子シンクロやってた人がつくったのか……」と、感慨深いものがあったのです。
人生って、いろんなところで、つながっている。
そして、ひとつのことでがんばった人には、それを他でも活かせる人もいれば、その「ひとつのこと」を応用できず、生きるのが難しくなってしまう人もいる。
こういう記事を読むと、新聞、というメディアの底力、時間をかけて取材ができる環境と粘り強さを思い知らされます。
ネットニュースの「スピード感」から、こぼれおちていったものが少し見えてくる、そんな新書でした。










