琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

自己責任ではない!
その貧困は「働けない脳」のせいなのだ。
ベストセラー『最貧困女子』ではあえて書かなかった貧困当事者の真の姿
約束を破る、遅刻する、だらしない――著者が長年取材してきた貧困の当事者には、共通する特徴があった。世間はそれを「サボり」「甘え」と非難する。だが著者は、病気で「高次脳機能障害」になり、どんなに頑張ってもやるべきことが思うようにできないという「生き地獄」を味わう。そして初めて気がついた。彼らもそんな「働けない脳」に苦しみ、貧困に陥っていたのではないかと――。「働けない脳=不自由な脳」の存在に斬り込み、当事者の自責・自罰からの解放と、周囲による支援を訴える。今こそ自己責任論に終止符を!


著者の鈴木大介さんは、『出会い系のシングルマザーたち』『最貧困女子』などの「社会のなかで取り残され、貧困に陥ってしまった人々」を取材したノンフィクションをずっと書いてこられた方でした。


fujipon.hatenadiary.com


僕はずっと鈴木さんの著書を読んできたのですが、興味本位、という面もたしかにあったし、「本人が自分で意思表示して、生活保護を受けてつつましく生活するよりも、風俗で働いておいしいものを食べたりブランドものを買いたい、というのなら、それを否定するのは難しいのではないか」とも感じていたのです。

僕自身も仕事はけっしてラクでも楽しくもなかったし、身体障害や高度の精神障害で「働けない」人は仕方がないとしても、「働きたくない」「働いたら負けだと思っている」レベルでも「じゃあ働かなくていいよ」となったら、「ギリギリで毎日仕事をしている人」は損ではないのか、そもそも、その線引きはどうやって決めるのか?とも考えずにはいられませんでした。

鈴木さんは、当時の著作について、取材で得た対象者の生活の詳細な「リアル」を発信することで、「障害者差別」や「自己責任論の助長」につながることを危惧して、あえて詳細を書かなかったことを、今は後悔している、と仰っています。

 2015年5月、『最貧困女子』刊行の翌年に僕は脳梗塞を発症し、「不自由な脳」の当事者となったからだ。脳梗塞の後遺症として、「高次脳機能障害」という脳の認知機能障害が残った僕は、かつての取材で「なぜ」と思い続けた彼女ら彼らとほぼ同じ状況に陥ってしまったのだった。
 約束や時間を守ろうとしても守れなくなり、思うように働けなくなった。人と他愛ないコミュニケーションを取れなくなり、簡単な文章を読み解けず、単に人混みを歩くことすらできなくなった。自分でも「どうして?」と思うほど当たり前の日常的タスクがまるっきりできなくなった。
 そしてそんな僕自身の感じる圧倒的な不自由感は、かつての取材の中で対象者らから散々聞き取っていた訴えと、あまりに一致していた。
 彼らに対して感じ続けてきた、なぜ「やろうとしないのか」、なぜそんなにも「やる気がないのか」、なぜそんなにも「ちゃんとしていないのか」等々が、「必死に頑張ってもできないこと」「やる気があってもできないこと」だったと、我が身をもって理解した。


鈴木さんは、自らの脳梗塞発症後の変化を以下のように書いておられます。

 2015年、脳梗塞を発症し、高次脳機能障害の診断を受けた僕は、まさしく前出の正看護師のコメント通りの体験をすることとなった。
 入院病棟内にある小さな売店で、僕は店員が口にした、そして目の前のレジスターに液晶表示されているたった3桁の支払額を、財布から出すことができなかった。
 店員が「788円です」という。だが手元の小銭入れに目を落とした瞬間、もう788の数字が頭にない。液晶表示で再確認しても、目を離した瞬間に788は頭から消える。
 ならば100円玉7枚から数えよう。小銭入れに集中し、100円玉を手に取っていく。だが今度は、数枚数えた時点で、自分がいま何枚の硬貨を数えたのかがわからなくなる。何度も何度も数えては失敗し、振り出しに戻った。
 頭の中の数字が飛ぶのは、液晶表示や手元の硬貨から目を離した瞬間だけではない。店内のチャイム、隣のレジの店員と客の声、果ては店外の廊下から届く人の声や院内のアラーム音など、あらゆる音が耳に届いた瞬間、頭の中で数字を書いてあったノートがボッと燃えて消え去るように、何も残らなくなる。
 その都度「邪魔されている」「脳内の記憶を奪われている」といった苛立ちの感情が胸に膨れ上がり、その場で叫び出したい気持ちになった。


これを読みながら、僕は「そんなことになるのか……」と驚き、いままで普通に自分ができていたことができなくなる当人の不安を想像しました。実際は、僕が思っているよりずっとつらいことなのだろうけど。

周囲は、その人が「あたりまえにそんなことはできていた姿」を知っているだけに、「なんでそんなことができないの?」と、病気だと考えようとしても受け入れがたい気持ちになるはずです。
高齢者の認知症でも「リハビリをすれば、元に戻る」と考えている家族が一定数はいるのだから。


目が見えない、耳が聞こえない、身体の一部が欠損していたり、麻痺が残っている、というのは、傍からみればわかりやすい「障害」で、「その状態なら、できなくても仕方ないよね」と周囲も納得しやすい。
でも、こういう「高次脳機能障害」は、外観上の変化がないだけ、周りも理解しがたいのです。
「どうしてそんなこともできないの? やる気がないだけなんじゃないの?」と。

鈴木さんは、いままで接してきた、貧困に陥っている人々には、このような「高次脳機能障害」を抱えている人(原因としては、先天的なものだけではなく、病気、幼少時の虐待などのトラウマや精神的なダメージによるものなど、さまざまです)が大勢いたのではないか、と仰っています。

鈴木さんは、彼らを具体的に支援し、行政サービスに繋げようともされていたのですが、彼らの多くは、そんな鈴木さんの「この書類を準備しておいてほしい」「〇〇時に窓口に相談に行きましょう」という簡単(に思える)提案に対して、書類はまったく手つかずで、アポイントメントは何度もドタキャン、という状態だったそうです。

結局のところ、「天は、自ら助くる者を助く」なんだろうな、と僕も鈴木さんの本を読みながら考えていたのです。


高次脳機能障害」≒「不自由な脳」について。

 自身がこの不自由な脳になって「彼らの言っていたのはこういう感覚だったのか!」と驚き、やっと理解ができたことに感動すら覚えたポイントがある。それが「事務処理能力の喪失」だ。これは、不自由な脳の当事者が制度につながりにくい様々な理由の中でも、ど真ん中の「症状」である。
 貧困当事者とされる者は共通して「圧倒的に事務処理能力が低い」ゆえに、制度接続が困難。それはかつての取材の中で、強く実感していたことだった。彼らは制度を利用するためのルールなどを理解するのも非常に困難だったし、何より申請ごとに必要な資料の理解や申請書類の記入などを、やはり驚くほど苦手としていた。
 もちろん世代間を連鎖する貧困の中、教育資源を得る機会を失った結果、そもそも生活保護や母子手当等の様々な手当の存在を知らなかったり、「住民票」という概念すら知らなかったケースもあった。
 だが一方で、読み書きに必要な教育の機会は十分あり、それどころか過去に資格職やそのもの「事務職」
経験があった者ですら、貧困状況に陥った彼らは驚くほどに事務処理能力が低く見えたのだ。


役所の申請書類って、僕も苦手です。けっしてわかりやすくはないし、ちょっとした間違いでも受け付けてもらえないこともあります。
でも、「不自由な脳」を抱えていると、「めんどくさい」どころではなく、「どこから手をつけていいのかわからず、一文字も書けなくなってしまう」ことも多いそうです。

鈴木さんは、彼らのそういう事務作業への不適応が、生活保護などの「水際作戦」と呼ばれている、なるべく申請を受け付けないようにしている(とされている)役所の対応と同じレベルで、「保護を受けるための障壁」として機能しているのではないか、とも述べています。

個々の事例に対する対策や、行政、担当者への提言なども書かれていて、「取材者・観察者から当事者となった」著者にしか書けない「高次脳障害」の現実が丁寧に言語化されているのです。

僕はこの本を読んで、「どうしても働けない人たち」のつらさが少しだけ理解できたような気がしました。

でも、その一方で、「つらかったり、めんどくさかったり、すごいストレスを感じていても、なんとか日常の事務仕事をやっている人たち」や「ギリギリ働けている人たち」は、「健常」のカテゴリーに入れられ、「努力 未来 A BEAUTIFUL STAR!」と踊り続けなくてはならないのだろうか、と疑問にもなったのです。

「働くのが楽しくてしょうがない人」はそれでいいだろうけど、多くの人が「働きたくない」と「働けない」の間で、ずっともがいている。
診断基準を満たせば保護の対象になって、それに至らなかったら、「努力不足」として断罪されるのは、不公平にも感じます。
「働かない」と「働けない」は、ゼロか100か、ではなくて、そのあいだにさまざまなグラデーションがあるはずなのに。

これは、鈴木さん自身も、脳梗塞を発症するまでは、抱えていた苛立ちでもあったようです。
そして、「働けない脳」の実態は、自分が「健常」だったときに想像していたよりも、ずっとキツイものだった。

正直、高次脳機能障害の人、ひとりを救おうと思えば、ひとりの人生をまるごと捧げなければならないのではないか、とも思うのです。
メンヘラと結婚して添い遂げるのと同程度の持続的な熱量が必要でしょう。

彼らは間違いなく生きづらく、「働けない」。
でも、いまの社会に、彼らをきちんとサポートするだけの余裕があるのか、みんな自分のことで精いっぱいではないのか。
とはいえ「自己責任論」に全振りしてしまった社会は、将来の自分にとっての地獄になるかもしれません。

どうしたらいいんだろうなあ。
でも、とりあえずここに書かれている「実際にどんなことが『不自由な脳』では起こっているのか?」を知ることは、他者、そして自分を「ゆるす」ためにも大事なのではないかと思うのです。


fujipon.hatenablog.com
fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター