Kindle版もあります。
アメリカにおける福音派の巨大な存在感は、近年よく言及される。
しかし、彼らはどのように影響力を拡大し、トランプ大統領の誕生や再選、あるいは政治的・文化的闘争に関係していったのか。
本書は、第二次世界大戦後のアメリカの軌跡を、福音派とその背景にある終末論に着目して描き出す。
そこからは大統領の政治姿勢はもとより、中絶や同性婚、人種差別、イスラエルとの関わりなど多くの論点が見えてくる。
僕の「福音派」へのイメージは「現代でも進化論を信じない、学校でも教えない」「人工妊娠中絶をかたくなに否定し、同性愛にも不寛容」という狂信者的な集団なのです。
2022年のピュー研究所の調査によれば、4割ものアメリカ人が世界は終わりつつあると信じている。特に米国の人口の25%近くを占めるとされる「福音派」では、その割合は6割を超えるという。彼らにとって、現代の政治的・社会的な対立は、終末に向かう世界における善と悪の戦いの一部として理解されているのだ。
(中略)
米国の福音派は、神の言葉としての聖書、個人的な回心体験、救いの条件としてのキリストへの信仰、そして布教を重視する。複数の集団、教会、個人からなる宗派の壁を超えた宗教集団であり、運動である。アメリカには、長老派やバプテスト派などの多種な宗派が存在するが、福音派はそうした宗派の壁を超えたものとして理解されるべきだろう。つまり、長老派教団の会員でありつつ、福音派を自認する信者も当然存在する。
(中略)
福音派が台頭した背景には、60年代以降の一連の社会変化がある。公教育の世俗化、公民権運動やフェミニズムが掲げた自由と平等の理念、さらには性的規範の変容やドラッグ文化の拡大は、米国南部・南西部の白人プロテスタント社会を中心に根付いていた伝統的な価値観を根底から揺るがした。これに危機感を抱いた福音派は、「古き良き」アメリカ文化を守るため、次第に政治に参画していった。この動きを支えたのが、独特の終末論的な世界観である。
テレビ伝道師たちの集会の様子が伝えられているのをみると、「なんでこんな怪しそうなものを集団で信じているんだ?」と疑問ですし、そういう「聖書に忠実であろうとしているはずの人々」の多くが、人間の欲望と傲慢を体現したようなトランプ大統領を熱狂的に支持している、というのは「何の冗談なんだよ」と思っていました。
この新書では、キリスト教のプロテスタントに源流をもつ「福音派」と呼ばれる一派が、どのようにしてアメリカ社会に浸透し、政治的な影響力を持つに至ったのか、その歴史に沿って綴られています。
通読してみて感じたのは、現代の日本という場所からみた「福音派」は、「非科学的な教えを熱狂的に進行している、理解不能の気持ち悪い、それでいてアメリカ社会にあまりにも浸透していて政治的な影響を持っている集団」なのだけれど、歴史に沿ってみていくと、「福音派」が信徒を増やしていったのには、信じる側にとってもそれなりの理由も合理性もあった、ということなのです。
前述の引用部を読みながら、「古き良き」アメリカって、あんなに歴史が浅い国なのに、と思ったんですよ。
でも、いまの日本でも「古き良き」日本に立ち返ろうと訴える人たちが大勢いて、かなりの支持を集めていて、彼らがいう「古い」時代は、明治維新後とか太平洋戦争前とか高度成長期とかなんですよね。
「伝統的な日本の家族観を取り戻そう」と言いながら、縄文時代とか江戸時代への復帰を求める人はみたことがありません。
こういうのは、ノスタルジーと、「いま、満たされていない自分」と「自分がもらえるはずだった恩恵が、他者に不当にあたえられている」がいりまじった感情でもあるのでしょう。
アメリカの田舎の白人労働者には「この国の基盤をつくったのは自分たち(の先祖)だ」という自負があったのに、「平等」の名のもとにどんどん自分たちの居場所が狭くなり、経済的な成功や政治的な権力が移民やマイノリティに奪われている。
日本に住んでいる僕からみれば、「『平等』『公正』をめざすかぎり、あるいは人種差別をなくそうとするのならば、致し方ないことではないのか」とも思うのだけれど、そんな僕も、車を運転していて外国人労働者たちが自転車で車道に広がって走りづらくなるだけで、「勘弁してくれよ」と苛立ってしまう。田舎の日本人の中高生だってやっていることなんですけどね。
アメリカでは第二次世界大戦後の宗教復興運動において、ラジオが、キリスト教原理主義、福音派の信者獲得に大きな影響を与えたのです。その代表的な存在として、原理主義者で「アメリカの牧師」とまで呼ばれたビリー・グラハムが紹介されています。
1949年9月から12月にかけて、ロサンゼルスで開かれたイベントでのグラハムの様子が、こんなふうに描かれているのです。
奇しくもイベントが始まる二日前の9月23日には、ソ連による核爆発実験の成功を大統領官邸が発表。また、イベント開催中の10月1日には、中国で共産党政権が成立。全米が、世界に広がる赤化の波に震えていたさなかだった。
壇上で自信みなぎるグラハムは拳を振り上げて言う。
共産主義は、たんに経済的な理解に留まらない。共産主義は宗教である。それは、全能の神に戦いを挑んだ悪魔自身によって鼓舞され、指導され、動機づけられた宗教なのだ(Graham 1950)。
グラハムは激しい言葉で、共産主義の台頭を恐れる大衆に語りかけた。
グラハムは続ける。米国はいま内憂外患だという。国内ではキリスト教や道徳が軽んじられ、国外においては悪魔の操る無神論的な共産主義が跋扈する。いまこそ人々はキリストの福音を受け入れ、悪魔との最終戦争に備えなければならない!
2025年の日本で生きている僕がこのグラハムの言葉を読んでも、「誇大妄想にとりつかれているか陰謀論を信じ込んでいるだけだろ」としか思えないのです。
しかしながら、1949年、ようやく第二次世界大戦が終わった、と日本人としてはイメージしてしまうのですが、アメリカは、同じ「戦勝国」であるソ連の共産主義の世界への拡大、次の戦争への恐怖にさいなまれていました。
多くのアメリカ人は、これまでの世界が変わってしまうことをおそれ、「古き良きアメリカ」の象徴としてのキリスト教や聖書に「救い」を求めようとしていたのです。
アメリカでは「赤狩り」と言われる共産主義者排除が社会でみられていたこともあり、「自分が共産主義者ではないことを明らかにするために、キリスト教への帰依をアピールする」という面もありました。
いまの僕には理解しがたいのですが、当時のアメリカでは「共産主義」は社会を揺るがす新興宗教みたいなものだとみなされていたのです。原理主義者側が、あえて、その「二者択一」をアメリカ国民に迫ったところがあったとしても。
その後も、福音派は、移民の増加やリベラルな価値観の浸透にうまく「適応」できない人たちの受け皿になっている面もあるのです。
そして、「昔はよかった」と思っている人々(実際にアメリカは格差がどんどん広がり、白人はどんどん人口のなかでの割合が減ってきていて)は、自分たちが望む「現実社会での政策」を実現してくれる政治家を「福音派」の組織力で「推す」ようになりました。
その力は、政治家にとっても無視できるものではなく、結果的に「政治に強い影響を与えられる」ことが、福音派の力の源にもなっているのです。
いつのまにか、トランプ大統領は、彼らの「救世主」のようになってしまった(福音派のなかには、そう考えない人も少なからずいるそうですが)。
ビル・クリントン大統領の「性的スキャンダル」は大きな話題となりました。あの事件に対するアメリカ国内での反応について、著者はこう述べています。
よく知られているように、クリントンはホワイトハウスのインターンだったモニカ・ルインスキーと性的な関係を持ち、さらにその事実について議会と国民を欺いた。だが、祈祷会での言葉に見られるように、最終的にはその罪を認め、悔い改める。こうした「悔い改め」や「変わろうという決意」は、グラハム流の福音主義の伝統にある言葉だ。
国の最高権力者が自らの道徳的な誤りを認めるのは、容易なことではない。公共の面前で恥辱を曝け出し、謝り、なおかつ、その悔い改めを相手が受け入れてくれると信じなければならないからだ。
もちろん、ドブソンをはじめとする福音派や右派の論客たちは、これさえもクリントンによる国民への印象操作だとして批判した。宗教を保身のために利用したというのだ。また、悔い改めは行為が伴わなくては意味がないとも彼らは言う。ドブソンらの声に押されて、クリントンは弾劾裁判にかけられた史上二人目の大統領という不名誉な烙印を押されるが、結果は無罪。さらには、米国民がクリントンの悔い改めを受け入れたかのごとく、彼の支持率はむしろ上昇し、任期が終わるまで6割を割らなかった。
日本からあの事件をみていた僕は「あんなスキャンダルが出てきて、クリントン大統領はもう終わりだな」と思っていました。ところが、アメリカ国民は、大統領が「謝りを認め、悔い改めた」ことを受け入れたのです。
日本で首相が同じことをやったら、公的な弾劾裁判になるかどうかはさておき、現代ならSNSで大炎上し、支持率も低下して政権は終わったはず。以前、愛人に告発(暴露)されて短命に終わった首相が日本にもいましたし。
アメリカの有権者は「甘い」のか「寛容」なのか、とりあえず日本でずっと生きてきた僕の感覚では理解困難な宗教観・倫理観があるのは間違いなさそうです。
ただし、アメリカの社会全体の宗教観は、世代交代、人種構成の変化とともに、次第に変化していっています。
米国の宗教分布図で、近年、急成長を遂げた「宗派(セクト)」がある。福音派ではない。新興宗教の一派でもない。「ノンズ」というグループだ。「ノンズ」とは、世論調査の宗教の欄の一番下にある選択肢である。つまり、「いずれでもない」(”none of the above")を選ぶ人が今日のアメリカで急増しているのだ。このグループには、無神論者、懐疑論者という明確にキリスト教ではない立場を示す人々から、いずれの教会・宗派にも属さないという消極的な意味でこの選択肢を選ぶ人々も含まれる。それを踏まえて、日本語では「非宗教者」と表したい。
(中略)
しかし、冷戦体制の終焉に合わせるように、状況は変化していく。1972年の時点で5%に過ぎなかった「非宗教者」の割合は、1993年には9%、さらに1996年には12%と倍以上に増加。2000年代にかけてこの傾向が収まることはなく、現在では30%近くにもなった。ただ、近年はこの増加傾向が落ち着いてきた感があり、数字は調査会社によっても増減はあるが、21~37%程度のアメリカ人が自らを非宗教とみなすのが現代のアメリカ社会と言ってよいだろう。ピュー研究所の2023年から24年にかけての調査によると、「非宗教者」の割合は28%であり、これまで上昇一方だったのがやや収まったかのようにもみえる。
福音派が政治的な影響力を強めていく一方で、多くのアメリカ人は教会を離れているのです。福音派の反動的な倫理観や排他的な姿勢に辟易している人も増えているようです。
不安定な世界で、あらためて神や聖書に立ち戻ろうとしていたはずの福音派が、「現実社会」や「政治」にここまでコミットし、実力行使にはしってしまっていることが「宗教離れ」にもつながっているのです。
いまの若者は「日曜日は教会に行って礼拝に参加しろ、とか言われてもなあ……」って感じでしょうし。
福音派は「政治にコミットする」ことで勢力を伸ばしてきた一方で、時代の変化や人口構成・宗教観、そして、福音派そのものの変化によって、今後も右肩上がり、ということにはならないと予測されているのです。
最後に、この本のなかで、印象にのこったところを。
幹細胞研究と進化論教育の二つの事例は、重要な示唆を与える。表面的には、どちらも福音派──社会的な保守派を含む──による科学の進歩への妨害のようにみえる。だが、実はここには目を向けるべき重要な問題がある。たしかに科学は人類の進歩に大きく寄与したが、同時に現代の科学的知識とそれに基づく技術は、環境の大規模な破壊や人間の尊厳を奪う可能性を常に孕んでおり、無批判に科学的な営みを推進する危うさがある。そもそも「環境」や「尊厳」といった概念にまつわる問題は、自然科学を超えたものであり、そうした問題を考えるには自然科学の方法論だけでは解決できない。したがって、科学の定義やその営みは──むしろその発展を望めばより一層──倫理学や社会学や哲学など他の学問領域からの批判にさらされるべきなのだ。
福音派は、直感的にこうした点に気づいていたのかもしれない。もちろん、彼らの主張は荒唐無稽で時として強い調子を帯び、社会的な議論を分断しがちなため、批判されてしかるべきだ。また、真の目的を明示しないディスカバリー研究所の手法には、議論の余地がある点も確かにある。しかしながら、福音派の立場を戯画化するだけでは、現代社会が向き合うべき問題を覆い隠してしまう恐れもある。そうした点からすると、間接的ではあるが、福音派の批判も、とりわけ科学と宗教の関係に関していえば示唆を与えうるものなのかもしれない。
科学・技術の進歩ほど、人間の感覚は急には変われない。昔は「自然の摂理」として受け入れざるをえなかったことが、「技術的にはできるけれど、それをやることが倫理的に許されるのかどうか」を問われるようになってきています。
出生前の遺伝子診断で先天性の障害を持った子どもを「選別」するのが正しいのか?
「臓器提供をするためのクローン人間をつくる」ことも技術的には可能になってくるでしょう。
そんな時代に、なんらかの「拠って立つ倫理的な基準」がないと、歯止めが利かなくなってしまうのではないか、それは「宗教の役割」ではないのか?
「なんか非科学的なものに騙されている人々」だと僕は福音派をバカにしていましたが、こちら側もまた「科学を信頼しすぎて、その暴走のリスクを想像できない人々」なのかもしれませんね。
人が何かを信じるには、信じるだけの事情や理由がある。そんなことをあらためて考えさせられる新書でした。










